歓喜童子フィギュアください

・おかねがないんで外で欲しいもんがあっても指くわえてるしかないからなるたけ出たくないなーと思ってたんじゃが、メシをおごってくれるとゆうので実母の買い出しに付き添ってったらショーウインドウにキツネさんが飾られていたのでキャーとなって観賞してみたらわりとイイ展だったっつー。なんか佐々木岳久さんという作家さんので、朽ちかけて色の褪せた(おもに日本以外の国の)人物・動物写真に肉筆の手記的な文と計測具の目盛りじみた数値と線が重ねられた平面作品中心。よくコラージュ作品なんかで使われる「廃墟と数値」てのはなぜか妙に相性がよくて、人工物が「人外(=時間)の干渉」によって侵蝕された、てのが可視できる状態になってる物体が廃墟なんですけども、その廃墟が傷んだ箇所には「それまで経た日数」だとか「つくられた当時に注意深く施された計測」とか、いろんな「数」が含まれてるですよ。数値てのは新しくモノをつくる際だとか、おもに人間が効率よく物事を進めるために使われるもんですが、それに対して廃墟てのは例えばその家屋付きの土地をどうするか決まらない的に多くが宙ぶらりんになっている状態でつくりだされるもので、計算とか効率からは外れたところで期せずして熟成されてしまう。前者で使われた「数」の冷徹な先進性(=生)と、後者の重ねた「数」の緩慢な許容性(=死)が重ねて提示されることで、始まりから終わりに至るまでの時間経過をいっぺんに感じさすことができる。ちょっとした魔法みたいな感覚。色褪せていて、誰のだかわからない人物写真とか手紙てのもそれと同じで、「そこに記されてた者が誰だかわからんけども、ずっと昔たしかに存在していて、そこからの時間の経過があった」という「自分の知らないところで密かに積み重ねられた時間への存在」を知ることによって夢や異世界への憧憬に似た感覚を味わうことができるというのかな。それを真新しい紙と額でもって飾る、てのは郷愁にひたる際の心地よさや、忘れ去られてしまいがちな「過去」の不可思議さ、記憶のほんのわずかな部分に潜む痺れるような美しさを思い起こさせるに最適なんでしょうな。前に牧野邦夫の自画像が描いた当時にはぜんぜん売れなかった件にちょこっと触れた際に「誰だかわからん家族写真やビデオに大枚はたく人はいない」的なこと書きましたけども、佐々木岳久さんのやり方だと受け入れられやすいんだよな。まあ佐々木さんが作品に使うのは誰だかわからんヒト、つー点で押し付けがましさがないしな。誰だかわからないヒトや物の背後に潜んだ物語や秘密に惹かれる、てのもポイントだろうか。画家さんが作品つくるに自分をださずにいれない、てのも芸術に於いてはすごく大事なんすけどね。ぜんたい作品の特徴としては人格に問題があるヒトコーネルメクセペルをほどよくまぜたふうで、作品で使われてる画像はこの兄弟(HP)作品の微妙に朽ちた雰囲気にすこし似てるし、剥製づかいな作品傾向からするとこれに出てるのに似てるし、映画でいうとクエイ兄弟とかタルコフスキー、エコールあたりが好きなんだろうなぁ…と思いながら観賞してて、なんか作家さん本人(素直そうなイイ青年でしたよ)がいらしたんでよぎった作家名かたっぱしから出してそこらへんがおスキなんでは?と聞いてみたんですが、出した作家まったく興味ないそうで(激似なのに…)、好きな作家は大竹伸朗さんで、彼の作品の混沌をどんどん発展さしたらなんだかこういうふうになりましたとか仰ってましたよ。わからんもんだなぁ。じゃあ映画はアレだろ、最低限タル子フスキー好きは確実だろーと思って聞いてみたらフェイバリットはシャイニングに激突にタクシードライバーにセブンですって。なんとゆう映画秘宝くさい嗜好だ。つくってる作品とか詩とかは耽美ぽいのに。せめてシュヴァンクマイエルくらいは…と思ったんだがぜんぜんそっちじゃないようです。ふしぎなヒトだな。おもにボサノバとかサウタージ(日本語には訳せない郷愁を表す)という観念をもとに作品をつくってるとか。それと作品につかう剥製はとりあえず目についたのを買っておいて、あとでむくむくしてきたら使う傾向なんだとか。剥製屋わりとありますよーと佐々木さん談。
2巻で路上にウジャウジャ生えてる亡者の手のエピソードありましたけど、バカ殿の風呂場のやつはほんとうなんだなーとじーんとした。あの手の地面から下てどうなってんですかね。両腕上げてるヒトがたくさんいるんだろうか。地面から生えてる手にジャニーズのコンサートでマニアが持ってるアイドル団扇とかひとつずつ握らせてみたりできないんだろうか。あと修行道場で不動明王拝む坊主たちの積み重なった雑念がもとになって出来たサル的なアレ、てのは股間はどうなっていたんでしょうかね。若い尼僧がいるとどうこうとか出てたあたりからして勃起している状態だったんでしょうか。坊主の雑念パネェ。ほっとくと尼僧に襲いかかるんだろうか。