とにかく自分がすべきことをすること

囚われ人 パラワン島観光客21人誘拐事件(13日。シネマート新宿)→コンプライアンス 服従の心理(シネマカリテ)→嘆きのピエタ(武蔵野館)→ベルリンファイル(17日。新ピカ)→李小龍 マイブラザー(武蔵野館)→パリ猫ディノの夜(新ピカ)→大妖怪展(20日三井記念美術館)→プレイバック・アーティスト・トーク(国立近代美術館)→ボディ3(工芸館)とみまして、大妖怪展は小松和彦さんの講演ついでだったんですけど、なんか現代のポケモンへとつづく日本の異形の変遷みたいなもんが垣間みれてちょっと面白かった。小松さんの鬼と妖怪に関する講演では、大昔は荒魂(怒って荒れてる状態の存在)を基に異形と化した存在はすべて「鬼」とされていた(キャラクタ名でなく状態を指す総称だった)のに、後年になってから鬼といえば「体色が赤・青でツノとキバの生えたアレ」というふうになぜか特定キャラの名称にされてしまって、それ以外の異形が「妖怪」と呼ばれて「鬼と妖怪は別ジャンルですよ」ということになってしまったことに小松先生がいかに胸を痛めているのかが繰り返し語られていましたが、鬼と妖怪が別個にされてしまうと、発生するに至った源にかつて存在していたであろう荒御霊(憤怒や憎悪)が変化するくだりが無視されることになってしまうので、そうなると妖怪それぞれの持っているはずの出自に関する物語にも目が向けられなくなってしまうことがとてもかなしいのだそう。講演の最後のほうで小松先生が「鬼それぞれの物語を知りたいのですよ!」と力説されていましたが、小松先生は鬼となってしまった存在を深く愛でているのだなあ、としみじみ思った。ホラー小説なんかでいろんな作家さんが短編を書き寄せてる企画とかあるけど、百鬼夜行する鬼たちを1作家1鬼で担当してその出自を想像で書いた物語を集めたアンソロジーとかどうですかね。講演のあとにちょっと小松先生の著作のなかの牛祭記述に関して聞いてみたいことがあったんで接近しようと思ったら手袋おじさんに追い立てられるように別室へこもってしまわれて聞けなくて残念だった。仮に近づけたとしても事情から白い目でみられて答えてくれなかったやもしれませんが。聞きたかった件つーのはこの絵の露払い役4人の内の、牛の前で走ってる中の頭に大根のせたヒトは聖天様(他の3人も聖天様レベルの神様)なんでは?という質問だったんですが、これは鬼がどうこうていうよりも摩陀羅さん関連なんで小松先生もよくしらんかったやもしらんしな。他の3人が頭にのせてるモノて見た感じタケノコとかミョウガとかくさいので、たぶん摩陀羅さんの好物なんじゃないのかなーと推測。摩陀羅さんて修行してるヒトを邪魔する役割(=修行者を守る存在と同義、吉と凶が等価であるのと同じ)だったりすんので、その存在が仕事する際に周辺警護を任されるてのはわりと強いちからをもってる存在でないとちょっとムリなんだろな(儀礼とはいえ大暴れされてマジギレしだすヒトがいるかもしらんし)。この牛祭り図で露払い役が顔にかぶってる天狗や鬼の面に関してなんですけども、かなまら祭りの時に練り歩くサルタヒコさんも天狗面をかぶってるあたりからして、「祭り」とか夜行のたぐいのときにはどうしてもその強面の面でなければならない役割が必ずあるってことなのかな。