星さんのおはなしにはやたらに余地があるからこそ魅力的なのかな

・昨日はカールおじさんの空飛ぶ家(渋東シネタワー)みましたが、吹替えが全員ちゃんといっぱしの声優さんだったので安心してたのしめました。デズニーやピクスァーの方は今回と同様にポンニ上映の際の吹替え要員契約には今後もじゅうぶん注意していただきたいものです。一時的な話題づくりのためだけに演技もろくにできない芸人とかアイドルとか据えられるのはマジうんざりです。端役キャラならまだしもメインキャラとか作品壊しかねないとこを馬の骨にやらすのはやめれっつの。カールおじさんの内容としては長年連れ添った伴侶を亡くしてその上愛着ある家まで取られそうになったおじいちゃんが一念発起して風船で家ごと憧れの地までいってみる話。冒頭のおじいちゃんとおばあちゃんの幼い日の出会いから老いるまでを駆け足でたどる映像での人生模様のあるあるディティールがいちいち凝ってて、客席にいるおおきなおともだちは感涙必至のリアルなつくりになっています。その後は飛ぶ家を操作して南米までいったり犬がしゃべったりでかいトリがでてきたり歩行器頼りだったおじいちゃんがなぜかシャキシャキと空中アクションをこなしていたりと、まんが映画ならではの「ねーよw」展開が畳み掛けてくるものの、ちゃんと「豊かな老後」オチでシメるところはさすがです。老いるほどよけいに人と関わっていくが吉、というあたりはグラントリノとにたような傾向です。劇中でおじいちゃん同士で戦うアクションシーンがあるんですが、ふたりともおじいちゃんなので刀振り上げると身体のあちこちがグキッとしてそのまま動けなくなったり、からだが動かせないのを逆手にとって入れ歯吐き出しアタックなどしたりもします。その他のシーンではおおむねシャキシャキ動いてましたが、必要とされれば動けるようになるっていうアレなんでしょうか。自営業や職人といったマイペースでできる仕事をもっている老人がいつまでも変わらず仕事をし続けているように。

エーコのみにくい本は図版だけじゃなくて、あらゆる「醜い」描写や解説のある文章のごく一部分をジャンル問わずあちこちから引用してあるとこもすっげえツボ。文体フェチのおいらとしてはイカス表現部分の羅列とかたまらんモノがある。エーコのみにくい表現抜粋文を数時間じーっとよみつづけたあと、そこらの小説とかパラ見するとどうも「醜い」系譜の部分に目がいってしまうがしばらく持続して、エーコからちょっとした洗脳を受けたような錯覚にとらわれたほどです。「醜い」には扇情とか刺激とか、感情が揺り動かされるドラマチックのもとがタップシ詰まっていて目が放せない。 エーコのうつくしい本のほうはなんとなくつまんなそうなのでみてないけどどうなんだろ。極めた美ってそこで完結しててなにも生み出さなそう。精神性の面でいうと、ポンニでも芸能人に多そうな「面食い=ナルシスト=潔癖性」のコンボを患ってる独身者が「生み出さない美」にあたるんだろなと思う。自分を高く見積もるあまりに付き合う相手に自分の尺度を頭ごなしに押し付けて、相手の個性や価値観を認めたり理解しようとはぜったいにしない暴君タイプ。他者否定の潔癖性が正義とばかりに暴言を吐く坂上忍をはじめとして今田耕司とかナイナイの岡村とかがそれにあてはまりそうなカンジ。「相互理解」でなく「唯一者による絶対支配」を善しとする世界観。お笑いコンビだとボケ側(道化=破壊者)に多いのかな。ツッコミ側の秩序をもたらす者のほうが結婚生活がうまくいってる人間が多い(ダウンタウン浜田雅功とか)ってのは理屈どうりすぎてどうかと思うけど。仕事上では暴君のほうがむしろうまくいくことが多いだろうけど、私生活でそれされたらふつうの人は逃げ出しますわね。牢獄に入ってる奴隷と同等の精神状態になるだろうし。しかし潔癖性の人の理想どうりのなにもかも完璧に兼ね備えた結婚相手が仮にでてきたとして、そういう完璧な相手と安心して暮らしていけるのかね。その完璧な相手に対して暴君のほうも「完璧」なふるまいができるのかという。暴君タイプのひとは暴君的にしていいところとそうでないところの切り替えとかできないのかね。それ以前にそんなこと望んでないか。自分ひとりだけが心地よければそれで世界は安泰っていうナルシストだけに。相手を支配下に置くことを愛とはき違えてる困ったちゃんといえば今回の町山さん番組は自分の意志とは関係なく、なりゆき上で司法機関の改善に関わってゆくことになるチェンジリングのアンジェリーナジョリーの役柄を彷佛とさせる老夫婦編で。元カレと子供を両方殺した女は映像の言動みるだに自分の思い通りにならない相手を暴力をふるうことで意のままにしようとする傾向の駄々っ子がそのまま大人になったような方のようでしたが、もはやどんな言葉で諭しても通じないほど気が狂ってしまってたんでしょうかね。子供の時分なら身近にいるまともな大人が愛情もって正せば徐々に直っていくでしょうけど、中年になってまでその状態の人にはだれが何言ってももう直らないものなんだろうか。カナダの子供保護のからくりがぜんぜん機能してないのを正すのはもちろんですが、おとなになってまで駄々っ子精神状態のままでいる危険な人を根気づよく真人間にするために寄り添っていくようなしくみをつくることも同じくらい大事な気もする。なんとなくあのザカリーちゃんと無理心中した女のひとは自分や他人を傷つけて振り向かせる方法しかみてこなかったんじゃねーかなと思う。特に幼いころに。あの女が全部悪いんだ!悪魔だ!って片付けるのは簡単だけど、それは今そういう状態でいる人を切り捨ててみないフリするのとおなじだけにいつまでたっても真の解決にはならん気がする。
みにくい本にもどしますが、現代の「醜い」図版としてマソソソ・マソソソだの物体Xの1場面(特に特撮系ホラー映画の1場面写真てさ、へんな場面のほどなんの説明つけずに1枚だけ置くとやたら想像をかきたてられて面白いとは前々から思っていました)をひっぱってきてるのもいかしてますし。大昔の絵と現代のパンクな若者を同列にならべてみると実はむちゃくちゃ似てるとか、そこらへんの考えってちょっとインターネッツ的なコラージュ手法に思えた。

