ジャングルを思わせるのは色が氾濫してるせいか?

 

シュトックハウゼンがあのテロのことをルシファーによる最大の Kunstwerk だと言ったのは事実です。Kunst は(テクネー/アルス/アートなどと同じく)「芸術」や「技術」を包含する「術」を含意し、Kunstwerk はそのような「術」による労作を含意する――当然そういう含意を踏まえた上で、Kunstwerk は「芸術作品」と訳されて然るべきでしょう(「悪魔の技術の労作」と訳さなければ誤りだとは言えません)。ルシファー(悪の大天使)の芸術作品なのだから、それは悪の発露であり、非難すべきものであることは言うまでもない。しかし、それは、愚かな悪者どもが思いつきでしでかした下らない悪事として切り捨てられるものでもない。むしろ、その巨大な闇に拮抗し、それを圧倒するほどの作品を、芸術家は光の側で生み出さなければならず、そのためには、テロリストの献身――悪への献身ではあるにせよ驚くべきものであるには違いない献身――に拮抗し、それを圧倒するほどの献身が、芸術家にも求められる。シュトックハウゼンはおおむねそのように考えていたというのが、私の解釈です。あえて単純化すれば、テロリストはもちろん芸術家の敵だが、どうでもいい雑魚ではなく、端倪すべからざるライヴァルだ、といった感じでしょうか。』(浅田彰のドタバタ日記 第2回 20086月26日より抜粋