百鬼夜行てのは人間世界でいうとデモ行進的なビジュアルと似通ってるので、そこは「鬼面の必要性」と通じてる…かな。よくわからん。大妖怪展で展示されてた浮世絵なんかで妖怪を追い払ったりする場面で描かれてたのはたいてい童子(明王さんとかに付き従ってる子供の姿の仕事人)でしたが、道具が鬼化したもんに関しては童子でカタがつくってことなんだろうか。あと、インド由来の強面の神様で、日本では疫病神とかいわれて恐れられてる神様が多いんだが、その神様てのは全国大会で優勝するような吹奏楽部を率いてるふうな「こわい先生」と同じで、責任があるからこそ恐くなってしまうってのと同じなんでは。あと大昔にそのテの神様に不純な動機で近づいてヒドい目に遭った向きが、疫病神だから近づくな的な風説を広めたんじゃないのカナーと推測。神様とか鬼でなくとも真摯に向き合わないでいると痛い目に遭いかねない、てのは人間でも同じなんじゃないのかなー。家族しかり。ちなみにリンクした牛祭り図に描かれてる提灯には菊ぽい絵が描かれてるけど、あれお寺のほうの紋かなにかですかね。宮家とか関係ねーよな?あそうそう、大妖怪展の展示で鬼と化した器物を調伏してる中の晴明さん像があるよ。横長の机の上に紙くっつけた神社棒がいくつも並べてあって、その各々の前にご飯こんもり盛ってあった。それと展示の最後のほうに水木さんの原画がいくつか展示されてたけど、淡い色使いの綺麗さに感動した。キノコ展に出てた南方熊楠の淡い色使いの繊細な植物画と通ずる綺麗さだった。2人ともどっちかいうと男一直線なかんじなのに、意外と繊細さとか可憐さを持ってるヒトなんだろうか。水木さんの妖怪画の禍々しさ、てのは印刷では充満してるのに、原画では綺麗さのほうがバリバリだった。
国立近代美術館のはぼんやりした筆致の抽象画家さんの絵と、どうしてそういうふうに描くに至ったのか、自ら語ってる映像が脇で流れているという展で「できることをやってみたらそうなった」的なお話をなさってる方が多かったですけど、どの方もおおまかには「自分の感じた美しさや不可解さ」を鑑賞者にもおなじふうに感じさすにはどういう手法が最適か、てのを意識せずにやってるふうだった。現代美術や抽象画てパッと見はものすごい不可解で、自分以外の他者てのはどんだけわけわからん存在なんだ、とおののいてしまいがちだけども、じーっとみてるとどっかしらツボる箇所(きれいだったり笑えたりするところ)があったりして、そういう端々のわずかでも共感できた箇所からチビチビ近づいてくぐらいしか「他者の理解」てのはできんのだろうな…。とりあえずいちばん熱心にみた辰野登恵子さん談から印象にのこった件を以下にかいとく。
・小さい頃、指でつくった「内側」とそうでないところの違いをなんとなく感じていた。屋外では神社とか。そのかんじを作品にしてみた。
・ 連続性・不連続性、遮るもの
・「Unseen New York」に出てる模様が好きで作品にしてみたらビリージョエルのCDジャケに同じ模様が出てた
・無機的な「物」を有機的に感じさすにはどうしたらいいか?
