音楽は、最高にスリリングだ

『決してダークサイドだけに引き寄せられるわけではなく、明るい方も同じくらい好きではある。ただ…、多くの場合、不思議なことに、失恋や傷心についての歌のほうが愛についてより力強く語れると私は思っている。どうしてなのかはわからないが、そう思えるんだ。ハッピーな歌は…、果たして聞きたいと思う人がいるのだろうか、とさえ思う』(DAVID LYNCH THE BIG DREAMチラシ掲載インタビューより抜粋)
『サトゥルヌスが父を殺したとき、彼は父の男根を大鎌で切り取って海へ投げ捨てた。血まみれのそれは海を漂い、海水と混じりあい、陽光にあたって白い泡となり、いつしかそこから金髪の美女、即ちヴィーナスが生まれたのだった!
 ヴィーナスのギリシャ名はアプロディテ。アプロ(泡)が語源である。彼女には―処女懐胎によるイエスと似て―片親だけしかいない。母がなく、父の精液だけから生まれた。さらに言えば、ヴィーナスはこの世で最初の殺人、それも息子の父殺しから誕生した。濁った泥の池から蓮の花が明るく咲きこぼれるのと同じく、切断されたおぞましい血の塊からヴィーナスという類い稀な美が誕生した。憎悪と血と殺人から「美と愛」の化身が生まれ出でたのだ。
 ボッティチェリのヴィーナスが、そこはかとない悲しみの表情を浮かべているわけがわかる気がする。こんな誕生の仕方をすれば、誰だって陽気ではいられまい。心身健康ではおられまい。生まれてきていいのだろうか、と憂いの表情を浮かべずにはいられまい。しかもその先の宿命をも予感していたとするならば、なおのこと。
 「愛」―もっと正確には「愛欲」―を司る神と、凄惨で血腥い事件とのこの結びつきの深さは、官能の歓びというものの底知れなさを暗示して恐ろしいほどだ。美は善悪を超越し、官能はあらゆる縛りから自由で、コントロール不能である。この両方を合体させた女神が、恍惚と残酷の体現者としてさまざまな事件を引き起こし、また自らも巻き込まれるのは必然であろう。』(怖い絵 死と乙女篇 p.24-25より抜粋)
『「映画の見方がわかる本」や「トラウマ映画館」は思春期に観て衝撃を受けた映画を、大人になってから集められる限りの資料を基に腑分けしていく作業だったが、これはそのロック歌詞版です。
 そこで歌われているのは、差別、イジメ、心身障害、離婚、憎しみ、宗教、コンプレックス、児童虐待、ホームレス、マスコミ、レコード会社の金儲け主義、ファンの狂信、戦争、資本主義、殺人、孤独、裏切り、犯罪、麻薬、セックス、同性愛、核兵器、そして老い……。どれも歌い手自身の生々しい体験や人生、身の回りの現実から絞り出され、聴き手の胸に突き刺さる言葉ばかりです。
 それにしても、もっと深刻な問題を山ほど抱えている極東の国の歌が、「好き」だの「愛してる」だの「信じてる」だの「桜」だの「希望」だの、耳触りはいいけど空っぽな言葉ばかりになってしまったのは、いったいどうしてなんだろう?』(本当はこんな歌p.9より抜粋)
『感情のままに表層で心地良いものだけを幸福と名付け、
真底では見開きでありましょうとも表層では苦きものを不幸である、
縁起が悪きものと捉えられますものならば、
真実の宇宙の根源からの愛の育みをも見通しきれずにおられましょう。
人々は真実よりも、自らが他者にとりどのように捉えられますかを
中心に据えおかれますものならば、真実の道は、真理よりも
他者の顔色を中心とした道となり、自己の本質をも活かされなきと伝えましょう。
人々の慣わしや慣習も、人中心の文化の流れであられます。
真理とは遥かに全世界・すべての存在に公平なる開きを伴い、
すべての摂理的なる道理であるもの。
人々は余りにも他者の顔色を気にしすぎて、互いに信じきれぬままにおられます。』(正観世音菩薩様からのメッセージ ふたつの扉より抜粋)
筆舌に尽くしがたいほどクッソダサい服があって、ふつうなら試着せずとも自分に似合うかどうかわかりそうなもんなのに、それすら判別がつかなくなってる方がおりまして、その方にその旨書いておくったですよ。あれなあ。周囲にいるヒトもお客さんも「うわぁ…キッツ(笑」と心のなかではみんな思ってたんだろうけども、本音をいうとその人から怒鳴られることがわかりきってるから、みんな一様にクチを閉ざしていて(嫌われたら面会してもらえなくなるお客さんはよけいに)、んで当の本人は誰からも本音をいわれることがないもんだから自分を客観視できなくなっててクソダサい服でもそれがどうなのか判別がつかないんですな。要するにイエスマンばかりになってる状況にすらもうその人は気づけない末期状態なんすよ。かわいそうにな。その当人も周囲も、あすこにいる全員が。そもそもあんな怒鳴りつけたりガハハ的な態度に陥る時点であの人は批判されるとふさぎこんじゃうような弱さを持っているのかもしれなくて、必然的にそうなっちゃったのやもしらん。そういうのが進行してくと奥さんをぶん殴っていながら愛を歌うナガブチだの尾崎だのみたいになっちゃうんだよ。頑な状態に陥るのは百害あって一利無しというか、トシをくうほど自殺行為に等しいのだなとしみじみ思った。異質なモノ一切を受けつけない、てのは自分にこもってくも同然だしな。いつなんどきも本音を受け入れる度量と柔軟さを基底とした対話をこころがけるが吉なのね。そもそもなんで行ったかつーとその人から強烈に営業されたからなんだが、おいらがみにいく=ズタズタにされてもいいという事と同義なので、それを承知したうえで営業しているのだろうな、と思い、すなおに赴きました。なんていうか、クソみたいなもんしかつくれないのにふんぞり返っているような、芸術に対してナメた態度で臨んでいる能天気バカをみると普通にヘドがでるものですね。バカならバカでジャッカスみたいに突き抜けたアレをやりゃいいけども、その人自分がバカだって気づいてなくて、もっとべつのオサレな何かだと思いこんでるんだよ。いろいろヒドかった。以上、無職でマイナスカウントに突入しようかというところで5,500円+交通費をドブにつっこんだ関連の話でした。その人にたよりっぱなしのおいらもそろそろ自分で対処できるようにせんとイカンなーとなにげなく思ってたんで、まーフトコロ具合はイタかったがふんぎり的にちょうどよかった感もあるにはある。
ちなみに日本の最近の歌の歌詞が「耳触りはいいけど空っぽな言葉ばかりになってしまった」のは、本音を言って嫌われたり孤立することに怯えるあまりに四六時中相手の顔色ばかり伺って、ヘンなこともヘンだと言えない愛想笑いのやりとりが「やさしさ」や「思いやり」なのだと勘違いされてる現状を反映してのことだと思う。