『感情的にも道徳的にも歴史的にも、

また、

政治・軍事的に利用することに対しても

決して肯定することは出来ないですが、

既成の感覚の枠組みでは捉え切れない美しさを

否定することはできませんでした。』100 Sunsくろじぃさんの100Sunsより抜粋より抜粋

ゲルハルト・リヒター展(豊田市美術館)見てきまして、写真を写し取って油絵にした作品は、目の当たりにした現実の光景が時を経るごとに記憶の中でブレて変容する寸前の有様を描きとめたものに見えた。記憶の底は他人はおろか当人ですら手が届かない。変容は止められず、どんな記憶も肌触りのよさそうな柔らかな輪郭線に変容してゆく。16の「水浴者(小)」という作品は、女性の裸体の柔らかさーうっすら赤みをおびた頬、乳房を隠す艶かしさが記憶の変容を帯びて更に強調されている。17の「トルソ」は顔から下の女性の裸体を描いたもので、輪郭線のブレが、人間の女性の体をぬいぐるみのような質感に見せている。8の「頭蓋骨」は、死を象徴する骨ですらも記憶の中ではぼやけ、風景に溶けかかって美しい。28の「ルディ叔父さん」は戦争によって故人となった人の写真を元にした作品だが、これも記憶の中で輪郭線がぼやけた幻影となってしまっている。ブレた記憶をほっとくとどうなってしまうのかというと、「頭蓋骨」のように風景に溶けていってしまうのだが、その記憶が溶けてしまった後の風景そのものを描いたような作品も多くあった。例えば4の「グレイの縞模様」は記憶の中の縞模様が、時間を経て丸みを帯びた形状に変化した有様を描いたような作品だし、5の「グレイ」は油絵を濃厚に塗って所々が尖ったまま繊細な灰色が迫ってくる作品、6の「グレイ(樹皮)」は執拗に厚塗りを繰り返した作品だし、7の「グレイ」もまるで左官の仕事のように美しく灰色を塗った作品だ。そういう「ただ塗っただけ」に見える作品の前に立つと、ガラスに反射して鑑賞者が写ってしまう。9の「鏡」という作品はもろにその傾向の作品で、以前、マーク・ロスコを鑑賞したときに感じたこと思い出した。ロスコ絵の前に誰かが立っただけでものすごい映えてしまうんですが、それと同じでリヒター作品の鏡を前にすると、自分が作品に取り込まれてしまうんですね。映ったもの込みで「作品」として成立させられてしまう。鑑賞者がいなければ成り立たない作品。これと同種の作品は11の「鏡、グレイ」も同じで鑑賞者が取り込まれるし、12の「鏡、血のような赤」も鑑賞者が前に立つと、世界があっという間に真っ赤な世界観に包まれてしまう。こういう作品を見ていると、リヒターは世界を全て原初の「風景」に塗りこんでしまいたいんじゃないか?と思えてくる。それが顕著なのが25の「モーリッツ」という赤ん坊を描いた油絵なんですけど、かろうじて赤ん坊自体は塗り込んでいないんですが、その周囲をいまにも塗りつぶしたくてたまらんといった風情で黒い色で囲んでるんですね。塗りつぶしたくてたまらん系の絵では、それが進行しすぎて塗った後に引き裂くように地の色をむき出しにしている。18、19、20の作品は普通のカラー写真に油絵を重ねていて不穏すぎるんですけど、どの写真からも傷を見出だして変容の餌食にせずにいられないんだなーとしみじみした。ちょっと異質なのが22のアブストラクト・ペインティングで、この絵は写真を一切使っておらず全て油絵だけの作品で、色の裂け目の柔らかい部分から細長い何かが生み出されてる。32の「ユースト(スケッチ)」と並び、変容が進みすぎて抽象画になってしまった系の作品。塗りつぶし、引き裂き、氾濫させる系の作品ばかり見ているとこれがリヒターの本質なのかなと思いがちなんですけどさにあらず、その暴力的色彩の氾濫が整然と並べられた作品もある。34の「4900の色彩」では等間隔に四角い色彩が整然と並んでいる。光が差したと思しき白色もある。または63の「ストリップ」は超細いまっすぐなカラーの直線が並んだもので、リヒターの内部を整理するとこうなるのか!と驚く。それでもやはりリヒター作品で目をみはるのは64〜67の「ビルケナウ」で、例のアウシュヴィッツで撮影された写真を厚塗りした上引き裂くような塗りで仕上げた作品なんですけど、変容した記憶を引き裂くと光と闇が溢れ出すのだなあとしみじみした。シュトックハウゼン理論に従うなら、闇の側(旧体制)で作られたものが凄いのならば光の側(新体制)がそれを上回るものを作ればいいだけのこと。リヒターもアレクシエーヴィチも、戦争という名の暴力=闇があったからこそ作品を生み出せた。我々は光を生みだす為にこの世に生まれてきて闇を味わっているのではなかろうか。光は闇がなければ何も生み出せない。死刑囚の絵画展も、死刑という闇から生まれたものだ。原初には闇がある。闇があるということはつまり光が生み出される可能性があるということ。死もまた生がなければ存在しない。私達の生は巨大な死のうえに成り立っており、リヒター作品はままその事実を思い起こさせる。ビルケナウは闇の行いを光の仕事で覆い尽くした。シュトックハウゼン理論の正統な使い方だ。911を「ルシファーによる壮絶な芸術作品」と評したシュトックハウゼンの意見をなるほどと思うのは他人事だからだろと思われるのは至極当たり前で、当事者だったらのんきに鑑賞したり論じたりする気になんかなれないのはよく知ってる。前の勤め先の建物の窓が311の余震で左右に動いてるのを驚いてみてしまう通行人に気づいて腹が立ったのをよく覚えてる。見るんじゃねえって思ったよ。あと高校の時にカンニングしてバレた時に周囲の視線が集まるのを経験して以来、観衆の視線とカメラに撮られまくる犯罪者の気持ちがよくわかるようになった。なにかをみる行為てのはそれだけですでに他人事なんですな。今後も自分ちが崩れるのみたらショックだけどちょっと面白いよなあと思う当事者と他人事の立場がない交ぜになった気持ちを大切にしようと思う。

 

ツイッタは今月末か来年初めごろに再開します。

Chim↑Pom展いけないので書いてみた

アカデミー賞司会者を平手打ちしたヒトだけ罰されるのは、暴力をふるう側がいつも「相手が悪いから殴った」(コレ、プーチンウクライナ侵攻する理由とほぼおんなじな)て思ってるからということで納得しましたが、平手打ちされるような冗談を言った側が罰されないのは表現者を委縮させてしまうことを避けるためなのかしらね。だとしたらさすが表現の自由を自分らで確立させて育んできた歴史をもつヒトたちは野太い考えを持ってるなーとしみじみした。日本みたいに「誰かが傷ついたから」とかいって当事者でもないのに代弁者きどりで気に入らない表現したヒトを大多数で押しかけてぶっ叩くようなマネはしないんですな。代弁者きどりで多数でぶっ叩くといえばChim↑Pomさんのヒコーキ雲で青空にピカッと書いた作品が、それを気に入らない人たちから猛抗議を受けて被爆者当人とChim↑Pomさんが対談する本が出来上がったことがありましたけど(当事者の声を引き出せたのはよかった)、あの作品て平和慣れした日本人にある日突然暴力的記憶を思い起こさせる作品としてものすごくわかりやすくて優れた現代美術作品だよねえ。ああいうリアルに心揺さぶる作品はアメリカでは何十億もの価値がつくと思うんだが、日本の表現の自由制度は自分らで確立したんじゃなくアメリカから押し付けられたという性質上まだまだ歴史も浅いので、リアル心揺さぶられるモノを見せられるとどうしていいかわからなくなって、被爆者当人がかわいそうだとか的外れなこと言いだして大多数でぶっ叩いて爽快感を得て済ますだけなのな。なんつーか忠臣蔵の伝統があるせいか「悪者(とみなされる)側を暴力で成敗する」的な行動につい爽快感を感じてしまいやすいよね。よく考えるとそれっていちばん危なっかしい感情な。最近ので似たやつだと子供を暴力的動画から守るとか息巻く人ね。子供が自発的に残酷映像とかエロいのみるのはダメだっていうけど、子供の自発性て率先して育んでいいものなんじゃねーの?そういうのだけはNGなの?もしも子供がそういう方面の芸術的才能を持ってたとしたら子供の才能の芽を摘んでしまうことになるんじゃね?親御さんがそういうの不安だって思うならその気持ちを直接子供に伝えれば済む話なのに、根本から見せるのを阻止するようなマネすんのはどうかと思うよ。ぜんたい何が言いたいかというと何かの表現に目くじら立ててぶっ叩くような幼稚なマネはいいかげん見直して冷静になれよということです。冷静になると特定の表現が社会的価値としてどうなのかとかそういう観点でみることができやすくなると思う。Chim↑Pomさんには多数にタコ殴りにされてもくじけず、いつまでも悪ガキ大学生ノリでせせら笑う態勢でいてほしい。カネ持ってたら大枚はたいて作品を買いたいが無職なので出来ない。歯がゆい。

