ユダヤの人やチェコの人ってちゃっかり得してる的キャラ多いような



ゲンスブールとおんなたちは音楽・文学的才能豊かな男が仕事で関わったイイおんなとの情愛をたんのうしつつ作品づくりに邁進してく人生模様を描いた実録おとぎばなし風の作品ですが、単なる天才イチャイチャ映画だと踏んづけたいですけど、ゲンスブールさんは広島の空に飛行機雲でピカッて書いたりピンクのゲロ吐いたりするのと同レベルの下劣ネタを世間に飄々とぶちまけ続けて、同時進行で有名文学作品の1節をそらんじてたらしこんだおんなとイチャつきつつ音楽に恍惚となったり気が向きゃ絵もサラサラ描くっつー骨の髄からの芸術家野郎です。ゲージツたしなんでイチャイチャしてるだけなら欧米じゅうにころがってる貴族なだけですけど、スポーツ新聞のピンク面並の下品歌謡をイイおんなどもに歌わせたうえ、歌ってるおんなたちも大喜びでゲンスブールさんにむしゃぶりついてくるとゆうふうまでなればセクハラという文字など存在すらしなくなります。そもそも根っからの貴族はあくまで自分の快楽だけに労を費やすもので、市民のために危険犯してまで娯楽提供したりはしませんからね。そこがゲンスブールさんが単なる貴族ではなく生粋ゲージツ家たるゆえんです。それとたしか宣伝映像で「ゲンスブールはブサ男なのに美女と数々の浮名を流して云々」みたいなふうに流してましたけど、劇中ではゲンスブールさんが自分がブサ男なことを気にしてるようすなんかちっともなかったような。なにしろピアノがありゃ弾き語りしながらけだるい曲調でおんなをうっとりさせといて、歌詞のなかになにげなく「チューしたいな」「きみを抱きたい」みたいな意味の言葉を(気の利いた文学調で)さらりと流し説いてむりなくそうゆう展開にもってゆく百戦錬磨ナンパ師っぷり。いつなんどきもおんなとヤることしか考えてないんだなーと思った。口説かれたおんなたちもゲンスブールさんのそらんじた1節がだれのなんて作品からのもんなのかをだいたいわかってるあたりとかみてて思ったけど、フランスの芸術関連のもんがおサレつーか「洗練されてる」ことはたしかで、それはモノの形だけじゃなく「知」に因るところが非常に大きいんだよ。そこをポンニのフレンチ崇拝ギャルは完全にみないフリしてんだよなあ。なぜかというとポンニのギャルは体育会系出身者が多数を占めるからなんじゃないかと思う。中高あたりのクラス内で化粧や服に異常に気を使って派手な言動をする一派てかならずいるけど、かならず体育会系なんだよね。文系では決してない。文系女子は派手なギャルが淫する世界にまったく興味を示さないし、体育会系女子は文系のたのしみなど知ろうともしない。でも、真の洗練というのはそのどちらの世界でもたのしめ、ある程度の知識を持っているということが最低限の条件というかさ。どっちかだけじゃだめなんよ。それにいくらブランド品もっていようと知に親しめないかぎりはいつまでたっても「洗練」にはたどりつけない。文系知識といってもただ表面的に知ってる程度の丸暗記でじゃなく、特定の作家に対する自分なりの意見や見識がでてくるまでたのしめるくらいをあたりまえにこなすレベルで。それがわからない時点でフランスの「おサレ」をなにもわかってないってことだよ。「おサレ」だと巷でだれもが語る風説の根がなんなのかを自分で確かめることもしない。ただみんながおサレだなんだともてはやしてるモノだったからのっかって最先端やってる気でいる草食動物の群れの1匹。頭を使うということが「洗練」にたどりつくためになによりも重要な点なのに、ポンニのフレンチ大好きギャルはその真逆で脳みそをよりカラッポにする方向に全精力を傾けて悦に入ってるのな。そういえばさーたまに目にする「日本ブランドのデザイナー服」と「欧米ブランドのデザイナー服」を並べて見比べるとさー、あきらかに日本ブランドのデザイナー服が見劣りするんだよね。あれはなんでかっていうと、おそらくは欧米ブランドの発表する商品は基本的に売る先が貴族階級て決まってて彼らが着たときに「下品」になってはいけないからだよね。着ると半裸になってしまうとかそういう「下品」じゃなくて、パッと見で安っぽくみえないという暗黙の大前提とでもいうか。日本のブランドは必ずしも顧客が「(欧米的な意味の)貴族」である前提がなくて、つくる服飾に高貴さを保たなきゃならない理由がないからデザイナーのつくった服がひどく安っぽいみてくれになっててもだれも気にしてないっぽいんだよな。下々とお上の垣根がないから結果的にあるべき「美」の基礎がないがしろになってんの。それって「一級品」にいつまでたっても近づけないってことと同義なんじゃないのかとも思う。なんでもごたまぜがアジアの面白みではあるんだけどさ、だれがみても美しい、みたいな一定線まで権威がないがしろにしはじめちゃったらどうなっちゃうのかな…。ゲンスブール映画の件にもどしたうえ何度もカキますが、ポンニ人以外の国のヒトにはわかりづらいと思うけど「フランス=おサレ」図式をいまの日本で単純に信じ切ってる連中って、リアルタイムに経験して「ヤバさ」を熟知してる中年以降のヒト以外では文学や詩なんぞひとっつも読んだことのない(読んだことがあるとしても自分の意志じゃなく「授業で読ませられた」クチの)ファッション雑誌ばっか読んで隙あらば玉の輿にノることを考えてるたぐいのおまんこギャルばっかなんですよ。