空想と現実の壁は小さくて低いときがある

アンダーザシルバーレイク(バルト9)→エンジェル、見えない恋人(武蔵野館)→かごの中の瞳(シャンテ)とみまして、かごの中の瞳は事故(か?)で盲目になった既婚女子が、角膜提供の手術を経て目がみえるようになると、盲目のときとはまったく違う(というか認識できずにいた)自分の趣味嗜好を全開にしていった挙げ句性欲も解放してしまって、結局浮気をしてしまい、盲目時代に築いた夫婦関係が崩れる話。目がみえるようになった女子が盲目時代に着ていた地味な服をぜんぶ捨てて、自分の好みに沿った派手めな服をまとうようになり、髪も金髪に染めたり、夜の生活も妙に積極的になったりして、盲目時代とは真逆のありさまになってイキイキしていくことに不安をおぼえた夫が、医者から処方された点眼薬に手を加えて・・ていうことなのかな。そこらへんハッキリとは描かれないんですけど、目がみえるようになった女子が点眼薬(抗生物質だっけ)をこまめにさしてくにつれてまた目がみえづらくなってしまう(軽度の拒絶反応が起きる)ので、また盲目時代の何事も起こらない平穏な生活を望んだ夫がなんか細工をしたのかと思わずにいれん。目がみえるようになった女子が浮気してしまう相手というのが犬の散歩中にいつも会う男子で、女子のほうの犬が熱中症かなんかでへばったのでウチで休む?という話になり、そのまま・・みたいなありがちな展開なんですけど、なんか中出ししたらしくて妊娠してしまうんですね。その前に女子をどうにかつなぎとめておきたい夫が子づくりしようと病院で診察してもらうんですが、なんか夫の精子が異常に少ないことから妊娠の可能性が低い・・というか無いことが判明してしまって、そのあとに女子から妊娠報告をされるので、浮気による妊娠てことがバレてしまうんですね。妻であるこの女子が性に奔放になってくきっかけになったのが、里帰りしたスペインでの夜のおとなの歓楽街での出来事なんですけど、姉夫婦といっしょに興味本位でのぞき部屋にいってみたり(ここに入ることを夫は拒否した)、宿泊してるガラス張りのホテルで別室にいるカッポーが堂々とセックスしているのを目撃したりしたことなんですが、夫のほうはそういうのについていけない真面目さんなもんで、性関連にはちょっとウンザリしてるかんじだった。奥さんである女子が盲目だったころのふるまいこそが本性なのだと思い込んでいた夫が、盲目によって本来の性根が封じ込まれていただけだったことに気づいてたじろいでしまうという。本日題はこの映画のエンドクレジット中に流れてた歌の歌詞からのモノ。

エンジェル、見えない恋人は透明人間として生まれた男子が、盲目の少女に存在を感づかれてからお互いに惹かれ合う純愛話。少女は透明男子がみたくて目の手術して盲目でなくなるんですが、透明なので当然見えないわけです。そんで透明男子を認識するために目を閉じて存在を感じ取る。最後のほうで透明男子が化粧されてちょっとみえやすくなるんですが、そんなら最初から洋服とかマスクとかじゃんじゃん着せろよと思う。なにしろ「かごの中の瞳」とは逆で、目を閉じることで相手を認識してお互い愛し合うという物語。

アンダーザシルバーレイクは気になる女子に出会ってから謎が謎を呼んでぐるぐるなる話。その謎つーのが80〜90年代の歌だのゲームだの(それと昔の映画がたくさん、とパンフに出ていた)が絡み合ってて、逆再生して込められたメッセージを解読したり、ゲーム誌の付録の地図で示された場所にいって所定のことをやるとホームレスがやってきて謎の場所に案内されたりといろいろチャレンジするものの女子には出会えない。その探す途上でいろんな女子が絡んでくるあたり、MXでやってた終物語つーアニメにちょっと似てるかんじ。この世で流行った音楽のほとんどをワシがつくったんじゃ〜!といいながら銃ぶっ放してくるピアノ弾く爺さんの破壊されっぷりが凄かった。

罰とか因果応報とかみんなけっこう真面目だなあ

『決して口にしなかった夫に対する女の本音。人前では立派でも、犬にさえ見透かされているミハエルの本質的弱さ。戦死した息子は、生きていた。それで充分だったのに、即時帰還を要求した夫のエゴ。その結果、何が起きたか?そんな男とは、もう一緒にいられない。

 [子どもが生まれる喜びは、やがて薄れてしまうけれど、失った悲しみは、永久に消えないわ]。

 夫は言う。[戦争が終わって帰還の途中、後ろの車に先を譲った。何故だったか分からない。その車は爆破された]。』(「運命は踊る」パンフレットp.4より抜粋)

『彼は、自分の行動がもたらす結果にまったく気づいていないのです。それどころか、彼は正しく、また当然と思える行動をとる。単なる偶然と、運命の仕業に見える偶然との違いがそこにあります。一見混沌に見えるものは、すべて定められたものなのです。罰は極めて正確に罪に見合っている。因果応報、なるべくしてなる。そして、そこには運命につきものの皮肉も感じられます。ミハエルは、息子を救えるという思い上がりゆえに、罰せられるのです。』(「運命は踊る」パンフレットp.8より抜粋)

『検問する側のちょっとした不安や心の変化によって、ルーティーンのような時間の流れは凄惨な瞬間へと暗転する。だが検問される側はあくまで受け身であり、検問する側の変化に抗うことはできない。検問所という場所を共有しながらも、検問する側とされる側はまったく異質の世界に属している。』(「運命は踊る」パンフレットp.11より抜粋)