 

ちなみに冒頭で出した平手打ちしたヒトは、舞台あがってマイク奪って「妻は病気だからあのヘアスタイルなんです」てひとこと言うだけで客全員味方につけられたのにね。言葉には言葉で返そうね。

なんで毒と酒を隣同士で置いとくのか

ナイトメア・アリー(TOHOシネマズ上野)みまして、話としては後ろ暗い過去から逃げるように流浪の旅をしていたスタンさんが、あるとき目にした小人さんの後をついてくといつのまにか見世物一座のなかにまぎれこんでいて、いろいろ見てくうちに一座の仕事を手伝うようになってそこで出会ったヒトから読心術を学んで成り上がってくという筋なんですが、読心術をさらに発展させたのがあなたの隣にいま霊がいます…的な幽霊ショーで、それやってると破滅するからやめろって!!て師匠的な存在から再三言われてるのに、イヤこれは儲かるから!て言いくるめてどんどんヤバい方向へ転がっていってしまうとゆう展開に。ニュースでたまにとっ捕まった詐欺師の行状について取り上げてますけど、詐欺師ておカネ大好きなわりに使い方がショボいというか、酒のんでどんちゃん騒ぎしたり高い車買ったりしたりとか、大金手にしたときの用途や発想が大学生レベルなんだよな。その点スタンさんはあまりハメ外したりすることなく、ただただ「金を儲ける」ことだけを目的に詐欺に勤しんでいた。人を騙して金を得ること自体に快楽を感じてるのかもしらん。んでスタンさんは拾ってもらった見世物一座で稼いでた世間しらずの純粋なモリ―さんを誘って助手として使いながら一座から離れて都会で読心術を武器に金持ちからカネを巻き上げてくんですけど、あるとき読心術ショーをみにきてた心理学博士のリッターさんと関わったことから、リッターさんの顧客であるお偉方をカモにする方向に。ここで禁じ手の幽霊ショーを本格的にやり始めて、それを真に受けたお偉いさんがもう俺の前に幽霊呼べよ!てなって、後戻りできなくなったスタンさんはモリ―さんを使ってヒト芝居打つことに。ところがこれがバレちゃったもんで血迷ったスタンさんが殺しに手を染めることになるんですけど、おそろしい破滅の道をたどる的な宣伝からもっとヒドいことが起こるのかと思って期待してたら、なんか最後はおさまるべきところにおさまった的な展開になってた。自殺した人が死んだことに気付かずに何度も何度も自殺しつづける的なエンドレス地獄にでもなるのかと思ったりしたのでちょっと肩すかし。ぜんたいモリ―さんをはじめとする見世物一座は残酷残虐を謳って客集めしてるんだけど、それは客の側も嘘が混じってることに薄々気づいてる程度のものであって、観覧してもちょっとびっくりして帰途につくレベルなんだが、スタンさんの幽霊ショーは観覧するとトラウマを掘りおこして人生を根幹から揺さぶってしまうような作用があるので、ターゲットになったヒトは死に肉薄することになってしまうんですな。見世物一座の人々は物言いは一見乱暴なんですけど、実はあたたかいというか、境遇や体裁は一切問わずに受け入れてくれる深い度量があるので、なんかほのぼのしてるんですよ。小人さんや軟体の黒人さんや、ホルマリン漬けの1つ目の胎児までもみんな包み込んで居場所をつくってくれる。モリ―さんも見世物一座にいるときはすごく安心して楽しげに過ごしてるんですよね。ところが幽霊ショーをやりだしたスタンさんといっしょにいると消耗して元気がなくなってくかんじだった。スタンさんは離しちゃいけないもんを手放して、近づいてはいけないほうへどんどん近寄ってしまう。タロットカードがそれを言い当てているのに、それを捻じ曲げて解釈する有様。見世物一座の描写に関しては、パンフによると、原作小説では「カーニバルの芸人たちの生活の言語がそのまま使われている」「隠語のたぐいに限らず、とにかく原文がかなり難しかった」ということなので、見世物一座に興味がおありの方は読んでみるといいやもしれません。原作者のグレシャムさんも霊媒について調べ上げてたりしたとかで、なんか伝記でも誰かつくればいいのにねえ。

