ペテンはペテン師を逆襲する




ハリファックスの切りつけ魔事件が興味深いのは、捜査の結果、ハリファックスには切りつけ魔などいなかったということがわかったからである。被害者たちはみな奇怪な集団妄想にとらわれて、自分自身の身体を傷つけていた。わが詩的な思索の中では、あたかも、ホワイトチャペルをはじめとする犯罪を生みだしたなんらかの暗く地下深き力が、ハリファックスにふさわしい受渦を引き起こしながら、その中心にほとんど神秘的ともいえる空虚を残したようにも思えるのだ。ハリファックスに本物の連続殺人鬼があらわれるのはまだ先のことになる。』 (フロムヘル下・補遺I・p.40)

『ホワイトチャペル連続殺人についての書物のどれか(ドナルド・ランペローの「十人の切り裂きジャック」かもしれない)に、警察に協力を申し出た多数の人間の中に、コナン・ドイルの友人でシャーロック・ホームズのモデルだと目されていた人物がいたと記されていた。多くの切り裂き魔フィクションが、文学と映画の両面において、虚構の人物であるホームズを同時代者である切り裂きジャックと共演させる誘惑に抗しきれずにいるのを見てきたから、ここでそういうファンタジーには少なくとも歴史的根拠のかけら程度はあるのだと示しておこうと考えたのである。』 (フロムヘル下・補遺I・p.36)

『p.15では作家ロバート・ルイス・スティーヴンスンが悪夢を見て、それが彼のもっとも不気味な作品「ジキル博士とハイド氏」の創作につながる。この逸話はスティーヴンスンの人生についての記録ほとんどすべてに登場するが、今回はPenguin Classics editionのDr.Jekyll and Mr.Hyde and Other Storiesの序文を用いた。スティーヴンスンが邪悪な霊感に満ちた夢を見るのは1886年のことである。
 それから2年もたたないうちに、「ジキル博士」は芝居となり、ウェストエンドの劇場にかかった。まさしくホワイトチャペル連続殺人が話題になりはじめたときである。主役を演じたアメリカ人役者リチャード・マンスフィールドハ、ジキル博士からハイド氏への変身を生々しく劇的に演じてみせたが、その演技が暴力や殺人を助長すると非難を受け、結果観客は減ってしまった。マンスフィールドは一時期、説得力のある悪を純粋に演技だけで表現できるわけがないと考えた人たちから、切り裂きジャックの犯人として疑われたこともある。これはどう考えても根拠のない話だが、エドワード・ハイドとホワイトチャペル殺人鬼とが同じ時期にロンドンにあらわれたというのは無視しがたい共鳴である。』 (フロムヘル下・補遺I・p.40-41)

『(中略)目の前にある酸鼻を極めた惨状からの乖離、いわば神のような視点こそ、この場面で読者に感じてもらいたかったものである。肉体損壊に対する感情的反応が、われわれ自身のそれとは、大きく、大きく異なっている異人の目を通して一瞬だけ世界を眺めること。』(フロムヘル下・補遺I・p.34)

フロムヘルよみましたが、1800年代末の英国に関することをしてるひとは分野とわず読んでおくと吉な本。コミックというふれこみですが、日本の漫画のコマの形状がまま作家の独自性や感情をあらわすかのようにバラエティゆたかな多種多様さなのに対して、フロムヘルではコマの大きさがほぼ一定のまま進むために映画のストーリーボードをみてるかのような業務的ともいえる雰囲気で、まるで作家が読者に対して「ここに並べてあるすべての説を客観的に見ること」を強く要求してるかのような一風変わったつくりになっています。話としては切り裂きジャックが生まれ、育ち、老いるのを軸に王宮周辺から貧民窟にうごめく人々の生々しい生活風景に付随するあやしげな連中と治安維持組織のありさま、文学者や思想家、それらを内包するロンドンという街および建築物の地理や由来をまんべんなくからめとって描いてある世紀末ロンドン一大絵巻といった風情の内容です。貧民窟の娼婦のでるシーンが多いせいか比率的には卑近で下品なセリフと描写が多いんですけど、これが多いがゆえにフロムヘルという作品に血が通ってるというか、汚物と疫病まみれのロンドン下水を形づくる敷石のひび割れまで染み込んだ汚水のニオイが割れ目の1本1本すべてから漂ってくるかのような、街の悪疫のむせかえすような雰囲気をかもしだす役目をはたしています。客のとれない娼婦が老人の男の風呂から下半身の世話までしてるとか、なんかまるでその場にいたかのようなリアルさでうわーとなります。最下層の状態でその国がなんとなくわかるもんなのか。とにかく当時のいかがわしいモノはぜんぶこまかくブチこむ方向なので嘘っぽさがなさすぎてウッとなるほどです。切り裂きジャックと呼ばれるようになる男は必要に迫られてそういうことをすることになるんですけど、その人が元来だれに知られることなく危険なものをもっていて…みたいな展開で、その人が過去や未来の幻視者と交わってゆく描写はベスターのSFちっくですし、はじまりと終わりの部分が微妙に円環構造なところなんかは母なる証明的な骨太でしっかりした完璧にちかいつくりになってるし、作中にちりばめられたこまかな風俗と歴史的な蘊蓄の数々を逐一もりこんでるとこからして作者のアランムーアっつーひとはマジメな学者肌なんだなーとしみじみしました。上下巻読後にもういちどパラ見するといろんな箇所にいろんなネタがさしはさまれてるっぽいのがみてとれる気もしますし。ぜんたい「奇妙なことがいつ起きてもふしぎじゃないほどの混沌」のさなかに実行派の幻視者がひとり出てしまった話というか。下巻の巻末で切り裂きジャック推測がいかにたくさんあってヨタばっかりか、みたいな自虐含めたジャック踊らされ風刺漫画がありましたが、いまだに当時の混沌に巻き込まれつづけてるってことですかね。コーンウェルのもムーアからしたらヨタなのかしら。作中では迷信とか霊とか超常現象とかを「信じる/信じない」じゃなく、そういうことを利用する輩と信じ込んでしまう輩(どっちもそうなる過程がしぜんでリアル)、それにリアル(かどうかは謎だけど)な生まれついての幻視者と、すべての立場を描いてるのもよかったですし、それと平行する形で同時期の切り裂きジャック事件の影響下にあるとみなしても遜色のないような描写や内容の創作物とその作家をしきりにチラ出してるところもへんにリアリティが醸し出ててこまる。架空のつくりばなしも使い方ひとつで現実への説得力になりうるものなんですね。ある特定の時代を語るに際して同時代のものであればどんなゴミクズであろうと素材になるってことなのか。作者が犯人だった、みたいなオチの小説を手にもってる描写が1コマだけあったりとかちょっとおもしろいですし。リアルタイムつくりもの関連では各章ごとに掲げられてるたった1行ぽっちの文学作品中からの抜粋文だけでいうのもなんですけど、内容的にあまりに合致していてなんとなくリアルタイムな作家の考えみたいのに触れたかんじがした。あとイギリスが男中心な国なのがなんとなく納得いった。ガルは仕事とはいえ女王に跪いてることにはなんの抵抗もなかったのかな。結局オチとしては「悪魔は神の創造物にただ驚きおののくばかり」ってことなのかしら。ガル関連では補遺Iのp.20に書かれてる「1分以内に足を切り落とせる」ナイフ(戦時に麻酔なしで意識のある兵士の手足を切り落とす必要が生じた際、苦しませることを極力減らすためのアレで開発されたとか)がすごく気になる。いまも使われてるのかしら。