・「モノ」ではなく「コト」(=出来事?)、人間に警告を与え続けるような存在
辰野さん作品で整然と並んだ升目の上に描かれた手描きの描線が、升目に影をおとしてるやつがありますけど、人工と自然それぞれのつくりだす現象が重なっている、という意味で前回の国立新美術館柴田敏雄さん作品とまぜこぜで展示された展がやっぱりピッタシだったなーとしみじみかんじた。
ボディのやつはヒトガタ以外にもなぜか器がけっこう出てましたけど、桂盛仁さんの小さいめだかの帯留と、八木一夫さんの水注ていう丸のよこから注ぎぐちがにょろんと出てるやつがこのみ。感想かくメモが中学生以下限定というのが残念だった。あの感想文、どれも面白いからツイッタなんかで出してほしいなー。
広島県呉市の女性遺体遺棄事件で、逮捕された無職少女(16)のLINE(スマートフォンの通信アプリ)仲間2人のうち1人が、「暴行をとめたら自分が殴られそうだった」と知人に打ち明けていたことがわかった。(中略)2人のうち呉市の少女は17日に逮捕される前、知人に電話で「遺棄した現場にいた」と告白していた。この知人によると、「(暴行を)とめられるなら、とめたかった。でも、そうしたら今度はうちら2人が殴られそうだった」などと打ち明けたという。』 (20日朝日11面より抜粋)
コンプライアンスは警官と名乗る男からの電話に延々と従い続けて、何の疑問もなく従業員の女子を辱め続けた店長が解雇されたり訴訟されたりした実話をもとにつくられた映画で、この電話をしてきてる輩てのが普段は警備会社に勤務してる奴で、どういう立場のヒトにどういうふうに言えば逆らえなくなるかってのをおそらく仕事柄から熟知してるんでしょうな。その電話つーのが「お宅の従業員の女子に財布のカネ抜き取られたって被害者が署まで来てるんだけど、おとなしく逮捕されるか、それがヤなら指示は出すからそっちで直接その女子の身体検査してくれる?」て内容なんですが、警察仕事がどういうもんなのかをちょっとでも知ってる向きならもうこの時点でおかしい(素人に被疑者の持ち物検査なんかさすわけないじゃん。しかも関係者だから証拠隠滅の危険もあるし)ことに気づきそうなもんですけど、標的にされた現場にいるヒトたちがどうもそういうアレをまったく知らない向きばっかしらしくて、特に現場の指揮権握ってるのがおばさんていう時点でちょっと偽りなき者のおばさん先生とかダウトのメリルストリープ(この3作を指して「おばさん禍映画」とする。)を彷佛とさすかんじ。コンプライアンスの冒頭でほんのちょっとしか描写されないんだけど、後半で裸に剥かれる女子店員におばさん店長がなにげなく嫉妬してるふうな場面があんだよね。なによヤリマンのくせに男とっかえひっかえを自慢してくれちゃって!!みたいなカンジの。なんか、映画でおばさんキャラが暴走するときって必ずなんかしらわだかまりを持ってたりすんだよね。たとえ無実でも、いったんおばさんの想像に火がついちゃうともう排除するまで止まらないんだよ。エロ漫画弾圧叫んでる向きもなんかその雰囲気かんじずにいれん。そういう映画みてると「こんなんねーよ」て思うんですけども、自分の感情抜きに真実を精査する、てことのたいせつさに直面したことのないヒトにほどなんだかコンプライアンス的な案件が来ちゃうぽいので、ありえないと思う事案ほど映画だの漫画だので疑似体験しとくにことしたこたないと思う。んで上記『』内に抜粋した現実の事件じゃないけども、自分の身を守るためだったらヒトはどんなことにも加担しちまう習性があるくさいんで、そこらへんの心理傾向を熟知したヒトが適当な標的みつけちゃうとコワイことこのうえないですな…。しかもさ、コンプライアンスで悪意電話やってる奴てのはおカネとかが目的じゃなくて、なんか純粋に趣味でやってるみたいなんだよ。趣味だからちょっとやそっとで諦めたりしねえの。この電話自体がたのしくてしょうがないもんだから粘着して延々と続けてくるんだよ。すんげータチ悪いし、逮捕されたくない、我が身かわいさ一心で多忙の現場放り出してまで従業員を裸に剥きつづけるおばさん店長のおそろしさったらねえよ。おばさん店長がやってるならまだしも、仕事しなきゃなんねえからつって外部から知人のおっさん次々呼んで色々さすんだぜ。これが全米で何件もあったつーんだからおそろしいよ。しかし脱がされる子はいいパイオツでした。金髪だし。監督さん、よくわかっていますね。それとあの犯人役のヒトの部屋の壁紙がなぜかでっかいスペースシャトルの画像でしたが、なんか怖かった。あんなに壮大ないやがらせ欲求をもってるのかと思わせられて。