あなたの隣に霊が的なくだりで思い出したんだけど、以前特攻隊の件で三巳華さんを批判したことがあったんだが、江原啓之自身は本物の霊能者なのに、この件で詐欺師呼ばわりされてテレビから追い出されてしまった件があったから、なるべくなら事実を記したほうがいいよ的な老婆心から書いたんだけど、なんかイマイチ伝わってないのかもしれないな。嫌われるのは慣れてるからいいけど、本物が偽物呼ばわりされるのは納得いかん。

どんな人の心にも潜む苦しみや孤独に気づきなさい

バハールの涙(シネスイッチ)→ライ麦畑の反逆児(シャンテ)→ミスターガラス(TOHOシネマズ日比谷)→暁に祈れ(ヒューマントラストシネマ有楽町)とみまして、暁に祈れはタイで覚醒剤かなんかの運び屋(か?尻穴からいろいろ出してた)件中毒者生活を送ってる白人のビリーさんが、ある日突然ガサ入れにあって刑務所にブチ込まれてしまう話。この刑務所が人員超過すぎて寝るときは本当にすし詰め状態だし、ちょっと可愛い(?)と強姦の対象になるし、禁止だつってんのになぜかほぼ全員頭のてっぺんから足首まで刺青入ってるし、しょっちゅうケンカ起きるし(タイ語での激しい言い合いが何度もあるんですけど、字幕がほとんど出ないのでタイ語のわからないビリーさんの状況とほぼ同等の心境を味わえる)、飲み水確保するのも困難だし、生きてくのが難しいほどに地獄なんですが、そんな中でキックボクシングの練習場を見つけたビリーさんがそこに通い出してからわずかに生きる気力を得ていく。ビリーさんはいちおうボクサーらしくて入所する時点で肉体のほうはわりと出来上がってるんですけど、中毒者生活を送ってた(おかまのおねえさんを言いくるめて得たタバコと引き換えに覚醒剤か?ヘロインか何かをしょっちゅう炙って吸っている)ツケであんまし腕っ節はよくなく、練習場にいたコーチ的なヒトからいろいろ教わってだんだん戦えるようになってゆく。最終的には他の刑務所のボクサーとの大きな試合に出ることになる(看守たちも観客としてみている)んですが、なにしろヤク中なことも手伝って体のなかの具合があんましよくないらしく、ボディーを打たれると血を吐いてしまうんですね。おまけにいつも雑魚寝してる部屋のボスみたいな奴から袖の下的なもんを要求されるもんで、試合で得るお金をわたす約束をせざるを得なくなって、勝つ以外に道がなくなってゆく。これチラシとかに「世界的なベストセラー自伝小説を完全映画化!」とかあるんで、実話なんですね。おまけに「役者の大半は現地タイ人の元囚人たちが起用されており」とか書いてあるんで、納得の臨場感が味わえます。あと最後にはご本人がちょっと出るんで、まだ生きてるんだなあとなんとなく安心します。

ミスターガラスは前作アンブレイカブルで大事故を起こして不死身&怪力の超人を見出したサミュエルLジャクソンと、彼に見出された超人のブルースウィリスと、多重人格の人の3名が同時に収監されてる精神病院から彼らがいかにして脱出するかを描いた映画。彼らを診る医師の女性は超人なんかいないんだと頭ごなしに否定しまくるんですけど、策士ジャクソンはある目的をもって脱出に向かう。この女性医師つーのがある団体の一員で、その団体は世の中の秩序を保つことを最優先してるがゆえに超人の存在が邪魔なんですね。超人たちの存在が世間に知られてしまった時に、さらに超人がでてきてしまうことを危惧している。それを踏まえたうえでジャクソンが動くわけです。つーか、本当に超人が邪魔なら暗殺者に殺ってもらったほうが早いのでは。一応銃は通じる体みたいだし。