クワイエット・プレイス(バルト9)→チューリップ・フィーバー(バルト9)→運命は踊る(ヒューマントラストシネマ有楽町)とみまして、運命は踊るは徴兵されてる息子の訃報を告げられて遺族たちが右往左往しているうちに、日頃は隠してる本当の性質がだんだんあぶり出てきたところで訃報が間違ってた(死んだのは息子と同姓同名の別人だった)ことを告げられ、それまでの右往左往がなんだったのかとばかりに父親が怒りを爆発させて、通達にきた軍人らにいますぐ息子を帰還させろと怒鳴りつけて実行させたところ、それが原因で息子が本当に死んでしまうという話。この父親というのが素直に悲しみを表現せず、落ち着かせようとする周囲を振り払って怒鳴り散らしたり、飼い犬が寄り添ってきても蹴りつけて遠ざからせたりとやたら怒りっぽい言動をとって自分は弱くないことをアピールしまくるんですが、ひとりになるとトイレで熱湯を手の甲に浴び続けて火傷を負ったりと自傷行為に走ったりする。当の息子はというと、だだっぴろい砂漠じみた荒野のなかにある検問所で同い年くらいの青年たち3人と共に警備にあたってるんですけども、たまに通るのはラクダだし、車がきてもあきらかに無害な地元民だし、寝るとこはコンテナ(ちょっとずつ沈みかかってる)のなかだし、いろいろグダグダな暮らしを送っている。ところがある夜にきた男女の乗る車から落ちたモノが原因でビビッて機銃掃射してしまい・・という展開。ここらへんはアルマジロやウィンドリバーと同じく「モノもヒトもなにもない砂漠の退屈のなかでそれ(暴力)が待ち望まれてしまう」系譜ですな。弱さが原因でやったことが最悪の結果に、というあたり、強がって無理に息子を引き戻そうとして最悪の結果をもたらしてしまう父親と似ているかんじ。しかも息子のほうは上官の命令とはいえ失敗を隠蔽してしまう。そしてその直後に息子は死んでしまうんですが、パンフみたら監督さんは因果応報モノとしてこれを描いてるそうで。ユダヤ教にも因果応報思想があるのかな。「踊る」というよりもよく言えば「行きて帰りし物語」つーか。もとのところにもどってくる。最終的には息子の両親が別居してしまって(離婚した?)、弱さを隠して強い男ぶってきた夫を妻がなじるものの、妻もまた手の指に自傷行為じみた傷を負っていて、お互い寄り添い合う。最後のほう、息子が死ぬところがあとまわしに配置されてるから夫妻のやりとりがなんなのか最初ちょっとわからなかったりした。あと息子が描いてるイラストでちんこ握ってるシーンがあるんですけど、ボカシなくちゃんと映ってたのでよかった。ちんこの先っぽをボカす思想ってなんなんでしょうね。単なる棒と穴なのに。それと冒頭でたずねてくる軍人が、息子の訃報きいて倒れた奥さんを落ち着かせる?ために注射打つんですけど、手際がよすぎて管理社会SFじみててこわい。夫に水のむことを知らせる時報とかも。

チューリップ・フィーバーは1600年頃のオランダの孤児院兼修道院で育った女子が、金持ちの商人のおっさんとこに嫁いだものの子供がいっこうにできなくて悩んでたところ、気分転換に頼んだ肖像画描きの青年と恋してしまってさあ大変、つーアレ。なんかパンフの中野さん文にでてたんですけど、当時のオランダでは画家がたくさんいて(一般市民が発注してたらしい)、薄利多売してたんで兼業しないと食えないくらい貧しかったらしいすね。主人公の女子が恋する青年も貧しかったんで、彼女といっしょになるために当時流行してたチューリップの売買に手をだすものの・・という筋。なんで画家青年が本格的に主人公女子といっしょになろうと思ったかというと女子の家に勤める女中さんが妊娠したものの相手の魚売りの男が失踪してしまった(彼もまた貧しいためにチューリップ売買に手をだして高値で売れたものの、女中さんが浮気したと勘違いしてフラフラしてたら全財産盗られてしまい、失意のなか外国へ強引に行かされてしまう)ため、じゃあ残された女中さんのおなかの子を自分の子として夫に告げて自分は死んだことにすれば画家青年と暮らせるじゃない!と思いつき、それを聞いた画家青年が一念発起してチューリップ売買で一攫千金を得ることに邁進してくという。ところがこの画家青年があちこちに借金してたらしくて、いざ球根を取りに行こうとすると金貸した人たちが押し掛けて青年を逃さんように押し止めるもんで、なぜか元アル中のオヤジが代わりに球根をもらってくることになって、飲むなよ!ぜったいに飲むなよ!と念押しされたにも関わらず帰途酒の誘惑に負けてしまって球根を紛失(食べたんだっけ)してしまう。 ガッカリして帰ってく金貸し人と青年。おまけに恋する主人公女子の服が川に浮いていて、女子が死んだものと勘違いしてしまう。女子はというと棺桶に入っているうちになぜか改心してしまって金持ち夫のもとにもどるものの、赤ん坊をあやす夫をみてもう戻れないかんじになっていたため、とぼとぼと贖罪の途につく。そのとき女中さんとこには元魚屋の元カレがもどってきて復縁し、その会話(浮気したのは自分の服を借りた主人公女子だったこと)を聞いた金持ち商人夫がなんかもういろいろあきらめ、住んでる家を女中さんにあげて東インド会社に行ってしまう。数年後、画家仕事をするため招かれた修道院で青年が女子と出会い・・ていうのが大筋。この修道院は話のなかで何度もでてくるんですが、孤児院もやればチューリップ栽培もするし、なんか物語の狂言まわし的な重要ポイント。あといちばんかわいそうな金持ち夫が、過去にしでかした件でずっと後悔してるあたりが運命は踊るの夫とちょっと似てるかなあと思ったり。

クワイエットプレイスは聴覚だけが異常に発達した化け物によって大半の人が殺されてしまった世界で、なるたけ音たてないように暮らしてる家族が、音がどうしてもでてしまう状況(怪我したり出産したり)をどうにかやりすごしながら化け物と対峙することになる話。目がよすぎる天津飯に悟空が太陽拳かますエピソードを思い出した。

