動物の肉をさばくとき、人は外科医、解剖学者、人喰い鬼、暗殺者、大祭司になる

『主人公は猫のパイパー・ポー。こいつが大変な悪童なのだが、なにより嫌いなのは、かあさんにキスされること。過剰な愛情にはうんざりなのだ。(中略)トイレで歯を磨くシーンが不衛生だとか、朝の食卓に「シュナップス」の酒瓶が置かれてあるのが教育上よろしくないとか、偽善的なピューリタニズムに支配されたアメリカの児童書の世界からほとんど難癖のような非難をあびたといういわくつきの、ハードボイルドな傑作。』(p.28)

『ウンゲラーはバービー人形を素材にしたオブジェをたくさんつくっているのだ。さぞかし好きかと思ったら、「大嫌い」だそうで、嫌悪を感じながら無視もできず、気がつけば大量に所有するバービー人形は、想像力の妨げだからと顔はもぎとられ、手足や胴体もこれでもかと改造されている。「バービー人形は”人形のような女性”の象徴です。わたしは人形みたいな女性が大嫌いです。それに、バービー人形は消費欲をあおります。バービーで育った女の子は、やれあたらしいドレスだ、靴だと、欲望をおさえることができなくなる。こどもにとって危険きわまりないフィギュアなのです。だからわたしはバービー人形が発売されるとすぐに買いもとめ、見せしめのために拷問にかけてやりました。フライパンで揚げたりとかね」
 こども向けのおもちゃに性的暗示をこめた改造をほどこし奇妙なオブジェへと変身させる情熱。あなたはウンゲラーがバービーに抱く、憎悪という名の愛情が理解できるだろうか。』(p.63)

『1960年代の終わりには大好きだったニューヨークも転換期を迎えていました。雑誌に代わってテレビが急成長を遂げ、広告の予算も雑誌メディアからテレビへとあっさり乗り換えられた。あの時代のすばらしいものは、もうなにも残っていません。あまりに移り変わりが早いのがアメリカです。そしてニューヨークには強い麻薬がはびこりはじめていました。そりゃわたしだってみんなと同じようにマリファナLSDを経験したことはありますが、でもひどい麻薬には手を出さなかった。想像力さえあれば、麻薬なんて必要ないのです。いまのわたしにとっていちばんよくない麻薬といえば、ほら、この煙草。こいつはほんとうによくないんだが、やめられません。話がそれましたね。マッカーシズムの時代には、ニューヨークが理不尽な弾圧と闘う砦となりました。でも弾圧がなくなったことで誰も闘おうとはしなくなった。』(p.76)

ストラスブール時代、アメリカは民主主義の国だと思っていました。いざ来てみると、アメリカにはチャンスは転がっていても、民主主義は存在しなかった。病人の面倒をみることすらできない国に民主主義などありません。アメリカに背を向けて立っている自由の女神は、この国には自由はないことをしめしています。自由の女神をつくったのは、コルマール出身の彫刻家、フレデリク・バルトルディでした。そうです、自由の女神はわれらがアルザス人によってつくられたんですよ。
 アメリカは、ポジティヴであると同時にとてもネガティヴな面を抱える、厄介な国でした。(中略)ニューヨークの知識人でさえジャズやブルースの話題を持ち出すと嘲笑したのです。』(p.73)

『わたしとイヴォンヌはニューヨークを離れ、カナダのノヴァスコシアに行くことになったわけです。
 大西洋に面したその土地は、荒涼たる自然に満たされた無法地帯でした。あまりに犯罪が多発するので、警察署さえも閉鎖されてしまっていたほど。誰かが誰かをいつ殺してもおかしくない雰囲気は開拓時代のアメリカ西部さながらで、自衛のためにわたしも常に銃を携行していました。あるとき、隣家の住人が自分の兄弟に7発もの銃弾を撃ちこんで殺してしまうという事件が起きた。なぜそんなことをしたのか訊ねると、彼は答えました。「トム、1年に1度はこの銃を撃たなくちゃならないんだよ。たまたまその相手がおれの兄弟だっただけだ」。当然ながら裁判にかけられたものの、判事たちも彼に対して完全に腰が引けていて、判決はこうです。「もうこんなことはくりかえさないように。これはあなたへのアドヴァイスです」。そうして彼は釈放されたのです。
 ニューヨークとはまったくちがう意味でハードな毎日でした。でも、どれだけハードな環境でも、ゆたかな自然、とりわけ海がそばにあればわたしは満足です。(中略)ノヴァスコシアの住人たちにとって最大の娯楽がなにかといえば、「放火」でした。彼らはまるでスポーツのように、他人の家に火を放つ。燃えさかる家を眺めながら、こどものころ目のあたりにした戦争を思い出したものです。ノヴァスコシアには6年間住みましたが、そのあいだに近隣の家々の3分の1が焼失したのです。三つあった魚の缶詰工場も、すべて放火で焼け落ちました。ニューヨークで暮らしていたイヴォンヌがそんな土地での生活に適応できたのかって?ええ、まるで問題ありませんでしたよ。彼女はすばらしいんです。
 食べ物の不味さには閉口しました。そこでわたしとイヴォンヌは、すべて自分たちでまかなうことにしました。豚や羊を飼い、そして彼らを殺しては、さばき、肉の塊や自家製のソーセージをよその家にも届けてあげたり。農場で動物たちとともに生きることも彼らを食べることも、すべてが冒険です。』(p.79)