この巻ではおもに密教のお坊さんの修行風景について描いてありましたけど、何万回拝むが苦にならなくなると、神様がいろんなヒトのお願いごとを聞いたり各人の状態を勘案した仕組みを同時にいくつも編み出したりするのが苦にならなくなる状態にたどりつけるようになんのカナーとなんとなく思った。この巻さー…しらない業界のことが描いてあって面白いは面白いんだが、なんか1巻ほどアガる感がないすね。もっとこう…作法まちがうと殺しにかかる神様とか、神様がヒトを殺す際には人体のうちのどこを具体的にどうしてるのかとか、怒った神様によって死に至らしめられたヒトの魂はどこいくのかとか、神や仏の怒りやこわいことになるしくみについてじゃんじゃん描いてほしい。こわい部分ほど事細かく説明してもらいたいです。滝上慈光さんのお寺でヒトに憑いてたもんが追い出されたあと、神木の道から修行場にいって修行積んで眷属になるくだりは面白かったなあ。神仏のもとでどういう修行を積むんだろうね?こわいしくみといえば四谷怪談検証でお菊さん=菊理姫説がでてましたけど、例によって結論はぜんぜんわからんけど思い当たったことだけ書いとく。皮膚てのは霊と現実を分ける境界なんすよね。それが傷んだり病んだり、ていうあたり…て、なんだっけ?書いててよくわからん。えーと、ゾンビ化したイザナミさんと逃げるイザナギさんを隔てる「岩」とか。「境界(=ヒフ)」が「病む」ことが原因で村八分になるとか。やっぱ生贄とかそっちなんかな。菊理さんも境界系の神様なんだろうか。よくわからん。摩陀羅さんと同じふうなかんじの。菊と水に関してはちょっと気になるんよね。実家があるとこも菊の名がついてて真ん中へんに水系統の名前の曹洞宗のお寺があるんで(近所に白山神社もあるよ)。あすこには高校時代にやっかいな知人を引き離してもらったりして間接的にお世話になったなあ。あれ以来お参りしてないや。聖天さんとかダキニ天さんとかは困ってるヒトがいるとストレートに助けてくれる系のまっすぐな性質なんすけど、聖観音さんとか摩陀羅さんてのはその真逆を課してくることがすごく多いんよね。たぶん同じように大事だよ、てゆってくれてるんだとは思うんだけども。余談だけど聖天さんが生理痛の痛みをとってくれようとすると摩陀羅さんが「本人のためにならないからダメ」て止めてるぽいんすよ。なので入ってる方々は基本「みてるだけ」です。なにがどうなろうと。あーあ。あ…でも3月頃に会田さん展いく予定だった日に夫人が酒に誘ってきて、エェ…どうしよ、と思ってたら夫人のケータイに突然電話がかかってきて、いく予定だった店に夫人の嫌いな人がいる、て事で飲みは中止になって会田さん展いけたんだよな。あの電話の唐突さは聖天さんだと思う。多分。何かやらなきゃならんときに入る邪魔は除いてくれるくさい。

ウシジマくんからお金借りにくる人てのはクチではお金をほしがってるものの、お金を大事には思っていない(場当たり的に欲求満たし続けるしか考えてない)がゆえにお金にずうっと踊らされてるんだよな。牛嶋社長は利息を半永久的に徴収しつづける目的で何人もの借り手との関係を続けてるのだけど、だからといって豪遊するわけでもなく淡々とうさぎさんたちとの生活を続けていて、牛嶋社長にとってうさぎさんてのは死んだお母さんがわりというか、ヒトとしてあるべき良心を象徴してるというのかな。何人もの借り手からむしった暴利をそのうさぎさんの世話に注ぎ込んでる、てあたりがなんとなく良心への供養をしつづけてる感。その図式がなんか神仏への寄付を浄財としているのとすごく似てるなと思って。牛嶋社長については前にツイッタで不動明王と書いたけどむしろ地獄の獄卒だな。どの程度苦しめればいいかわかってるとことかさ。適度にどれくらい締め上げればどうなるか、てのをちゃんと把握しててすごい。殺すよりも生かしといたほうがカネむしれるだろ、とはことあるごとに言ってるものの、牛嶋社長との関係があるがゆえにギリギリ生きられてる、て手合いもけっこういて、そこらへんの情を勘案してるのか、それとも純粋にむしる対象としか思ってないのか、それがハッキリしないとこもいいすね。関係ないけど超絶儲かってる寺社の受付のヒトが横柄な態度なことがわりとあるんだが、あれは商売人ではない(=金儲けを見下している)からそういう態度になりがちなのかなあとぼんやり思う。商売人のヒトはお客に対して横柄な態度をとることはめったにない(そういう態度のとこもあるけど、そのテのとこは強力な同業が近隣に来ると地元民から見放される)んだけどな。よそからきた嫁さんがお客に対して傲慢極まりない態度をしていた某魚屋が近所にあったけど(今はない)、あの嫁さんも実家は商売系じゃなかったんだろうなと思った。おカネに対してどう思ってるかって、すぐ態度にでちゃうんよね。お金を忌み嫌ってると結果的にすごく下品なふるまいとして出てきてしまう、てあたりがウシジマくんにでてくるお金に踊らされて無様なことになってるヒトに似通ってるなあとなんとなく。カネがどうこうとか無職のおいらが言えた立場でもねーんだけどさ。