何もしないから生まれるものがあるよ

プーと大人になった僕(TOHOシネマズ新宿)→死霊館のシスター新宿ピカデリー)→バッド・ジーニアス(武蔵野館)とみまして、バッド・ジーニアスは父親に促されて進学校に転入してきた貧乏な天才女子が、進学校に在籍してる金持ちの生徒たちに請われてカンニングさせてあげてるうちにそれがエスカレートして規模のデカいカンニング計画に発展してしまう話。この女子がどうしてカンニングに加担してしまうかというと片親でお金に苦労してるからで、金にモノいわせて入学したと思しき生徒たち(勉強がぜんぜんできない)から金で釣られてしまうという。最初は消しゴムに解答書いて後ろの席にわたす程度のカンニング行為だったんですが、希望者がちょっと増えたので今度はピアノの鍵盤をたたく指の運びかたを何種類かおぼえさせて、テスト中に天才女子が机の上でその鍵盤たたきをするとそれを見た生徒が示されたとおりにマークシートを塗りつぶしてゆくとゆう。それがうまくいって天才女子には金がじゃんじゃん入るし、金持ち生徒連中はテストで高得点とれるしと利害一致していってしまう。それに気づいたのがやはり片親で貧乏な天才男子で、最初こそ生真面目にカンニングしている生徒がいることを教師に告げ口したりするんですけど、この天才男子をデカい計画に加担さすために留学のかかった大事なテストの前日に暴漢に襲わせてゴミの島?に放置させてしまう。今度は全世界でいっせいに実施される海外大学に入学するチャンスのかかったSTICつーテストでカンニングすることになって、どうやってカンニングするかとゆうとまず天才女子&男子がオーストラリアでSTICテストを受けて、その解答を暗記してトイレに隠したスマホからLINEでタイの金持ち息子たちに送信し(時差があるからテスト開始時間がオーストラリアよか数時間遅い)、金持ち息子&彼女が送信されてきた解答をバーコードにつくりなおして、それを2B鉛筆製造機にかけてカンニング用鉛筆を大量につくって、金を持ち寄ったカンニング希望者に持たせてテストに向かわすとゆう。このSTICつーテスト中はやはり監視がキツくて、トイレに長時間(つっても10分程度)いると告げ口されるし、ここらへんのハラハラ具合もなかなかです。結局カンニングがうまくいってボンクラ息子たちは合格するし、天才女子&男子は大金を手にするしと一見うまくいったようにみえるんだが・・つー筋。天才男子のほうがこの一連の仕事で大金を手にできることに味をしめてしまって、それまでカンニングすらゆるせない正義漢だったのに、普通に働くことすらバカらしくなってリアル犯罪者になりかかってしまっているところがせつなかった。今度はSTICと似たような世界規模のテストにまたカンニング稼業で荒稼ぎしようと天才女子にも持ちかけて、加担しないなら今までのこと全部バラすと脅しまでかけてくるようになる。それに対して天才女子は・・という展開。なんとゆうか金でなんでも解決してしまうとろくでもない人生をあゆむことになりがちなのだなあとしみじみ思った。

プーは主人公が子供の頃にいっしょに遊んでいた動いてしゃべるヌイグルミ(森に住んでる)が、大人になった主人公(過労ぎみで疲弊してる)のとこにどういうわけか現れて、最初は煙たがってた主人公もヌイグルミたちの(5歳児位がよくやるような)遊びにのっかってくうちに何が大事なのかを思い出してく話。原作よんでないんでわからんのですけど「なにもしない」をする、とか赤い風船をもつと幸せな気持ちになるとか、おそらく原作ファンにはたまらん描写なのかなあ。動いてしゃべるヌイグルミはプーさんだけでなくロバ的なキャラとか何匹かいて、彼らが本来いるべき所から姿を消してしまって、プーさんが彼らを探してるうちに主人公のいる場所に来てしまうという。森の木の穴と主人公のいる都会の木とがなんだかつながってしまったらしく。主人公はビビってプーさんをもといた森(遠い)に戻すべく列車で森へ向かったところ、奇妙な鳴き声じみた音が響き渡っていて、単に風見鶏のきしむ音なんですけど、それをとんでもない怪物の鳴き声だと思い込んだヌイグルミたちが怯えて隠れてしまってる。そこへ主人公がやってきて風見鶏のせいだと告げるものの、怯えきったヌイグルミたちは隠れた場所からでてこない。仕方なく主人公が怪物をやっつけるフリを全力で演じた結果、ようやくヌイグルミたちがでてくる。このヌイグルミたちのほかに生の動物(ウサギとフクロウ)も混じっててやっぱりしゃべれるし、どういう原理で動いているのかがよくわからん。主人公のつくりだした空想の友達ってわけでもないみたいだし。このヌイグルミたちは排泄してるわけでもないのに茶ものむしハチミツをなめるし、あの腹ん中はいったいどうなってんだ。都会の木とつながった亜空間と同じ構造にでもなってるんだろうか。んで森までやってきてヌイグルミたちを助けた主人公は会社に戻らなければならず、大事な鞄を抱えて都会へとんぼがえりするんですが、ヌイグルミのひとりが鞄の中身を「大事なもの」とすり替えたことが発覚して急いで主人公を追うことに。その途上でちょうど遊びにきていた主人公の娘さんがヌイグルミたちと出会って、父である主人公を追うべくヌイグルミたちをひき連れて列車に乗り込んでしまう。この娘さんの父である主人公はなんで会社に戻らなければならんのかというと、勤め先のかばん屋で売り上げが落ちてる部門(旅行用かばん制作部)に所属していて、上司から20%の経費削減か部門つぶすかせまられてて、あちこちからちびちびと削減する案を綿密に練り上げた書類を会議に持ち込まなければならないわけです。生真面目な主人公は急いで会議に向かうわけですが、そこに奥さんがやってきて娘さんが会社に向かってることを告げる。捜索した結果娘さん&ヌイグルミたちに出くわすわけですが、娘さん&ヌイグルミが書類をぶちまけてしまって、手元にのこった1枚の紙きれを主人公に手渡すと・・という展開。結局解決策としては旅行かばんを売るために旅行を世に流行らせましょうよ!ということなのかな。なんかプーが都会まで木の穴を通じて来てしまうとことか、奥さんと娘さんが遊びにきてる場所がちょうどプーたちの住む森の近くだったりとか、お子様向けだからこんくらいでいいだろーとばかりにつくったと思しきテキトーなご都合展開がそこここにある。