ゲンスブールが生きてたら破廉恥イコンとして儲けえじきに仕立てあげちまうような。で、そのテのギャルたちは自分らの信奉する「おサレなフランス」に下劣な部分があるなんてまったく思ってないし、ぜんぜん知らない知ろうともしない。ただひたすらチョーセンスよくてキレーみたいなことしか見ようとしない。文学からスリルを感じることとか無縁に近いと思う(彼女たちがむさぼるケータイ小説には黒いスリルではなく感動して泣くことだけを求めてるしね)。服飾デザイナーたちも貴族向けじゃなくなんとなくこういうコたちが着用することを考えながらつくってるとしか思えないもんばっかデザインしてるから高貴さがみじんもなくてもまあ当たり前っすね。ははは。いろいろよりみちしましたが「おフレンチ」といえば「頭カラッポギャル」図式が現ポンニの若年層にはびこってまして、そうゆう連中をまあ白い目で見るわけです。おもにおいらや映画秘宝熟読者たちが。だからフランスといえばつまりアホのたしなむもんとゆうイメージが蔓延しとりまして、当日記でも再三嘲笑の対象として見下しつづけた。でもちがった。アホなのはポンニのギャルなのであって、フランスには立派な暴力人がひしめいている。よかったです。死ねポンニのアホなギャル。仏製スラッシャー映画でギタギタに裂かれて真っ赤になってしまえ。
肝心のゲンスブール映画の内容についてですけど、映画はとりあえずゲンスブールさんの幼少期からはじまるんですが、ちっさいころから「ちょっときみのことだいすきになっちゃった。はだかになってよ」などとおとなの女性に対して性的欲望を直球でぶつける手練っぷりを発揮しだしまして(ちいさくてかわいい男の子がいうので女性のほうもけっこういうなりになっちゃったりする)、そのたぐいのおとな女性かどわかし遊びのほかにはタバコはいつでも吸うわオモチャはかっぱらうわとできうるかぎりの軽犯罪は茶飯事にこなします。パンフの文かなんかでゲンスブールユダヤの星をつけられた過去をたいへん苦々しく思っていて…みたいのみた気がするけど、映画中では自分から星もらいにいって胸につけてルンルンしてましたけどね?なにしろゲンスブールの天才悪ガキ時代を描いた前半部だけでもすばらしくった。リトルランボーズの粗暴な子を起用して悪ガキ映画をぜひ撮ってくださいぃ!>スファールさん江!!そうしておとなをナメくさった状態のガキんちょがまんまと成長してって弾き語りバイトしながらおんなをたらしこんだりなんだりしてくんですけど、そのたびに鼻が巨大なクチバシのようになった風体の分身がいちいちゲンスブールさんになにごとか吹き込んでまわる。特にゲージツ方面の重要な側面で背中を押す。映画中では分身としか呼ばれないけど「芸術という名の悪魔」なんだろーなーと思いながらみてた。ゲンスブール本体も自分の欲望を焚き付けてくれるようなおんなをとっかえひっかえしなきゃイイゲージツつくるためのタネにならないってわかっていながらも一応ふつうにおさまろうとしたりはすんだよな。まあ無理なんだけどさ。それとパンフチラみて思ったけど、なんか映画のつくりがゲンスブールさんのアルバム名をでた順に踏襲してるのかしら。ぜんたいフランスの「反逆」の作法というのが日本やアメリカで考えるような正攻法では必ずしもない、ということがなんとなくわかったような。あのけだるいシャンソンみたいなのもオサレぶっていけすかんなーと漠然と思ってたけど、あれがフレンチ人なりの逆撫でのしかたなのな。異文化を理解するのはとっても骨が折れる…。わかったつもりだっただけでさっぱりわかっておらんかったよ。いまでさえ入り口に立っただけなのだろうけど。ゲンスブールつーヒトは音楽プロデューサーなのかなんなのかいまだに判然としないけど、時代ごとにスタイルを変えて反逆しつづけるってすげえな(国歌ネタで自称愛国者団体が怒り狂ってる光景っていまとおんなじだねー)。あと「ツラのよさ」と「魅力」はまったく別個のもんだなあ、としみじみ思いました。それは男女問わない。

上記画像はこれのでゲンスブール映画の監督さん作品ですが、この監督さんが撮ったからこそゲンスブールさんとフランスへの誤解がとけたような気がする。ゲンスブール役のヒトが映画中で描く「絵」はリアル画家である監督さん自身の筆によるもんだからマジにイイ絵だしな。そこらの欧米映画中にでる「(架空の)画家の絵・写真家の写真」てさ、美術担当さんが「それらしく」つくったのが1発でわかる職人仕事の絵だからしらけちゃうんだよね。いっぱしの美術家作品にある魅力がさっぱりなくて「つなぎ」を目的としてるのがまるだしでさ。スファールさん作の星の王子さまに関しては子供のもつブキミさや暴力性を「可愛さ」と同じようにふつうに描いてるところがとてもいい。かわいいとこしか出さないでおいて、さもその部分だけが真実かのように吹聴してるやつらは全員うそついてまわってんのとおなじなんだよ。