囚われ人はフィリピンのなんとかいう島に観光客(おもに白人)が到着したと同時に銃もった男たちに連行されて、助けにきたはずのフィリピン国軍からのやたらめったらな銃撃から逃れつつも都合300日以上を武装グループと過ごすことになったヒト視点の映画。これもコンプライアンスと同様に実話がもとになったアレなんですけど、パンフの説明みるといまだにこの事件に関しては身代金がどうなったかとか、犯人たちがどこいったかとかがよくわからないうえ公式発表すらされてないとのことで、リアルに決着がぜんぜんついてないんですな。うーん。映画のなかで描かれてたフィリピン国軍の度重なる作戦失敗風景(武装グループに返り討ちされて全員死亡)とかからして、なんかフィリピンは軍にしろ警察にしろあんまり機能しきれてないかんじがするな…。映画中で何回か武装グループがどこかと電話だか無線だかで交渉してるふうなシーンがありましたけど、あれはどこの誰と話してたんだろうな。武装グループ側にけっこう人質がいるってのにひどく銃撃してくる国軍に対して「銃撃をやめろ!」とか叫んだりしてたけど、武装グループ側が人質にそう言わせなければ止めなかった(=人質はどうでもいいと思っていた)てことなんだろうか。当の武装グループに関して、パンフの説明ではイスラム原理主義に根ざしたどうのこうのと書いてありましたけど、映画みたかぎりでは強固な絆で結ばれた山で暮らす男たちの団体つーか、むかしながらの山賊な雰囲気が強かった。山間部で暮らす人間が、街で暮らす者や権力者にひとアワ吹かせてガッツリせしめてやろうぜ、的な。そこらへんをいっぺんに満たすにいちばん効率がいいと彼らが認識してるのが「外国人観光客を拉致って大枚せしめる」仕事だったっつー。なんかねえ、観光客を拉致ってもすこしも悪いと思ってないふうなんですよ。罪悪感なんて抱きようもないほど毎度やってるってだけなのかもしらんけど。そのわりに国軍からのめちゃくちゃな攻撃から守ったり、傷口からヘンなニオイがするとなると薬草を噛んであてがってあげたりするし、そういうことされてるうちに人質さんのほうも最初のほうは反発して逃げようともしてたのに、なんか長いこといっしょに暮らすうちに打ち解けてきちゃうんですね。それでも利用価値のない(=身代金を払う人間がいない)人質はある日突然連れ出されてマチェーテで惨殺されちゃうんですけどね。利用価値がまだあるとみなされればちゃんと守ってくれてた。この武装グループもなー…イスラムがどうこうとかいうわりに女性の人質とむりやり結婚したり強姦したり、そもそも人を拉致ってカネせしめたり人殺ししたりしてるけど、神の名を引き合いにだしながらそういうことしてるとその神を汚すことになるんじゃないんですかね。暴力行為をしているのはあんたら人間であって、神が命令したわけじゃねえだろ?「相手の信じるものを潰す」を聖なる行為とか、マジに思ってんのか。あと映画中でたびたび武装グループが聖書を破り捨てるシーンがあるんだけど、たしか聖書の神とアラブの神て根が同じなんじゃなかったっけ。そういえば長いこと武装グループと共に過ごしていた人質の内のおばあさんが死んだ際に、主人公のユペールがどうしてもクリスちゃん的な葬儀をするといってゆずらないシーンがあるんだけど「お互いの宗教や思想信条を尊重するってのは具体的にどういうことなのか」てのは、武装グループに拉致られた人質レベルに衣食住を共にしないかぎりはほんとうは学べないものなのかもね。パンフにでてるマリガイさん文の最後のほうに、この武装グループによる拉致監禁がいまだに起きてる件が書いてあるけど、これは…鬼子母神さんが悔い改めたときのようなことでも起きないと止む気配がなさそうですね。