死霊館のシスタールーマニアにある立派な修道院で謎の怪死があって、バチカンから神父と見習い女子が派遣されるつー話。その修道院は大昔になんとかいう貴族が悪魔を呼び出す儀式をしてそれが成功してしまって、その貴族は踏み込んできた騎士たちに殺されて悪魔よびだした穴も封印されるんですけど、なんかが原因でその封印が解かれててしまって悪魔が棲み付いてる。その悪魔に殺された修道女たちがゾンビ的に襲ってきたりして、前半で姿をなかなか見せない修道女たちのありさまと比べると落差があってビックリします。このアグレッシブな修道女ゾンビに対して神父が聖水をかけた十字架を押し当てたりすると、十字架が突然火を噴いたりして、退治のありさまもわかりやすくてアグレッシブです。最終的に悪魔がでてきた穴をキリストの血(仏陀の歯みたいなもんか)を使って封印する方向になるんですが、そうゆうことはこの城を修道院にすると決めたときにあらかじめやっとくべきなのでは。

周囲があきらめないことも大事よな

『「わたし」が創り出した、アルド。    

 おおきなうさぎのかたちをしたアルドは、    

 わたしを決して放り出したりしない、いつもやさしい存在。    

 心の支え、アルドがいればなにがあってもこわくない。      

 わたしは、アルドに支えられているから、

 毎日を過ごしてゆけるのだと思いました

 もう少し、大人になって、生きているアルドに巡り合えたらいいな。

 と、思います。』(「ALDO・わたしだけのひみつのともだち」 ラムネ色さんの声より抜粋)

『「目に見えない」といっても、それは周りの人にとって見えない、という意味であって、子ども自身は、まるで現実に存在するかのようにイマジナリーフレンドの姿を生き生きとイメージしています。』(イマジナリーフレンドは目に見えないより抜粋)

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スピリチュアルかあさん 見えない何かと仲良しな日々より抜粋)

500頁の夢の束(新宿ピカデリー)→タリーと私の秘密の時間(シネマカリテ)→ブレス しあわせの呼吸(角川シネマ有楽町)→ウインド・リバー角川シネマ有楽町)とみまして、タリーと私の秘密の時間は子供3人の世話に疲弊しきったシャーリーズ・セロンのもとに夜だけ子供の世話しにくる女子がやってきてセロンが癒されて元気になってく話。中盤までこの女子はマジに雇われてて実在してるのかと思ったんですけど、後半の展開(特に飲酒運転で事故ったときとセロンが入院してるとき)の様子をみるにつけ、どうもこの女子はセロンが生み出した空想の友達っぽい。ということは夜に赤ん坊の世話をしてるのは結局考え方を変えたセロンだった、てことになるのかな。事故で入院した際に病院の先生が「(セロンが)極度に疲弊しています」て夫に告げてるとこをみるとよけいにそう思ってしまう。しかしセロンは人生にくたびれきった役やることが多いような気がするけど、そういう役が好きなのかしら。産後のストレスから腹がでて太ってしまったありさまがリアル。終盤でそれまで育児に加わらずにいた夫が、なにもいわずにセロンを手伝いにくるところからして、夜だけくる女子とのやりとりは夫との関係をやりなおすために必要な時間だったんだなーと思った。

500頁の夢の束は生活上の決まり事をいちいちメモ帳に書き付けて厳密に実行しないとうまく生きてゆけない自閉症のダコタファニング(21歳)が、大好きなスタートレックの脚本コンテストに自分の書いた作品を提出するためにロサンゼルスまで数百キロの旅をする話。最初はロス行きのバスにうまく乗り込むんですけど、ついてきた犬が放尿したせいでバスから下ろされて以降、泥棒夫婦に金とられたり、コンビニで出会った婆さんに気に入られて老人ホーム行きのバスに乗ってたら居眠り運転で事故られて入院したものの、うまいこと脱出してロス行きを再決行しはじめたりといろいろあります。ダコタファニングは似たような症状の人たちが暮らしてる館で生活してるんですけど、そこでみんなの世話をしてる寮母さん的存在の女性がダコタファニングがいないことに気づいて警察に連絡したうえ、ダコタファニングのお姉さんと共に車で追いかけてくる。その途中、ダコタファニング失踪情報から警戒してた警官にみつかってしまい、絶体絶命なとこで警官のひとりがクリンゴン語(スタトレ中にでてくるキャラのしゃべる言語)でダコタファニングに話しかけてきたもんだからおとなしくつかまってしまう。その途中だか前なんだかちょっと忘れたんですけど、ダコタファニングが書いた投稿用のスタトレ脚本を落として地面にぶちまけてしまい、そのままダコタファニングが逃げてしまうんですが、ダコタファニング捜索のために寮母さんと同行してきた寮母さん息子がスタトレのことをよく知ってて、地面にぶちまけてあったダコタファニングの原稿を読んだら絶賛してくれたりして、思わぬところでスタトレファンに出会えたのは幸福なことだったんじゃないのかなあと思った。スタトレ友達ができればいろんな話していろいろ書き広げることもできそうだし。んでいろいろあって投稿受付所までたどりつくんだが・・て筋。ダコタファニングはロスまでの道のりで日頃寮母さんから禁じられてたこと(渡っちゃいけない場所を渡る等)を破って前に進んでくんですけど、そのたびに新しいことを覚えていったりしてて、成長するためには禁止事項を乗り越えて克服していくことが必須なのだなあと思った。ここにおける禁止事項つーのは自閉症者当人のためでもあるんだけど、実は世話する人の手間を省くためのものでもあるんですな。いちいちひとりずつ構ってたらやってられないから、効率よく暮らしをまわすための「決まり事」をガッチリ自閉症者当人に覚えさすとゆう。