・休み前に買っといた漫画ではこれがなかなか面白かった。絵柄とロリネタ頻出のせいでマニア向けの単なる萌えモノにみられがちかもしれませんけど、内容としては西洋童話ネタ盛り込み&設定踏襲したうえでそれを反転さすというなかなかしっかりしたしくみのものです。有名な童話の主人公が元来備わっていた個性を奪われてしまったがゆえに、たどりつくべき結末までたどりつけなくなってしまった=「童話世界のめでたしめでたし」がいつまでたっても訪れない永遠のファンタジー世界に本来的な「終わり」をもたらすべく、ピーターパンにでてくるウェンディが各童話のキャラクターたちに個性を取り戻さしてやるべく冒険の旅をしている、という物語なんですが、なんでウェンディがその役目を負っているのかというと童話キャラから個性を奪った張本人がピーターパンで、ここでいう「個性を奪う」というのが「影を奪う」ことなんですけど、影を奪われた童話キャラは元来もっていた性格とは真逆のキャラクター(例:嫉妬深くて我の強い幼児体型のティンカーベル→判断力のないほんわり巨乳女子)になってしまって、そうなるとそのキャラクタが生きていた物語のスジとはまったく関係ない造形になってしまって本来生きていた「物語」もほったらかしというかないがしろになって話が先に進まないまま宙ぶらりんのファンタジー世界がいつまでものんべんだらりと続いてしまっているわけです。2巻の最後くらいでピーターパンがウェンディを現実の世界に戻らせないようにしてる理由とかがちょっと出てくるんですけど、なんか辛く苦しいことしかない「現実」を幸せなファンタジー世界に背を向けてまで取り戻す必要があるのか、みたいなことが絡んできててわりと根っこはシリアスだったり。特に2巻のラストは人魚姫がらみで「破滅しかないのにそれでも進むこと」がテーマになっててけっこう興味深い。作者さんがどこまで踏み込めるかわからんけど先がたのしみです。人魚姫って腹くくった人の生き様という点ではワイルドバンチとかと変わらない気もする。あとこの作品の題が「Peter Pan」のPanに「I」をいれて「Pain」にしたもののようなんですが、英語ロゴマークだとその「I」が劇中で影を縫い合わせるための針として描かれてるのをはじめとして、ほかにも童話世界的な記号がいろいろと散りばめられているもよう。ただティンカーベルは元の姿に戻ったらあのデズニーの破れビキニっぽいかっこにすべきと思った。まあ森見さんの作家矜持的に独自スタイル描写は外せないのでしょうけど。有名キャラを自分の色に染めてやるたのしみはふつうに逃さんわな。