夫人とか家の人から夏休みとらないの?って言われるのはわかりますが、お客さんまで休まないの?休んだほうがいいよーとかなぜか諭すように言ってきてちびっと心がゆらいできている。夫人なんか1日だけなら有給休暇あげるから休みなさいよ!とかいいだす始末でそんなんまでして休ませたいか。なんか逆にやすみたくなくなる。つーかその日しかやらない映画とか展とかあるならなんといおうとやすむものですけど、べつにねーしな。まあそのうちやすむか。とかなんとか言いつつこの日記自体の更新頻度をちょっと減らすかなーとか決めかかってもいたり。前のとこでも減らしますーとかいって結局ムラムラして1ヶ月くらいしか休止もたなかったんだよな。つーわけでしばらくなんかみた時だけ更新にいたします。深町さんはリアルに仕事とかの関係なんだろうなあ。休止をするにあたっておいらには目立った理由はないです。ただなんとなしにやめたり唐突に書いたりしてみる。
ところで上記『』内はこれのもので、本日題はその80頁に書いてあるものです(追記8/19。これにもウンゲラーインタビューのってます)。内澤さんが絶賛してた(←下のほうで)んでへーえと買った。正直トミーウンゲラーの絵本て強盗の3人が孤児村つくるやつくらいしかすきじゃないっつーか…なんかよむ絵本をえらぶ際に作者で選んじゃう傾向がちいさいころからあった(ヤなガキ)んですけど、ウンゲラーかーと思ってみてみると前によんだのと絵柄とか作風がぜんぜんちがってることがたしかけっこうあって、ええ…?あの前作のカタルシス感は…?みたいな違和感のが先走っちゃってろくによんでこなかったんだよな…。いまこうやって取り上げられてるもんみたらなんかかなりステキ(特に「キスなんてだいきらい」はふつうにハードボイルドでおとなむけな気も。あそうそう、そういえばこれとか猫のでる絵本てなにげにハードボイルドちっくなのが多いですな。最近でたまんがではこれイカスし)でちょっといそいでみてみる予定。しかしさー民放のアニメとかでもあるけど、子供のみるもんに酒やタバコ描いちゃいけないってどのツラ下げて決めつけてやがんのかと思うよ。家族のいるチビッコはみんな生活空間でビール瓶や焼酎のパックをふつうにみててあたりまえなのにさ、いつも目にしてるもんを創作物ではみせたらだめってバッカじゃねえの。こんなアホみたいな決めごとして正義を成したとか思い込んでるクソッたれ偽善者はアルコール類いっさい摂取しねえんだろうな?食い物屋が出してる酒瓶とかもぜんぶキレーに回収してまわれよ。てめえの考える「子供」のちかくにはそんなもん存在してねーんだろ?このテのアホンダラに作品で正面きって戦いを挑んだウンゲラーはたいへんな侠気のあるナイスガイということはよくよくわかりました。あとドイツ軍占領下だったがゆえに3ヶ月でドイツ語をしゃべれるようになった件とかフランスの軍隊にナチスの行進曲を教えたらものすごいみごとな行進するようになった件とか、エピソードてんこもりですな。68頁に書いてあるお父さんの死についてのとこで、早すぎる死だったゆえにノスタルジーやインスピレーションの源泉になっているのと同時にコンプレックスでもあるとか書いてあってそうなのかーと思った。人の死はいろんなものをもたらすんだなあ。総合してウンゲラーはチビッコのおいらにはまだアバンギャルドすぎる作家だったのだな。もういちど読み返してみます。ウンゲラーの男の子全開っぷりにくらべると、男の子作品と呼ばれている絵本が実はそうでもないことがちょっとあぶりでてきた気がする。酒やタバコを描けない時点でもう勝手な理想の子供像をつくっちゃってる証拠だもんな。
全然関係ないですが、店の商品がいくつか切り裂かれるという事件が起こっていたりしてます。切られたところをみるなりこれは精神異常者のしわざだと社長がなぜか断言してた。手の中にちいさな刃をもった男に要注意。切った奴はバラバラ遺体になって死んでいってね!