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ブレス しあわせの呼吸は実在したロビン・カヴェンディッシュさんという方についての映画。このロビンさんは1950年頃に茶葉の買い付けでケニヤにいた際にポリオウイルスにかかって脊髄の細胞がやられてしまって、首から下が麻痺して人工呼吸器がないと生きていられない状態になってしまうんですけど、最初こそ自暴自棄になって死にたい死にたい言うものの、気の強い奥さんや発明家?の友達に支えられて生きることに積極的になってく話。体が動かせない状態の患者がたくさんいる病院では人工呼吸器を移動さす自体できっこないと思われていたんですけど、奥さんはそれをよしとせず、人工呼吸器と共に夫であるロビンさんを自宅に連れ帰る。一応それはうまくいくんですが、人工呼吸器を動かすコンセントが外れてしまったりして冷や冷やする展開も。そんなこともありながらもどうにか動かせる首から上を使っての呼び鈴を友達がつけてくれたり、人工呼吸器を搭載した車椅子を開発してくれたおかげで、家族で外出したり海外旅行したりするようになる。医療の専門家が無理だということには新しい発明をするための種が潜んでいるんですな。というか、500頁の夢の束のダコタファニングが暮らす家の寮母さんじゃないけど、世話する側が自らの手間を省くために面倒な事(=やったことがないこと)を忌避する方向になりがちなのかもしらん。んでロビンさんは発明家の友人と共にいろいろ新しい発明したり従来のもんを更新したりして快適に暮らすようになって、呼吸器付き車椅子の普及に尽力していく。その途上で招かれた(んだっけ?)ドイツで、全身麻痺の患者たちが無菌室のような真っ白な病棟でまるで植木のように並べられて首だけだした状態で「世話」されてるありさまを目にする。ここのシーンがまるで管理社会SFみたいでゾッとした。そのあとの演説で自分を引き合いに出しながら全身麻痺でも動いて生きられることを主張したら全面的に受け入れられてたからよかったけども。パンフによるとロビンさんはこういう活動が評価されて国から勲章もらったりしてたんですな。んでロビンさんは60代になるまで生きるんですけど、人工呼吸器を長年つけていると陥りがちな状態(肺の細胞?がちょっとした振動でも摩耗して出血してしまう)になってしまって、しょっちゅう出血するんで、結局はあれは安楽死したということなのかな。この映画のプロデューサーさんがロビンさんの実の息子だから間違ってはいないんだろうけど。なにしろどんな状態に陥っても工夫しだいで人間どうにでもなるんだよ的な作品でした。ちなみにこの映画の宣伝ポスター(映画館のロビーに貼ってあった)にアグネスチャンのコメントがあって、ポリオ根絶まであと1歩!的なことが書いてあって、いろいろ便乗するんだなあと思ってたらオープニングクレジットかなんかで日本ユニセフって出てたのでなんかもやもやしました。ポリオ根絶はいいけどエロ漫画根絶掲げる(まだやってんのかな)のはいいかげんにやめような。上記画像はここから抜粋したブツ。

ウインド・リバーはジェレミーレナー(アベンジャーズホークアイ)がかっこいい映画。話としてはインディアン居留地で起きた殺人事件にFBIの女性捜査官がハンター稼業のレナーと協力して真犯人に迫るというモノなんですが、アルマジロつー映画と同じで「モノもヒトもなにもない砂漠(今作は雪)の退屈のなかでそれ(暴力)が待ち望まれてしまう」状態を描いたモノだった。しかもコレも実話に基づいてるとゆうことでシャレにならん。スノーモービルをかっ飛ばさないと凍ってしまうほどの酷寒のなか、裸足で雪の中数km歩いて死んだと思しき女性の遺体が発見されて捜査がはじまるものの、死因が凍死だと立件できないとかなんとかで難航する。そんな中、死んだ女性の彼氏の名が判明し・・ていう筋。この映画の前にやってたブレスでも肺が傷ついて出血するってやってたけど、ウインドリバーも酷寒の空気を吸い込んでると肺が傷つくかなんかで出血して窒息するシチュエーションがでてくるよ。なにしろ弱い者(真犯人含む)から真っ白な雪に翻弄されて死んでいく(=強い者しか生き残れない)壮絶な環境を描いた作品。ハンター稼業のレナーの雪原を熟知したありさまと、銃を放てば百発百中なのがかっこよかった。

全員が傷ついているのです

『僕はムスリムの家庭で育ちましたが、両親も僕も信仰心はありません。コーランをまともに読んだことすらないんです。ただ、レバノンムスリムは、左翼ムーブメントに属してパレスチナを応援し、僕の両親も内戦時代は武闘派として親パレスチナ・ムーブメントに参加していました。僕の3人の従兄弟は、パレスチナのために戦い、キリスト教徒の民兵に殺されました。1975年に内戦が始まったとき、僕は12歳でしたが、キリスト教徒に対して深い嫌悪感を抱いていました。ジョエルは僕とは正反対に、極右のキリスト教徒の家庭で育ちました。それで、小さい頃の僕が最も嫌悪していたタイプの人間であるトニーと男性弁護士のパートを僕自身が、ヤーセルと女性弁護士のパートをジョエルが書いたんです。かつて「敵」とみなしていた人物について書くことで、僕もジョエルも自分自身を見つめ直す作業をしました。』(「判決、ふたつの希望」パンフレットp.16より抜粋)

『何事にもそつのないレバノン人の多くは、社交の場では宗教や宗派、党派の違いなどまるで感じさせないこなれた振舞いを見せるが、その実、彼らは互いの違いを極めて強く意識している。初対面の者同士は互いの名前や身なり、アクセサリー、言葉の訛り、住んでいる地区によって素早く相手のバックグラウンドを把握し、緊張をもたらすかもしれない言動を回避するよう努める。こういった一種のプロファイリングを脳内で瞬時に行うことはもはやレバノン人としての習性のようなものである。いや、外国人である筆者自身、ベイルートに暮らしていた頃は無意識のうちに同じことをしていた。

 タクシーに乗りこんだらまずはバックミラーとフロントガラスをチェックする。ミラーからぶら下がっているのが十字架のついたロザリオ(まさにトニーの車のミラーにもかけられていた)か、あるいはタスビーフムスリムが使用する数珠)か。フロントガラスに貼ってあるステッカーはマリア像か、政治指導者の写真か、あるいはクルアーンの聖句か。カーラジオから流れているのはレバノンの歌姫フェイルーズか、あるいはナシードと呼ばれるイスラームの宗教歌か。これらの情報をもとに運転手のプロファイリングを行うことで安心して会話に入っていくことができるのだ。』(「判決、ふたつの希望」パンフレットp.20より抜粋)