ライ麦畑の反逆児は作家のサリンジャーさんが代表作を書き上げてから田舎にこもるまでを描いた話。なんか女好きで自分から手を出すわりに一緒に暮らし出すとうまくいかなくなる繰り返しなんですな。ひとりでいたいのか伴侶がほしいのか、どっちなのかよくわからん人だ。パンフに書いてあったんですけど、ジョンレノンを殺した人が読んでたとか、レーガンさん殺害未遂の人が所持してたとか、なんかこう鬱屈を抱えた人がよりどころにしてしまう魅力を持った作品なんですかね。映画では熱烈なファンらしき人を発見すると怯えて逃げてましたけど。よんでくれてありがとうくらいのこと言ってあげてもよかったんでは。そういうの言うとストーカー的な行動がエスカレートすんのかな。それと徴兵で激戦地に行ってからPTSD的な症状に悩まされて文を書けなくなった際、インド?方面の瞑想術で心を落ち着けてましたけど、その師がサリンジャーさんに「嫌なモノは取り除くのです」連発してて、それってただ逃げるだけになるんじゃないのかなあ。あとはじめてサリンジャーさんの小説が有名な雑誌に掲載される段で、出版社側が「これハッピーエンドにしないと殺す」的な注文つけてたとこがひどいなあと思った。それまでにない内容だと売れるかどうかわからんから従来どうりの型にはめようとすんのな。ライ麦畑が売れてからはもう自由だったみたいだけど。

バハールの涙はクルド人自治区で弁護士として暮らしてたバハールさんがいきなり押し掛けてきたISに夫を殺され息子を拉致られ、自身も拉致されたものの、そこから脱出して兵士として起つ話。チラシやパンフに『【女性に殺されたら天国へ行けない】と信じるイスラムの戦闘員は、彼女たちを恐れていた』て書いてあるんで、映画中でISのメンツが彼女たちに対して土下座して命乞いをするシーンでもあんのかなと思ってたんですけど、ISや男たちがその迷信的な言い伝えに怯えるシーンはいっさいないんで、本当に怯えてるのかどうかよくわからん。そのテのシーンがあったら痛快なんですけどね。とはいうものの、拉致されたバハールさんたちがお祈りの時間を利用して逃げ出すシーンは緊張感に満ちててよかったです。後で追ってきたISの男が「不信心な女たちを探してる」的なこと言いながらバハールさんらを追跡してるんですが、拉致・強姦・殺人を犯してることは不信心とはいわんのか。聖戦だからいいんだとか言い訳しそうだ。同行する片目のフランス人女性記者が「子供がいるから頑張れる」的なことを吐露した際、拉致られた息子を探すバハールさんと交流するところがちょっとよかった。

 

