乳首とか瞳の奥とか唇とかの色のさしかたがなにげに丁寧だよ

『山や水、木や花の身体的な動きをとりわけ観察している。

すべてが人間の身体と同様の動き、

植物の歓喜や苦悩に似た揺さぶりを想起させる。』ーエゴン・シーレ、フランツ・ハウアーに宛てた手紙より、1913年

『至高の感性は宗教と芸術である。

自然は目的である。

しかし、そこには神が存在し、

そしてぼくは神を強く、

とても強く、もっとも強く感じる。』ーエゴン・シーレ、詩「芸術家」より、1910年

Nick's inner monologue becomes increasingly delusional as he comes to believe he is Jesus Christ reincarnated to judge Pottsville. 』(Pop. 1280 - Wikipedia)

『そこで彼は、キリストの「ピエタ」の図象を用いながら、聖母を血まみれのキリストの屍を抱く凄まじい「運命の女(ファム・ファタール)として表した。』ーピエタ(「クンストシャウ、サマーシアター」の演目、「殺人者、女たちの希望」のポスター)オスカー・ココシュカ、1909年

レオポルド美術館 エゴン・シーレ展(東京都美術館)見てきまして、全体的にシーレ単体展というよりウィーン分離派に属していた芸術家たちの傾向をざっと理解できるような出展体制になってたような。シーレ以外の画家の作品がそこかしこに混ざってて見応えがありましたよ。画家の肖像写真見てるとなんか横顔写したもんが多くて、あれは顔(特にアゴや鼻の骨)の角ばった部分と頭部の円形部分を分離派がよくキメ模様として型にして使ってる柄に近しい形状だからなんですかね。展示の9・10・11のクリムトの描いた肖像画は黒色が際立ってきれいだったな。クリムトて金色使いで有名だけど、黒色がやたら映えてたように思った。16から21は分離派展のポスターが連続して展示されてて色使いや角ばったキメ模様が美しかったし、作品を囲む額も繊細なつくりで実物見られてよかった。あんな美しい額どこにも売ってないよ。22・23はシーレの花の絵が展示されてて、22のは花がどうこうというより背景のなんもないはずの空間が角ばった筆の塗り跡でみっしり埋まってて濃密すぎる。23の菊はパステルカラーなのに背景が黒1色だからか甲斐庄楠音の横櫛みたいな妙な迫力がありましたね。菊というより腐り落ちる寸前の南洋植物的な何かって感じだった。次に分離派のヒトたちが手がけた風景画が展示されてて、27のカール・モルの冬の風景を描いた絵はただの木々と雪道を描いただけなのに、色使いが画面からあふれんばかりの豊穣さできれいだったな。色の洪水といえば28のシーレの絵も30のクリムトのウィーンの街を描いた唯一の風景画てやつも色であふれかえってたな。色であふれかえっていながらもなんか不穏でたまらなかったのは31のアルビン・エッガー=リンツ「森の中(《祈り》のための習作)」て絵で、森の木々が描かれてるだけなんですけど、木の皮が青銅色で、皮が剥がれた地肌が灰色に塗られてるもんで、ゾンビの群れでも見てるみたいな感じだった。エッガー=リンツの絵で不穏だったのが33の「昼食(スープ、ヴァージョンII)」て絵で、遠目からみてああ解剖中なのかな・・て思って近くでよく見たらなんか食べてるぽかったからびっくりした。テーブルの上に何がのってるか全く見えないうえ、あのテーブル囲んでるヒトたちの湿っぽい雰囲気いったいなんなの。不穏といえば29のシーレの「秋の森」て作品、木の枝がやたら筋張ってる描き方し始めてておっいよいよか!的に期待させてくれる。エッガー=リンツ作品は34のなだらかな丘陵を描いた絵はちょっと女の裸を思わせるなめらかな描線だったなあ。風景画では41のコロマン・モーザーの山脈て作品、使ってる色自体はパステルカラーで薄使いなのに稜線をくっきり描いてるから分離派ちっくなキメ模様的なメリハリある色分けになっててきれいだった。次の展示はリヒャルト・ゲルストルて画家の作品で、46の「半裸の自画像」、なにげに先っぽ見えてませんか。あの下半身おおった布からちょい出してる丸部分はそうとしか思えませんでした。ゲルストルのは48・49の絵を飾ってる額がきれいだった。前者は木製ので後者はメタリックなやつで。絵としては荒々しいベタ塗りなかんじのが多かった。