 『どうしてそれが嫌いなのか、そのことに意識を向けてみてください。「どうやって嫌いなものから遠ざかるか」ではなく、それが嫌いな理由を探してください。嫌いな理由はあなたの内側にありますから、それはあなた一人で解決がつきます。嫌っている原因が見つかったら、あなたはもう二度と逃げ出す必要がなくなるのです。』(加害者より抜粋)

リグレッション(16日。武蔵野館)→ヒトラーと戦った22日間(武蔵野館)→判決、ふたつの希望(シャンテ)と観まして、判決、ふたつの希望は工事現場で仕事してたら隣のアパートのベランダの排水管から水が直で流れてきて濡れるんで、アパートの主には何も言わずに勝手に新しい排水管を取り付けたらそれに気づいたアパートの主(トニー。キリスト教徒)がなぜか怒りだして新しい排水管を壊してしまう。それをみた工事現場の監督(ヤーセル。パレスチナ人)が悪態をついたもんだから更に怒って工事現場監督の所属する建設会社の事務所に乗り込んで監督当人から謝罪するよう求めたところ、トニーの経営する自動車の修理工場に事務所所長といっしょにヤーセルがやってくる。所長はヤーセルが難民で不法就労であることを知りながらも真面目で仕事もできるヤーセルを擁護したくて場をおさめようとするものの、怒りでカッカしてるトニーはヤーセルに暴言を浴びせてしまい、カッとなったヤーセルはトニーをぶん殴って肋骨を折る重症を負わせてしまう。トニーはなんで排水管を壊したかというとそれを取り付けたヤーセルの訛りに気づいたから=パレスチナ人と気づいたからで、日頃からパレスチナ人出て行け的な人の演説を仕事中にも見聞きしてるほどの極右思考の持ち主なのも手伝っておさまりがつかなくなっちまったんですな。ヤーセルをカッとさせた暴言つーのも(パレスチナ人難民キャンプでの虐殺を指揮した)シャロン(元イスラエル国防相)に殺されてればよかったのにな!ていう内容で、簡単に言えば「死ねばいいのに」ていうアレです。当然ヤーセルは謝罪なんかするわけもなく、暴行されたトニーは弁護士のとこいって告訴することになるんだけど、トニーのほうの弁護士は賠償請求に躍起になるし、ヤーセルのほうの弁護士は人権侵害を主眼に置いて戦おうとするし、パレスチナ人に謝らせたいだけのトニーの思惑から離れて事が大仰になっていってしまうという話。傍聴席でも暴言が飛び交い、マスコミに取り上げられてからは暴動が起きたりトニーに嫌がらせが頻発したり、悪目立ちに危機感を抱いた建設会社社長によってヤーセルが解雇されてしまったり、社会的におさまりがつかなくなってるのをみた大統領が二人を説得したりといろいろ起きるんですが、それでも謝罪には行き着かない。ただ、周囲が大騒ぎに発展してしまったのに嫌気がさしてか、車のエンジンがかからないで困ってるヤーセルをトニーが助けたりと少しずつ冷静さを取り戻してゆく二人。そんな中、トニー側の弁護士がトニーの過去までほじくりかえした結果、トニーがパレスチナ人を憎む原因が明るみに出る。トニーは幼少期に住んでいた所でパレスチナ人たちの襲撃に遭い、命からがら父に抱えられて逃げた過去があった。映画の序盤でトニーの奥さんが引っ越しを提案するものの、まったく受け付けないトニーには拠点を移すことに対するわだかまりがあるからなんだろうか。お互いの似た出自がわかったところで、ヤーセルがひとりでトニーの仕事場にやってきて「歯やられたら歯で済ませときなさい」的な決着をするのがよかったです。男は拳で語るのか!と一瞬思ったけどあれ長引いたらまたケンカになっちゃうからな。あと物語中に「中国製じゃなく純正品がいいよ」的な国産品バンザイ話が差し挟まれているのはキャラの極右感を増すための演出なのかな。二者対比といえば対決する弁護士が親子であるというのも親子ゲンカ的にカッとなってしまいそうな危うさを演出してるふうなのも面白かったし、あとカッカしやすいキャラのそばに身重の妻を置いて口論さす、てのがDVスレスレ感を想起してしまって冷や冷やしますな。物語的には解決するんですけど、弁護士費用とかどうなったんだろうな。トニーのほう、特に費用高そうだったけど。

ヒトラーと戦った22日間はソビボル(調べたら三大絶滅収容所とかいわれてるのな)つーユダヤ人収容所でナチス兵たちの傍若無人ぶりにはらわた煮えくりかえったユダヤ人たちがナチをひとりずつ殺していって脱走にこぎつけるまでの顛末を描いたものなんですが、いじめっ子が殺しの権利を与えられたらそうなるだろうなあ的な蹂躙ぷりがよかったです。手に職のない女子供はシャワーと偽ってガス室で皆殺し、彼らから剥ぎ取った宝飾品をおもしろ半分に身にまとってはしゃいだり、よい戦利品を渡すと褒美としてコニャックを差し出されるもののユダヤ教の戒律で酒が飲めないと正直にいうと俺の酒が飲めねえってのか!むち打ち25回!数えまちがったら最初から!だの、この切り株を5分以内に切れなかったら10人にひとり銃殺な。(脱走者が出ると収容者全員をひざまずかせて10人にひとり銃殺していく見せしめが基本)だの、ちょっとした理由ですぐに銃殺するもんだからみんな震え上がって脱走をクチにすることもできない。そんなときにある小屋で女子がナチス兵に強姦されそうになって、とっさにそばにいた男がナチス兵を首り殺してしまう。それに着想を得て「誘惑で釣って殺す」作戦を決行することになり、ナチス兵それぞれの好みを知り尽くした人がおとりの皮コートを餌にひとりずつナチをおびき出して殺しはじめる。んで殺して奪った銃でもって常駐しているナチス兵を殺して脱走する計画が実行されるわけです。これはすんなり行われたわけでもなく、なかには殺しができない人や、殺したことでトラウマを負ってしまう少年などもいる。んで計画実行日には正面突破で脱走するのだが・・ていうのが大筋。クリストファーランバートの鬼畜ナチス上官ぷりがなかなかハマっててよかったです。

