ジャングルを思わせるのは色が氾濫してるせいか?

 

シュトックハウゼンがあのテロのことをルシファーによる最大の Kunstwerk だと言ったのは事実です。Kunst は(テクネー/アルス/アートなどと同じく)「芸術」や「技術」を包含する「術」を含意し、Kunstwerk はそのような「術」による労作を含意する――当然そういう含意を踏まえた上で、Kunstwerk は「芸術作品」と訳されて然るべきでしょう(「悪魔の技術の労作」と訳さなければ誤りだとは言えません)。ルシファー(悪の大天使)の芸術作品なのだから、それは悪の発露であり、非難すべきものであることは言うまでもない。しかし、それは、愚かな悪者どもが思いつきでしでかした下らない悪事として切り捨てられるものでもない。むしろ、その巨大な闇に拮抗し、それを圧倒するほどの作品を、芸術家は光の側で生み出さなければならず、そのためには、テロリストの献身――悪への献身ではあるにせよ驚くべきものであるには違いない献身――に拮抗し、それを圧倒するほどの献身が、芸術家にも求められる。シュトックハウゼンはおおむねそのように考えていたというのが、私の解釈です。あえて単純化すれば、テロリストはもちろん芸術家の敵だが、どうでもいい雑魚ではなく、端倪すべからざるライヴァルだ、といった感じでしょうか。』(浅田彰のドタバタ日記 第2回 20086月26日より抜粋

『感情的にも道徳的にも歴史的にも、

また、

政治・軍事的に利用することに対しても

決して肯定することは出来ないですが、

既成の感覚の枠組みでは捉え切れない美しさを

否定することはできませんでした。』100 Sunsくろじぃさんの100Sunsより抜粋より抜粋

ゲルハルト・リヒター展(豊田市美術館)見てきまして、写真を写し取って油絵にした作品は、目の当たりにした現実の光景が時を経るごとに記憶の中でブレて変容する寸前の有様を描きとめたものに見えた。記憶の底は他人はおろか当人ですら手が届かない。変容は止められず、どんな記憶も肌触りのよさそうな柔らかな輪郭線に変容してゆく。16の「水浴者(小)」という作品は、女性の裸体の柔らかさーうっすら赤みをおびた頬、乳房を隠す艶かしさが記憶の変容を帯びて更に強調されている。17の「トルソ」は顔から下の女性の裸体を描いたもので、輪郭線のブレが、人間の女性の体をぬいぐるみのような質感に見せている。8の「頭蓋骨」は、死を象徴する骨ですらも記憶の中ではぼやけ、風景に溶けかかって美しい。28の「ルディ叔父さん」は戦争によって故人となった人の写真を元にした作品だが、これも記憶の中で輪郭線がぼやけた幻影となってしまっている。ブレた記憶をほっとくとどうなってしまうのかというと、「頭蓋骨」のように風景に溶けていってしまうのだが、その記憶が溶けてしまった後の風景そのものを描いたような作品も多くあった。例えば4の「グレイの縞模様」は記憶の中の縞模様が、時間を経て丸みを帯びた形状に変化した有様を描いたような作品だし、5の「グレイ」は油絵を濃厚に塗って所々が尖ったまま繊細な灰色が迫ってくる作品、6の「グレイ(樹皮)」は執拗に厚塗りを繰り返した作品だし、7の「グレイ」もまるで左官の仕事のように美しく灰色を塗った作品だ。そういう「ただ塗っただけ」に見える作品の前に立つと、ガラスに反射して鑑賞者が写ってしまう。9の「鏡」という作品はもろにその傾向の作品で、以前、マーク・ロスコを鑑賞したときに感じたこと思い出した。ロスコ絵の前に誰かが立っただけでものすごい映えてしまうんですが、それと同じでリヒター作品の鏡を前にすると、自分が作品に取り込まれてしまうんですね。映ったもの込みで「作品」として成立させられてしまう。鑑賞者がいなければ成り立たない作品。これと同種の作品は11の「鏡、グレイ」も同じで鑑賞者が取り込まれるし、12の「鏡、血のような赤」も鑑賞者が前に立つと、世界があっという間に真っ赤な世界観に包まれてしまう。こういう作品を見ていると、リヒターは世界を全て原初の「風景」に塗りこんでしまいたいんじゃないか?と思えてくる。それが顕著なのが25の「モーリッツ」という赤ん坊を描いた油絵なんですけど、かろうじて赤ん坊自体は塗り込んでいないんですが、その周囲をいまにも塗りつぶしたくてたまらんといった風情で黒い色で囲んでるんですね。塗りつぶしたくてたまらん系の絵では、それが進行しすぎて塗った後に引き裂くように地の色をむき出しにしている。18、19、20の作品は普通のカラー写真に油絵を重ねていて不穏すぎるんですけど、どの写真からも傷を見出だして変容の餌食にせずにいられないんだなーとしみじみした。ちょっと異質なのが22のアブストラクト・ペインティングで、この絵は写真を一切使っておらず全て油絵だけの作品で、色の裂け目の柔らかい部分から細長い何かが生み出されてる。32の「ユースト(スケッチ)」と並び、変容が進みすぎて抽象画になってしまった系の作品。塗りつぶし、引き裂き、氾濫させる系の作品ばかり見ているとこれがリヒターの本質なのかなと思いがちなんですけどさにあらず、その暴力的色彩の氾濫が整然と並べられた作品もある。34の「4900の色彩」では等間隔に四角い色彩が整然と並んでいる。光が差したと思しき白色もある。または63の「ストリップ」は超細いまっすぐなカラーの直線が並んだもので、リヒターの内部を整理するとこうなるのか!と驚く。それでもやはりリヒター作品で目をみはるのは64〜67の「ビルケナウ」で、例のアウシュヴィッツで撮影された写真を厚塗りした上引き裂くような塗りで仕上げた作品なんですけど、変容した記憶を引き裂くと光と闇が溢れ出すのだなあとしみじみした。シュトックハウゼン理論に従うなら、闇の側(旧体制)で作られたものが凄いのならば光の側(新体制)がそれを上回るものを作ればいいだけのこと。リヒターもアレクシエーヴィチも、戦争という名の暴力=闇があったからこそ作品を生み出せた。我々は光を生みだす為にこの世に生まれてきて闇を味わっているのではなかろうか。光は闇がなければ何も生み出せない。死刑囚の絵画展も、死刑という闇から生まれたものだ。原初には闇がある。闇があるということはつまり光が生み出される可能性があるということ。死もまた生がなければ存在しない。私達の生は巨大な死のうえに成り立っており、リヒター作品はままその事実を思い起こさせる。ビルケナウは闇の行いを光の仕事で覆い尽くした。シュトックハウゼン理論の正統な使い方だ。911を「ルシファーによる壮絶な芸術作品」と評したシュトックハウゼンの意見をなるほどと思うのは他人事だからだろと思われるのは至極当たり前で、当事者だったらのんきに鑑賞したり論じたりする気になんかなれないのはよく知ってる。前の勤め先の建物の窓が311の余震で左右に動いてるのを驚いてみてしまう通行人に気づいて腹が立ったのをよく覚えてる。見るんじゃねえって思ったよ。あと高校の時にカンニングしてバレた時に周囲の視線が集まるのを経験して以来、観衆の視線とカメラに撮られまくる犯罪者の気持ちがよくわかるようになった。なにかをみる行為てのはそれだけですでに他人事なんですな。今後も自分ちが崩れるのみたらショックだけどちょっと面白いよなあと思う当事者と他人事の立場がない交ぜになった気持ちを大切にしようと思う。

 

ツイッタは今月末か来年初めごろに再開します。