次の展示からはようやくシーレ作品が乱打してくるわけですが、シーレの絵てちょろ見したイメージからして工事現場の鉄骨むき出しの建材に薄皮のばして貼り付けたふうな勝手な印象もってたんですけど、実物みるとなんか色鮮やかな死にたての遺骸て感じですな。そこらへんが顕著なのが53の「叙情詩人(自画像)」てやつで、腐った死体に生えた赤カビ青カビて風情だった。なんか52の絵もなんですけど、シーレの絵て印刷物で見るとやたら筋張って見えるんだが、実物みると油彩は特にベタ塗りすぎて油ぎってる感じなのな。51の「ほおずきの実のある自画像」は広告にも使われてる有名なアレで、塗り跡べったりな白背景に赤青黒で色鮮やかにシーレ自身が描かれてるんですが、いちばん痺れたのは自画像の瞳の中央にほんのわずかにほおずきと同じ赤(厳密にはオレンジっぽい色)がすっとさしてあっておおーと思った。55の裸体自画像は文字どおり全裸なんですけど、なんかちんこがよくわからないふうなんですよね。自信なかったのかな。シーレてさー写真でみるとわりとぷくぷくしてるのに、自画像だとやたら筋張ってるふうな描き方なんだよな。まあそれが持ち味だからしょうがないっちゃそうなんだけど。あと54の「闘士」見ると根本的に青色とオレンジ色を多用すんのがスキなんだなーとしみじみした。次の展示は女性像をおもにとりあげてて、62の「母と子」て絵はなんだか鎖骨から首にかけての肌の白色が母子でつながってる風に描かれてて不気味でした。母子系で不穏だったのが65の「母と二人の子どもII」てやつで、ひからびた女の死体が抜け殻みたいな赤ん坊の人形抱えてるふうにしか見えない作品。赤ん坊の人形の向かい側に幽体離脱した赤ん坊の魂みたいのが描かれてる。中央の母親の死体ちっくなヒトの左足のかかとにオレンジ色が塗られてるんですけど、あれ血なのかな?なんの説明もないから全然わからない。あとこの展示部分だけじゃなく全体に言えることなんですけど、鉛筆でささっと描いたふうな絵がものすげーうまい。当たり前なんだろうけど天才だーと思った。次の展示が風景画というか家を主に描いた作品群で、68の背景の質感がクソ重たいのにはじまって69の「丘の前の家と壁」て作品に描かれた家の中が暗闇すぎて怖い。白い壁もなんか傾いてるし。74の「小さな街III」で描かれた家々も、窓あいてるのにぜんぜん開放感ない。暗闇が口を開けてるふうにしか見えない。あと75の「モルダウ河畔のクルマウ」て作品では家々の小さい窓がどれも歯ぎしりしてるみたいに見える。次の展示ではなぜかオスカー・ココシュカてヒトの作品が展示されてて、80の自画像みるとなんかひょうきんなやつなのかな?と思った。78の「裸体の少女」とかは普通にうまいんだけど、上記でも抜粋した84のピエタはガチムチのマリアが皮膚を全部はがされて赤剥けになったと思しきキリストを抱えててなんかすごかった。絵の端に「OK」とか書いてあって、なにがオッケーなのかと思いつつ親指を立てそうになりましたけどあれ単に書名ね。次の展示はまた分離派のお仲間コーナーで、90のアントン・コーリヒの「キューピッドと青年」て作品みて思ったんですけど、西洋芸術で描かれるちんこってどうしてどれもちいさいんですかね?外人さんだから巨根だろどう考えても。なんでですか?答えてくれたまえ。ちいさければ卑猥ではないとでも?大人の事情てよくわからない。次の展示はパトロン系だけどそこすっとばしてシーレの裸体コーナーに。101の「赤い靴下留めをして横たわる女」ての、乳首の紅がきれいですな。102のも靴下留めシリーズですけど、なんか身体に塗られた赤色が傷口ぽくてちょっと痛々しい。次の展示はシーレの早すぎる死に向かってゆくわけですけど、107の「横たわる女」ての、エロいですけどまんこはちゃんと隠れています。シーレの局部といえばいちばん最後、115の「しゃがむ二人の女」ての、股まるみえだけどまんこぜんぜん描いてないですね。赤でちょちょっと塗ってるだけ。なんですかシーレ。局部描くのが嫌でしたか?どうしてだシーレ?とモヤモヤしたモノを抱えながら帰途早咲きの桜なんかをたんのうしました。

上記抜粋箇所でジム・トンプスンの作品説明を載せましたけど、ほんとは作品中の「お前、3文字のやつと勘違いしてるんじゃないのか?」的なセリフの部分を載せたかったんだが手元に作品がなくて出来なかった。すごく残念だ。