聖なる乞食、聖なる金持ち

昨日はココシャネル(新宿武蔵野館)→パティスミス(シアターN)→マーターズ(N)で、マーターズはひさびさに並大抵の覚悟ではみられない作品。キリストが痛めつけられる映画ですら観賞後にここまで打ちのめされることはなかったというのに。こういうと大げさかもしれないけど、なんか他人が負った苦痛や不幸の重さをこの映画をみることで追体験できるかも。作品の出来がどうなのかはおいといて、観客に「ショックを与える」という点ではここ最近ではずば抜けた作品であることは断言できる。スジとしてはいわゆる監禁モノで、なんの脈絡もなく拉致監禁された子供や女性が、監獄のような場所で日ごとに一定の暴力と食事(流動食)を与えられ続けて数十年過ごさせられるわけです。そこからかろうじて逃げて施設で育った女性が、施設育ちの女友達の助けを借りて自分をひどい目に遭わせた連中に復讐(皆殺し)をしに乗り込んでいくもので、不条理な暴力にさらされた被害者が怒りに駆られて加害者と同じ鬼畜になってしまう悲しみが描かれるわけです。ふつうの作品ならここで終わるわけですが、マーターズではこの時点で前半で、後半はその監禁が狂った個人がやっているものではなくある団体が明確な目的をもって行っているものであることが明かされ、監禁によって精神を病んでしまった者や逃げ出した者はその目的には到達できなかった不要品であることが主人公(復讐の手伝いで来た女友達)に突きつけられ、こんどはその目的への実験体として主人公が監禁されてしまう。着るものはタンクトップとパンツのみ、髪の毛は坊主にされ、排泄は穴のあいた椅子で座ったまま、食事は流動食のようなものを無理矢理食べさせられ(吐くと殴られる)、どういうわけか屈強な男から何発かぶん殴られる。毎日一定量殴られるため、治癒するひまもなく顔はどんどん腫れあがってもはや原型をとどめていない。死ぬことも許されないまま生きながらに希望をことごとく剥奪されつつ、ひたすら感情のない肉の塊のように存在しつづけるほかにない。多くの監禁被害者はあまりの苦痛によってあらぬ妄想に囚われ発狂していった。ある者は虫が体中にわく妄想、ある者は監禁された者を救えなかった罪悪感から生み出された悪鬼のような者に襲われる妄想。そんな地獄の日々のなか、主人公はこの世にはいないはずの友と会話するかのようなしぐさをみせるようになり、その「会話」からこの地獄を切り抜ける方法を見つけていた。感情をなくせばいい。つらいと思わなければいい。不幸だと思わなければ、どんなことも乗り越えて生きてゆける。地獄を与えているつもりの計画者は、日々の仕打ちにも発狂せず、苦悶の表情をみせなくなった主人公に業を煮やしてある非道の手段を彼女に施すのだが…というのが大スジ。通常は死ぬことでしか「自分」の一切を捨てることなどできないものですが、生きながらに「自分」をすべて捨てた者にはもはや苦痛や怒りなどなんの意味もない、というアレ。自分の意志とは関係なく悟りを開くことを余儀なくされてしまった、不幸なんだか幸福なんだかよくわからないある女性の光景を描いた映画です。他人からすると間違いなくどん底の状態にしか見えないのに、当人はさわやかな表情なので一概に不幸とも言い切れないしなあ…みたいなえもいわれぬ感覚に襲われます。「自分」を持ってる状態と捨てた状態ではどっちが幸せ?「自分」を持ってるって実は不幸なことなんじゃないの?という人間性の根幹をゆさぶってくる展開。しかしジャンルがスラッシャーで題が「マーターズ」じゃあマニアにしか注目されなさそうでちょっともったいない。あとでパンフ見直してもういっぺん書き加える予定ですけど(パンフの最後の頁に書いてた人のバタイユがらみの文が良かった)、これって実は宗教者の方とか必見な内容のように思いますよ。なんか志が異常に高い作品な気がする。まちがいなくふつうのスラッシャー映画じゃないです。
ココシャネルは夫人がシャネルにある華やかさがぜんぜんないと言って憤慨してたアレ。昼飯時に夫人と話してたんですけど、シャネルの金持ち男渡り歩きは映画ではどの人とも痴情のもつれ風に描かれてるけど、実際にはどうだったかわからないわねー(シャネルは相当なヤリ手なので実際には商売的な目的で近づいたケースがほとんどでは?)とか言っててそりゃそうだなーと思った。あと現代シーンで失敗したショーと成功したショーに出てた服のちがいがなんだかわからんかった(夫人はよくわかったらしい)のと、水着とか紳士モノからのアレンジ後のビジュアルが普通というか地味すぎてさしておもしろみがなかった。あの現代シーンの女の子の袖をシャネルが破くとこも、女の子は「ステキー」とか言ってるけど、驚くほどよくはなかったし。ぜんたい素人目にも納得するようなわかりやすいビフォーアフター的美しさとかはぜんぜんなくて、極力普段着として遜色のないような見た目にしようとしすぎなところで映画的な面白みが欠けすぎてた、という意見では夫人と一致した。せっかく映画なんだからそのへんの目の保養的見せ場を考えてほしいよなあ。抑えすぎなんですよなんか。目でたのしませるもののはずなのに(写真集とかをみると本来的な良さはぜんぜん出しきれてないことがわかる)。スタンダードな形をはずさない系ブランドだからしょうがないんですかね。
本日題はパティスミスの詩でなんにでも「聖なる」をつけるやつがあって、それのまねっこ。パティスミスってふつうにロックの人なんすね。詩の朗読オンリーの人なのかと思ってた。あとやっぱヒゲ生えてた。ヒゲといえばえぬでは金沢でかかってた総統のプロパガンダ映画をやってるアレでパンフもつくられてて買ったんですけど、そのなかにポンニ語訳の総統の演説がのってたんですが、同じ演説のなかで「平和」と「ブチ壊せ」の両方を叫ぶふうなとこがなんかロックの人とちょっとおんなしなんだなーと思った。最近流行りの新興宗教の人の叫んでる内容も総統の演説とすごく似てますし。「平和を愛して敵を倒せ」とかの矛盾してることを何度も強調してくり返して叩き込む系アレ。「時と場合による」とか入れちゃ勢いなくなっちゃうか。