リグレッションはイーサンホークが小娘に振り回される映画。悪魔崇拝つったら顔面白塗り黒フードで!小動物や赤ん坊を切り裂いて!食ってー!!ていう画ヅラを刷り込まれてうなされる人続出してFBIまで調べてたんだけど・・的な話。悪魔祓いを詐欺稼業としてる男が最後にリアル悪魔に出会ってしまうなんとかいう映画のが面白かったな。

「被害者をやめる」てのは宇宙エネルギーさんのすべてを受け入れてあげれる状態になるってことなのね

『両極を学び、両極を体験することによって初めて真ん中、すなわち無極(ニュートラル)を知るのです。これまでの永い転生の歴史の中で、人を殺した体験のない人はいないと伝えられました。殺す体験をし、殺される体験をして真ん中を学びます。優しく思いやりのある人間を体験した後は、意地悪で独りよがりな人生を体験して、その両極の中心点が分かります。切れ者で英才を演じた後は、愚鈍で仕事の出来ない役を体験して、二極のバランスを図ります。名歌手を演じた後、次の転生で音痴を体験して、ねたみの気持ちを味わいます。真ん中そのものを体験することの出来ないこの世界で、二極の両極を体験することによって真ん中を知ろうという筋書きのようです。』(遍在するものへより抜粋)
・基本的に地球上のもんが滅ぶのは生み出す無限循環を上回るペースで獲っちゃうのが原因だそう。資源は無限にできるのだけど、それが生み出されるペースはわりと遅いんだよ。「無限にでてくる=生み出されるペースも使うのを上回るほど早い」的な考えを自動的に抱いちゃうあたり傲慢かどうかすら自覚できなくなってんのな。あと無限生み出しを上回るほど使ってるのに加えて「(資源獲った時に)感謝しない」「(絶滅しそうなモノを)救いたい的な人の願望実現さすために宇宙エネルギーが適度に滅ぼしてる」がコンボで畳み掛けてるあたりが追い打ちかけてるぽい。
・毎月恒例の生理痛がきたんで、痛みに意識を集中さしてみたら「傷ついた記憶」がいっぱいでてきたよ。へんなことされて、それにうまいこと対処できなかった口惜しさとかいろいろ絡み合ってたよ(1つの感情じゃないから複雑なって痛いのね)。きちんと向き合うと痛みがなくなるのな。しかし自分ではその経験に関して傷ついたとは自覚しとらんかったな。実はトラウマなってた模様。わし我慢しちゃうしなー。なんかさ、いろんな霊がおいらのからだのあちこちに入り込んでてわがままゆったりするんだけど、それと同じで自分の体に起きる「痛み」てのは自分の心がなんらか訴えかけてきてる証なんだな。ツラいよ!うわーんていうかんじの。あの経験ツラかったな、て向き合いながら痛い部分をなだめてあげるとやわらぐよ。このツラさに向き合えてないよー!ていう信号があらわれてるのね。恐怖てのがそれと認識できないほどにアチコチに刺さってしまってるふう。
・宇宙エネルギーさんが仕事を促してくるままにやってると「すんなり循環」が起き続けるのをこれまで実感してんですが、時間や状況をまったく勘案してもらえない…というかコッチの常識とは無縁のアレなので、マジに思い込みを全部捨ててあたらないと循環が即断ち切られるかんじがする。なので今んとこ就寝時間とかがムチャクチャだ。でも体こわしたりはしてないな。精神的にもこれ以上ないほど安定してるし。ふしぎだ。自分の手がけようとしてるコトが「(宇宙エネルギーから)もたらされた仕事」となんらかの恐怖心から「やらねばならない」と思い込んでの行動のどちらなのか、すぐに判別つけられるようになるといいんだがな。いまだに「宇宙エネさんの持ってきた仕事」を差し置いて「タダ券あるから使わなきゃもったいない!」て恐怖心のほうを優先させてしまいそうなときがある。そんなときは木フダの神仏像がうなづいたり首横に振ったりして教えてくれるんだが。ありがたいことこのうえない。彼らが来てくれてなかったら気づけなかった案件だらけだぜ…。いなかったら気づかずにぐうぐう寝ちゃった日がいっぱいあったろうな。あと大体これに沿ってるのでギリギリ認識してはいるんすけどね。神仏もがカートグラフィ進行に沿ってるとこみるとアレ自体がガチなんだな。あの法則よく見つけたな創始者の人。津留さんレベルにすごいぞ。ぜんたい否定されたと思い込むことでそうなってしまうあたりの鉄壁の平等ぷりを誇る宇宙エネルギーさんを使いこなすに赤ん坊さんの精神状態がベスト、つーことです。中道と空は赤さんが体現しているのだな。そういえば体の痛い部分て、なだめだしてから気づいたんだけど、自分のなかの赤ん坊さんが泣きわめいてるのをいたわってあげてるふうなかんじだよ。
・霊能者さんにありがちな人助けを止められなくて体こわす、てのはその時点で二極思考にがんじがらめになってるてことですよ。まさしく他人は自分のバランス悪いとこを教えてくれる鏡なんだな。その都度わいてくる感情味わう(過程)のが大事なのであって「どういう人になるか」(結果)がゴールじゃないんだよ。どんな状態でも尊いんだよ。とりあえずそんなことしたらいけないて考え方をしなくなるとちから縦横無尽に使えるようになるみたい。自分をむきだしにすることで相手自身が内観する機会を生み出す件もセットでドゾ。すべてが学びになる仕組みのなかでは迷惑なんて存在しないんだね。ちなみに「神のすがた」はどんなもんかというと、現世で生きてる人間全部を合わせたふうなもんみたい。いろんな姿になっていろんな立場を経験してんだな。地球上にいる数十億の分け御霊についてすべての観点が尊いと気づくには二極ぽっちの考え方じゃ足りなさすぎるしねえ。コントのネタだとか諷刺を許せず消し去るまでやる人、てのは「結論がすべて」(=たどりつくべき「真実」以外は間違ってる)と思い込んでるんだろうな。苦しみをたんのうするために必要な思考構造なので、結論は1つきりと思い込みがちなのはしかたないんだけども。結論を得るために生きてるんじゃなく、いろんな立場からの意見をたんのうするのが目的なんだよ。ちなみに美食漫画の作家さんは恐怖を捨ててからもういちど福島を体験しなおしてみるのが必要なんじゃないのかな。この件の問題は描き手が「恐怖に駆られた精神状態」でしか物事をみてないことだけ。でも件の作家さんが「恐怖を捨てられてない」状態なのが鼻血だした漫画で表現することによってわかったからよかったじゃん。「描くな」「載せるな」を是としたらこの作家さんがどういう精神状態なのかすら知られることもなかっただろうし。「いいor悪い 」の観念を捨てないことにはその立場にたどりつけんよ。対処法については大方触れたけど、何も通じない人にいくらゆっても意味がないからやめるよ。昨日漫画弾圧が推進されてるのをニュースでみながら、目前に楽園の扉があってもいがみ合うのに夢中で気づかないんだなーとしみじみした。苦しみを体験するための否定循環をつづけるかぎりはミロク世から遠ざかってくのに。地獄を選んだのね。表現の自由が条件付きになった時点で次の世界に行かない表明してたも同然だったのかもしらんが。仕組みを明かされてさえ疑い続けて「他者を否定しながら互いを食い潰すのが正しい」とばかりに恐怖で自滅してゆく神の姿をしっかり目に焼き付けようと思います。これまで読んでくれてありがとう。いろいろ書けてたのしかったよ。
 