本日題はライ麦畑の反逆児パンフのp.16から抜粋したモノ。

そんなに苦労せんでももっと普通に降臨すると思うがなあ

私は、マリア・カラス(シャンテ)→未来を乗り換えた男(ヒューマントラストシネマ有楽町)→ヘレディタリー/継承(角川シネマ有楽町)とみまして、ヘレディタリーは悪魔の王が人間に降臨するまでの過程を丁寧に描いた話。なんかツイッタ評からこの映画怖い論が多かったんでもっと違うモノを想像してたんですが、結局アメリカは悪魔から離れられないんだなーとしみじみと。最初はある一家のおばあちゃんの葬式からはじまって、そのおばあちゃんに可愛がられていた孫娘の奇行っぽい行動(舌を鳴らす等)を追ってくうちにこの孫娘さんが事故で凄惨な死に方(首がちぎれてしまう)をして以来、この娘さんの母の精神状態がおかしくなっていく・・というか、このお母さんの精神状態がちょっと不安定な頃合いを見計らってかのように優しい言葉で近づいてくるおばさんがいて、結局このおばさんは死んだおばあちゃんの仲間だった人らしく、まんまと悪魔の王が降臨するにふさわしい状況に導かれてしまう。この間に娘さんの事故死の原因をつくりだした息子さんの身辺に奇妙な出来事が起こり出して・・という展開。おばあちゃんたちが降臨さそうとしてた悪魔の王というのがなんか人間の男じゃないと降臨しないらしく、息子さんがそのターゲットに狙われたわけですな。女はどういうわけかダメで、最終的にこの一家の女性全員(死体のおばあちゃん含む)が首が切られた状態で悪魔王にひれ伏すかんじになってゆく。孫娘さんが生きてた頃にしてた奇行のひとつに「窓にぶつかって死んだ鳩の首を切り落として持ち去る」場面があるんですけど、切り取った首はもしかして悪魔王への供物かなんかなんですかね。おばあちゃんもとっくに死んでるのに掘り起こされてわざわざ首切り落とされてるし。タイトルの「継承」てのはこの首切り落としの連鎖のことなんだろうか。悪魔王が降臨するまでの間、そのターゲットの息子さんのとこにはうっすら幽霊みたいなもんがでるし(暗がりではっきり見えないくらいの撮り方なのがうまい)、死んだ妹がよくしてた舌鳴らし音が聞こえてきたりとビクついて過ごすことに。その息子さんのお母さんはやけに優しいおばさんに言われるがまま降霊術を試したら事故死した娘さんらしき存在がきてアグレッシブにモノを動かしたりノートに絵を描いたりするんでさらに情緒不安定になって家庭内は崩壊状態に。この間唯一まとも(?)でいる旦那さんはいろいろ混乱してる奥さんの間違いで焼死してしまう。この焼死の原因は死んだ娘さんが霊体になってからラクガキしたノートを燃やしたせいなんですけど、このノートを最初奥さんが燃やそうとしたときには奥さんの服に火がついたんですが、2回目に燃やそうとしたときにはどういうわけか旦那さんが燃えてしまうんですよね。邪魔者認識をされたせいなんだろうか。ぜんたい効果音が心臓のドクドク音ぽいやつだったりして怖い雰囲気を盛り上げてるし、霊ぽいモノのもやっとした見せ方もいいし、精神疾患がらみにするのも思わせぶりでなかなか面白かったです。エクソシストみたいに悪への対抗馬を出さず、悪魔王降臨まで一直線に崩壊させてく手法がむしろ清々しい。クライマックスの謎の達成感ビジュアルも含めて。

未来を乗り換えた男はなんか現代でドイツ軍が侵攻しかかってる的な設定の話で、ドイツ軍にもうすぐ摘発されそうな緊迫した状況下でフランス人(ユダヤ人?じゃないよな)の主人公が知人からある作家宛の手紙を預かって、謝礼金目当てに言われたホテルの部屋に尋ねてくんですけど、作家はもう自殺済だったんでその部屋にあった遺稿を勝手に持ち出して作家名を名乗って生きてく話。手紙を預かったバーに戻ったらもうドイツ軍がきてたんで命からがら逃げ出して、列車の荷物車両?にこっそり乗り込んで適当なとこで降りてホテルで部屋とってぶらついてたらチビっ子がいたんで遊んでるうちにその子の家にあがることになって、ラジオ直したり耳の聞こえない母親と会ったりしてるうちに親密になってきて、ちびっ子の具合が悪くなったというんで医者を探してたらその医者の部屋に自殺した作家の嫁がいて、なんとなく近づいてくという。主人公は作家が自殺したことを言わないままその作家嫁と懇意になりたい風なんですけど、作家嫁はどうしても作家の夫を探そうとしてて、いまいち打ち解けない。そうこうしてるうちにもうすぐドイツ軍がやってきそうになってきて、アメリカ行の船に何度も乗せようとするんですけど、そのたんびに作家嫁はもどってきてしまって、どうしても作家の夫を探そうとする。主人公はなぜか「捨てた側と捨てられた側、どっちが早く忘れる?」的なことをたびたび聞かれるんですけど、自殺した(妻を捨てた)夫を装っていながら(夫に捨てられた)妻を口説こうとしてるんで、質問には答えられない。難民になることの絶望感が漂ってる映画。

マリアカラスは他の映画みようとしてダメだったから仕方なくみたんですけど、すごい歌唱力をもつカラスが声の調子がいいときには大絶賛されるものの、ちょっと調子悪くて公演やすむと大バッシングが起きるという激しい起伏を味わった人生だったとか。50代で死んじゃうとか音楽関係の人って短命が多いのかしら。長く友人関係にあった富豪がジャクリーンケネディと結婚したときには相当ショックだったらしい。数年後にその結婚は間違いだった、て富豪側が認めたものの。

