子供をいさめる大人かのような態度も気にくわんな

村上隆への批判に対して「村上隆批判=オタクがただ嫉妬してるだけ」という決めつけを免罪符かのように振りかざす村上擁護者にはかねてから違和感があった。本当は村上批判への正当な反論ができないのを隠すために言ってるのでは?そんなことはないというなら、おいらのここでしてるコメント全てに反論してみてください。ひとつ残らず納得いく答をする方がいたら、村上擁護者が批判に対しての正当な反論を持っていて少なからず一理はあることを認めます。コメントへの反論でひとつでも残しているものがあるのにまだ「村上批判=オタクの嫉妬」をふりかざすのならそれは傲慢な差別的ヒステリーでしかない。村上擁護者はネットの村上批判はオタクが嫉妬してるだけのくだらんものしかないとか言いますけど、それは自分がそう思えるモノだけみてるからそう思うだけなのでは。ネット上で検索すると、オタクさんによる村上批判よりもむしろ村上擁護者がさも正論かのように書いた「オタクは嫉妬してる」論のがたくさん出てくるんだよねえ。これは推測でしかないですけど、村上隆を擁護する多くはもともとオタクに嫌悪感を持っていた人で、村上が美術作品としてオタクの愛好するモノをおちょくる形で発表して欧米で高評価を得たことが「自分の嫌悪感が世界的に評価された」かのように錯覚でもしているのではないですかね。だから村上批判が起きると「アタシのオタク嫌悪は世界で認められてるのに批判してくるコイツらなんなのwwオタクをキモがるアタシたちの感覚のがお前らより上なんですど?w」みたいに差別的で傲慢な言説―「村上批判=オタクが嫉妬してる」をことあるごとにふりかざして、日頃から持ってたオタク嫌悪をここぞとばかりに爆発させてるんじゃないかと思う。こういった人たちの差別思想を集約した作品が欧米で億で落札されるほどの評価をされたというのはなんとも皮肉というか、むこうにいる同じような心根をもってる連中の琴線を刺激したのかなあと邪推したくもなる。土壌がとまでは言い過ぎなので自粛するけど。もし村上がオタクと同じ目線の作品を「自分の恥ずかしい性癖として」出したらなら好意的に迎え入れられたかもしれないけど、現実にはオタクのキモさを標的にして世界的な舞台にのしあがった上、カネづるをおちょくることができない生き様をまるで偉いことかのように喧伝する現代美術家など標的にされた人間から嫌われてあたりまえだろう。
村上に標的にされて単純に嫉妬してるオタクさんもなかにはいるかもしれないけれど、基本的にオタクさんたちは(以下おいら文(でスマン)から抜粋)、
『>>あとどうして一部のオタクは清貧崇拝主義みたいなのあるんでしょうかね。
貴族層諷刺という信念を貫いた結果としての貧しさが魂の印になるからですよ。体制に逆らうバンクシーのようにね。村上はその逆をやった上でさらに正当化しようとするから嫌われるのです。黙って批判されてればまだいいのに、信者までもが「敬え」「批判するな」と押し付けてくる』
ということを漠然と感じてはいたけれど、ただ明確に言語化できないだけなのではないのかな、と思います。村上批判を「オタク=嫉妬」て片付けるってのはいくらなんでもバカにしすぎだよ。それが村上批判に対するまともな反論だと思い込んでるところもどうかしてる。人格批判に終始してるのそっちじゃん。