最後のほうで主人公視点のユペールさんたちは国軍に救出されてくんですけども、なぜかユペールさんはその救出の手を嫌がってるふうな態度をしていて、あれは長くいっしょに居すぎて感情移入しすぎたあまりに家族のような絆が出来かかってたってことなんだろうか。ヒトの異質さを理解する、てのは共に暮らすことが必須であって、それは多くの苦みを乗り越えなければ辿り着けないアレなんだなーと思った。どうしてもイヤだと思うモノに直面したときに「ゆるす」ことができるかという。なにしろ今作で描かれてる武装グループの根には思想云々というより、ものすごい貧しさとかがあるんじゃないかと思う。そこをいっしょにくぐり抜けた同士はどうしたって固い絆で結ばれるだろうし、いっしょにせしめた銭はなによりも大事だろうと思う。その仲間と暮らすのがあたたかいあまりに「それ以外」の人間への想像力はまったく培われなくなるんだな…。
パリ猫ディノはこのヒトの絵柄風なキャラがまっとうなアクションをやるアニメだったよ。あの絵本でよく使われる、上から塗った水彩絵具がなじんでくと浮き出るクレパスの線みたいな画風がアニメとして動いてたのが感心した。話としてはお父さんが死んでショックのあまりに声がだせないうえ、警視のお母さんは仕事柄いそがしすぎてあまり構ってくれない生活でさみしく暮らしている少女の飼ってる猫が、夜になると出かけてくんですけど、その出かける先がコソ泥の家で…という話。その泥棒は体操選手的な身軽さで屋根をかけめぐってディノと共にいろんなお宅から貴金属やお金を盗んでくらしてるわけですが、たまたまディノが少女のもとへ持ち寄ってきたアクセサリーにダイヤモンドが使われてることを不審に思った警視のお母さんがディノの行き先について調べはじめるんですけど、時をおなじくして少女も夜どこかへ歩いてくディノの後をつけていって、コソ泥のお宅に入ってくことをつきとめたものの、その途上で自分を世話してるお手伝いの女と悪者が悪巧みしている現場に出くわしてしまい…てスジ。子供向けらしい(特に悪玉キャラの)みょうな誇張はあるものの、スジとしてはふつうに大人もたのしめる娯楽物語ですよ。銃撃とかあるし。ちなみに音楽がダークナイト風だった。しかし結末は…母さんアンタそれでいいのかというアレで。あれは警視のお母さんが職権乱用して過去の罪状をぜんぶ握りつぶしたってことなんだろうか。えげつねえな。子供向けだからといって(や、子供向けだからこそ)つじつまの合わんことは見逃しませんよ
嘆きのピエタは母系統という意味で「母なる証明」と並ぶアレなんだろうか。主人公が天涯孤独の闇金業者(だっけ)で、借り手が利息払えないとなると工場の機器に手足まきこませて障害者に仕立てあげてでも(保険金?)払わすという非道の男なんですが、ある日母を名乗るおばさんが家にきて主人公の世話をしはじめて、気味悪がった主人公は最初は突き放すんですけど、かまわず熱心に世話をしてくるのでだんだん信用して親愛感を持ち始めるんですが、実はこのおばさんは主人公が原因で自殺した息子のお母さんで、主人公に復讐にきたわけですけども、愛する家族に死なれる悲しみがどういうことなのかを主人公によりよく知ってもらうために芝居を打っていたわけです。その悲しみを抱かせるためには家族の愛がどういうもんなのかを知ってもらう必要があるわけですよ。まあ、ふつうは信じねえよなーとしか思えなかったので、なんかいろいろな意味で無茶めな話。あんな非道な金貸しがそこまで純真になるのかいと思いました。
李小龍ブルースリーさんの若かりし日のやんちゃっぷりが描かれた再現ドラマだった。やっぱしガキ大将的なヒトが目立つとこにでるんだなーと思った。当時アヘンが市井ではポピュラー嗜好品だった、てのが今さらながらわりとびっくりする。
ベルリンファイルはなんか?ドイツでのアラブ人との武器取引に北朝鮮のスパイがいて奥さんがどうこうとかいうような。話が込み入っててわからなかった。とりあえずジヒョン物件ということだけはよくわかった。