愉しくあるには、勇気がいる

何日か前の日記で北欧の挿絵家の筆致は可愛らしいのに内容が辛辣なのはなんでなのな件を書きましたけど、地元の書店に置いてあったこれのp.200に(以下『』内冨原さん本中から抜粋) 『[トーベヤンソンのほんわかした筆致は]トーヴェ固有の魅力であり、検閲の網の目をすりぬける知恵なのだろう』とか書かれてて数年来の疑問がいっきにとけた。可愛いらし〜い筆致でいることによって検閲対象にされた際にお上の目くじらを立ちにくくするという生き残りの手段とは!!そもそもなんで検閲なのかといえば、1920年代にフィンランドでヘンリーレインという人が「あらゆる独裁を憎悪する」「みずからの弱さを笑い、相手がたの愚かしさを笑う」(←太字部分最重要)という理念のもと立ち上げた諷刺中心の個人誌で政治諷刺の挿絵画家として当時の国内外の政治家たちを次々とコケにしたイラストを描き続けてたからで、しかもトーベヤンソン個人で関わってたんじゃなく、先にトーベの母親がそのガルム(北欧のケルベロス的なものらしい)っつー雑誌に挿絵画家として雇われてたとかで、なんかトーベヤンソンて母娘ふたりして画家なのね。なにげに芸術一家のサラブレッドだったんだな。このガルムっていう諷刺雑誌は一応政治の話題が中心ということだったらしいんですけど、立ち上げたレインさんがたいへん優秀な方だったみたいで、特に政治方面でおもしろいネタがないときは小説だの文学だのが中心になったり演劇だの批評中心になったりだの、かなり柔軟なつくりかたを心掛けていたらしくて、当時としても雑誌というものは存続がすごくむずかしいものだった(「創刊にはこぎつけてもあとが続かない」ってのは何も今にはじまったことでもないらしいよ)中でこのガルムという雑誌は30年間くらい続いたらしい。やっぱりこういうレインさんのような自分の人生を捧げるくらいの情熱とあといろんな分野への理解と自由であることと、いちばん大事なのはなにと戦うべきか、どれを守ればいいのかをわきまえていること、こういうものが全部あってはじめておもしろいものができるのだなーとしみじみ思った。本日題はリンクした冨原さん本p.28に掲載されてるガルム創刊号の1ページに掲載されたというレインさんの決意表明文からの抜粋ですよ。しかしp.29にある『「まじめな」だけが取柄のはずの既存メディアが「あまりにくだらない」ので、「くだらない」とされているカリカチュア誌に、タブーや常識の壁を破り、ときには眉をひそめさせる真実をつたえる使命がゆだねられた。だからこそ、自由に、はばからず、もの申す。語りにくいテーマであっても、都合のよい沈黙に逃げこみはしない』って、まんま今のインターネットのことにも思えますよ。いつの時代も似たような役割のものがでてくるもんなんだな。でまあガルムはお国のへんな決めごとからフィン右翼(当時フィンランド国内はスウェーデン語が公用語みたいになってたアレでやたらとフィンランド語を使わせようとしてたとか)のバカさかげんを嘲笑したり、戦時には敵対したソ連やドイツをさんざんネタにしたりとジャンルをのりこえて攻撃したためになんか各方面からの文句はおろか脅しだのなんだのいろいろあったらしいんですけど、それでもレインさんの信念のブレなさと敏腕ぶりによってガルムには毎回いろんな執筆者を招いてたために守りも万全で、そういうことも手伝って長続きできたっぽい。戦争とか終わって平穏になってくるとヤンソンの描く挿絵も「街角でみかける風景」とか「芸術家にありがちな光景」みたいなコメディタッチの挿絵が増えてくんですけど、そのイラストの片隅にあきらかにちっこくムーミンぽいのが描かれてて、中心に大きく描いてある人の行動をみてなんなの?とかヤレヤレ…みたいなポーズとかしてたりすんですけど、ムーミンてもとは赤塚キャラでいうケムンパス的というか手塚キャラでいうヒョウタンツギ的なキャラから派生したものなんですな。気合いいれてつくりあげたとかじゃなくてなんとなくできちゃった的な。ぜんたいガルムをつくったレインさんの辛辣な批判を笑いでくるむことを忘れないやさしさと、トーベヤンソンのやわらかい筆致(母親のほうは悪意丸出し系の筆致だったらしい)が合致したことも存続にかなり影響したんじゃないかと思う。冨原さん本に関しては折り畳みでカラー図版をかなりのせたことがかなり快挙な気がする。やるじゃないか!!>青土社!!なんか個人的に腹たつけど!!
なにしろトーベヤンソンや北欧の挿絵画家たちの背景にこんな戦闘的な出自があるとはつゆしらず。すげー参考なった。冨原さんありがとう。