日記 おわり

「〜しなければならない」がヒトをバカにしてる件

『他人と競う必要がどこにある。天恵は無限であるぞ。無限に生きとし生けるものすべてが、何不自由なく暮らしていけるよう仕組みたのが、この地球ぞ。無限に循環する仕組みぞ。無限なる天恵を、なぜに有限と決め付けるのか。』(火水伝文より抜粋)
・資源たりなくなるんじゃ…て恐怖に駆られて行動してるとたりなくなるらしいんだが、資源使うごとに感謝してれば無限に増え続けるみたいよ。戦争がはじまる理由の根本には資源枯渇への恐怖心があるんじゃないかと思うけど、そのテの思いがまま資源枯渇をまねくみたい。恐怖を捨てて資源への感謝をしはじめないことには資源はへるいっぽうなんだな。領土獲得に躍起になるのにしろ兵器捨てれないにしろ「他者への恐怖」が根源になってるんだろうけど、その恐怖抱えてるかぎりは恐怖感にまみれた現実ばかりを宇宙エネルギーが実現させてってしまうよ。企業内で突飛なアイデアが潰されがちなのも「失敗したら…」的な恐怖心からなんだろうけど、まず恐怖を捨てないことにはそれが活かせるもんかどうかも判断することができんでしょ。世の中で問題と思われてることって大方は無用な恐怖に勝手に囚われてるだけぽいよ。
・「しなければならない」て思い込んで渋々やってる事ではほんとの才能がだせずじまいで終わるくさい。そもそもの心根に義務感やムリヤリ感しかないから、宇宙エネルギーは個々に備わる喜びをいっさい感知せず「義務で仕方なく…」的なくたびれきった現実を淡々と叶えてくふうになるんだな。そうなると永久にくたびれた灰色の毎日と、そこから派生するつまらん結果の循環しか起きんわけだ。ストレス解消にチカンしたりイジメやったり、てのが横行してる部署だとかずさんな仕事ぷりが放置されたままの箇所てのはおそらくそのテの「ヤだけど渋々やってる」的なヒトばっかしになってるんじゃなかろうか。世の中には村木さんみたいな真向きのヒトがちゃんといるんだから、ムリにやる気のでない仕事をやってても誰のためにもならないよ。そもそもの努力のベクトルが間違ってるからいつまでたっても報われないと思う。現世で人間に備わる神仏のちからをまんべんなく使うには「うれしさ」や「たのしさ」に忠実に生きればいいだけでしなければならない(←キリスト教思考そのものな)ことなんてひとつもないんすよ。宇宙エネルギーになにを共鳴させるか、てのがすごく大事てだけで。ウンザリやってればウンザリな現実になっちゃうし、たのしーてやってればたのしー現実になるふうに。究極的には「どんな経験も楽しめる」ようになれば世界中でその循環が起きて楽園的なもんが実現してくことになるんだろうね。ただ宇宙エネルギーさんてのは扱いがちょっとばかり難しくて、二極ありきの欲求を受けると対極要素をちゃんともたらしてくれてしまうらしい。たとえば「人助けしたい」て望みを抱くと、よしきた!とばかりに宇宙エネルギーは「助けを必要とする人(や状況)」を差し出してくるんすな。困ってる人がいなけりゃ助けたい願望は叶わんわけで。ここらへんからすると「平和」を望めば望むほどに「平和でない状況」がどんどん起きることになるんじゃねえのかな。平和を実感するにはそうでない状態でなけりゃわかりませんからね。非道行為にしてもあの世では味わえない苦しみを味わうためにあるらしいんで、この世に生まれついた時点で脳の構造がそういうことをしやすいようにインプットされてるとしたら止めようがないような気もするし「否定をぶつければ否定しか返ってこない」的な教訓にするにはヒドい行為ほどより効果的になるのもたしかではある。痛みにしてもよくよく向き合えば原因がでてくるらしいところからして、ムダな経験はひとつもないんすな。尚、宇宙エネルギーが恵みを与えてくれる前段階でヒトからするとヤバい事案にみえる状況が差し出されたりもするらしいんだけども、なにしろ全部まかせとけば結果的にうまくやってくれるらしいです。
これ遊就館が戦犯礼賛してるのと同じね。どの国も「自分じゃなく他人が悪い」表明をするのには熱心だけども、自分がやらかしたことの検証は避けてしまうものなんだな。反省するのってむずかしいよね。反省したことない側が反省求めても自分の態度跳ね返ってくるだけだろうし。やらかしたことを反省さす構造について裁く人がどうこうより「加害側に検証させる」を中心に置くシステムにしたほうがいいと思う。ちなみに人を裁く自体が(自分がなぜそう感じるのかに向き合わなくなるので)責任放棄そのものなんだそうです(5/12追記)。