ジョンソンさんはやはり南部なまりだったのかな

LBJ ケネディの意思を継いだ男(シネマカリテ)→ライ麦畑で出会ったら(武蔵野館)とみまして、LBJケネディ大統領が通そうとしていた公民権法(人種差別しちゃならん)案を、ケネディさんが暗殺された後に成立させたリンドン・B・ジョンソンさんが大統領になるまでを描いた話。ジョンソンさんは南部(人種差別が根強い地域)出身だったこともあってか、もとは公民権法に反対の立場だったらしいんですけど、家で雇ってる黒人のメイドさんの話(旅先でトイレに行きたくても貸してもらえない等)を聞いているうちにだんだん考えが変わってきたっぽい。んで副大統領の立場で公民権法案に賛成の立場を表明してくんですけど、恩師的な存在の人からはそんなのやめろと言われるし、副大統領には議会ではあんまし影響力がないからつって公民権法案成立を諦めさせようとする人が続出したりと前途多難なかんじなんですが、飛行機製造会社やなんかの大企業のお偉いさんを説得して黒人さんを雇い入れるようにさせたり等の地道な活動が徐々に実を結んでゆく。こうしてジョンソンさんは公民権法案成立のために努力してるんですが、ケネディさんの弟(だっけ)にはなぜか嫌われてるらしくて、説得してもどうもいい顔をしてくれない。ジョンソンさんはケネディさんにくらべるとちょっと下品というか、大統領予備選挙ケネディさんと競っていた)中に部下の人が48%前後の票がとれました!て報告しにくると、お前なあ、ちんこを机に置いたとして、どれくらい切られるかって時に何%「前後」じゃあ不安でしょうがないだろう!前後じゃなくて正確な数字を調べてこい!とかどやしつけたり、トイレのドア開けたままうんこしつつ部下の人たちと話してたり、腹がでてるから今のままのサイズじゃあタマとケツの穴がキツいんだよ!て部下の人たちがいる前でズボン店の人に電話したりと下半身ネタをふつうに語るので、そういうのがニガテな人には嫌われるやもしらん。それでもなにか事が起きるとなると迅速に部下の人たちに指示を出し続けるので、リーダーとしての素質は十二分に持っているっぽかった。そんでケネディさんを前に据えたオープンカーでの遊説中にケネディさんが頭を撃たれて(映画中ではケネディさん役の人の額に撃たれた穴が丸くきれいに映ってたけど、実際の映像では1発でもっとダメージが大きいかんじだったよね)、うしろでついてきてたジョンソンさんはSPの咄嗟の判断で後部座席に伏せたままケネディさんの入った病院にいくんですが(最初はケネディさんは重症だと報告されるんですけど、実際には車上で頭部がほぼ木っ端みじんになってたから重症もクソもなく即死だよね)、ケネディさんはまま死んでしまって、早めに国民を安心させたほうがよかろうということでジョンソンさんが大統領として立つことに。大統領になるための宣誓もワシントンに向かう飛行機中で取り急ぎ行う。んで大統領としての演説ではケネディさんの意思を継いで公民権法を成立させることを名言するー。てのが大筋。こうして人種差別撤廃のための公民権法が成立するんですが、棚ぼた的に大統領になったとはいえ大事な仕事をしたというのに世界ではあまり知られていないというのはなんだかな。ジョンソンさんの名前の頭文字を冠したタイトルはケネディさんの愛称であるJFKに比肩してるよという意味でつけられたのかな。よいタイトル。

ライ麦畑は自分が演じた演劇がうまくいかず、学生生活でもバカにされてうまく立ち行かずにいる主人公が、自分の好きな小説「ライ麦畑でつかまえて」を演劇にする許可を得るために作者のサリンジャーを探しにゆく話。学校では寮生活なんですが、いじめの対象にされて寝てるときに爆竹投げ込まれたり、愛用のタイプライターを壊されたりするので嫌気がさしてトランク1つで逃げ出してしまう。その前に憧れてる金髪女子に会おうとその女子のいる学校に寄るんですけど、女子にはもう彼氏がいるっぽくて近づけず、かわりに黒髪女子が近づいてきて同行することに。そんでサリンジャー探しがはじまるわけですが、数年前の雑誌のサリンジャー特集記事に出てるなんとかいう地域をぐるぐる探しまわる。その途中で黒髪女子とイイ仲になりかけて、キスだけは何度もするものの肝心のセックスまではどうもいかない(勃たなかった?)。最終的にサリンジャーさんには会えるんですけど、演劇にすると原作と解釈が違ってしまうからとかなんとかゆって全然OKしてもらえない。ガックリした主人公はひとりで兄貴のいるとこへ行こうとするんですけど、いぶかしんだ黒髪女子が主人公の母親に電話で問い合わせたところ、兄貴は死んでることが判明。いろいろあってもといたところに帰ることに。主人公ももといた学校に戻ったら、サリンジャーに会いに行ったことを知った教師からライ麦畑を演劇にするように求められる(骨があるやつだと思われたのかな)。いろいろふっきれた主人公は、自分は演じずに主役を他にゆずり、脚本だけを担当するふうにするとー。てのが大筋。この映画は1960年代が舞台なんですが(乗ってる車がやけに古い)、LBJも同じ年代の話だし、このハシゴをしたことがなんか合ってたかなと思った。

超能力者はツラいよ編

バーバラと心の巨人(シャンテ)→テルマ(YEBISU GARDEN CINEMA)→ブレインゲーム(武蔵野館)とみまして、テルマは親元を離れて大学に通い出した女子(テルマさん)が、たび重なる痙攣発作に見舞われながらも自分の性癖や能力に目覚めてゆく話。テルマさんには気に入らない相手を瞬間移動させたりする超能力が備わってるんですが、それが出ないようにするために両親(特に父親)がいちいち生活上の予定を報告させたり、神に祈らせたりして抑圧している。ずっと親元にいたと思しきテルマさんにとってはその抑圧は自分にとっていいことなのだと思い込んでいたっぽいんですが、親元から離れてはじめて自分に向き合うことでその抑圧に疑問を抱いてゆく。ここらへん両親からずっと氷を操る超能力を禁じられて育てられた姉が、親元から離れて能力を全開にしてゆく「アナと雪の女王」と似てる。最後に真の愛情を示すのも妹だし。テルマさんの初恋の相手も女子なのよね。テルマにしろアナ雪にしろ、生まれつき備わった超能力を自在に操れるようになるような育て方をしたら最初から円満だったろうに、どちらも超能力によって人を傷つけてしまったことから抑圧する方向になってしまう。本来的に使い方さえ誤らなければ「素晴らしい能力」なのに、忌避することから「恐ろしい能力」という認識に陥ってしまうという。テルマさんはたびたび起きる痙攣発作の原因を病院の精密検査で探ろうとするんですが、検査ではなにも出てこない。自分の本当の欲求や能力を抑圧してることが原因なんで当たり前なんですけども。テルマさんのもつ超能力は強い欲求と直結してるらしくて、幼少期は泣き叫ぶ赤ん坊を一時的に消して(この間消された相手はどこにいるんだろうか)もといた場所とは違う場所に現れさすようなことをしたりするんですが、これを無意識でやってしまうあたり両親が怯えてしまうのも致し方ないですな。ここから超能力を意識的に操るような訓練をみっちりしておけば当人も周囲も怯えずに済んだろうに。テルマさんと恋仲になる女子も、テルマさんが強い欲求を覚えたときに消えてしまうんですが、最後になると出てくるんで、亜空間かどこかにいたんだろうか。テルマさんと女子がいい仲になる前にテルマさん父がひどい仕打ちを受けるのは、それまでの抑圧への反抗心の表れということなんだろうか。下半身不随の母親も治してしまうし。すごい能力。

ブレインゲームは過去や未来を視ることができる超能力者アンソニーホプキンスが、同じ能力をもつ殺人者を追う物語。殺人者はその能力で近い将来病で苦しむ人たちを発見して安楽死させてまわってると胸を張るんですが、殺される人の了解も得ずに勝手に殺すのはどうかと思う。あの世にいけば痛みも苦しみもないらしいので、この世で経験する痛みや苦しみは固有の財産なんじゃないのかな。警察から依頼を受けたホプキンスがその能力を使いながら殺人者を追うんですが、近い未来を視てどの行動をするとどうなるか、普通に追って撃たれて死んだホプキンスの映像がいちいちみせられるのでちょっとギョッとなる。それを踏まえて行動するので僅差で弾丸をよけられたりするんですけども。殺人者が犯行現場にいちいちメッセージを残すのは快楽殺人者によくある挑発的なアレなのかと思ったけど、同じ能力者であるホプキンスに語りかけてるからなんですな。なにしろサイコパスを追う風の刑事モノの王道からはちょっと外れたかんじの作品。

バーバラと心の巨人は襲いくる「巨人」対策のために腐ったブツを高いところに吊るして罠をあちこちにつくったり、秘密基地的な場所で対策を練ったりしてる少女が、それを許容してくれる子と友達になったり、親身になってくれるカウンセラーさんと交流してくうちに自分の中にある恐怖心と向き合うようになるまでの話。学校でも自分の中に閉じこもって行動してるんで、いじめっ子に因縁つけられたりするんですが、気が弱くてそういう行動してるわけじゃないので普通にやり返したりします。「巨人」を退けるたびに「皆を巨人から守った」と豪語するんですが、主人公しかその「巨人」をみてないので周囲が振り回されることに。最終的に「巨人」は主人公が恐怖を感じるところから逃げ回ってるせいで出てきてたってことなのかな。