きつねたんも当時から見守ってるよ。

『「四書五経などからめでたい文字を選んで改元するという旧例をあっさり否定して、後醍醐以前にも以後にも例のない”武”の字のついた元号を選んだ。それで、《今の例は古の新儀なり、朕が新儀は未来の先例たるべし》と宣言した」
 「これから自分が行っていく政治こそが、未来の先例になるんだという、強烈な自負心ですね。ヒットラー第三帝国だ」
 「旧例に凝り固まった都の公家連中の頭と比較すると、それはそれで頼もしいんだが、問題は新儀の中身だ。現実が変化しているから、それにあわせて柔軟に新儀を立てていくという意味じゃない。帝の頭の中にある観念を、現実に無理やり押しつけて新儀にしようというんだから、これは怖い」
 「ヒットラーもそうでした」
 「帝は、とにかく鎌倉幕府がやったことは、それがよい悪いが関係なく、すべてご破産にすることに異様な情熱を燃やした。まず真っ先に、幕府が立てていた光厳天皇を廃したのは当然だ。光厳についた関白以下の高官を解任し、光厳元号である正慶も廃した。廃したというのは、なかったことにするということだ。後醍醐帝は、元の天皇に復したんではなく、ずっと天皇だったということを、これらの施策によって宣言したわけだ」
 「この日本に光厳天皇の時代なんてなかったと……」
 「そういうことだよ。次に戦乱でガチャガチャになった所領をもとの持ち主に返せという旧領回復令を出し、幕府が建立した寺院の寺領没収令を出し、幕府の裁判の見直し・やり直しを命じる誤判再審令を出すといった具合で、もう法秩序がめちゃくちゃになってしまった」
 「そうした中で、宗教政策も着々と押し進められていく」
(中略)
 「つまり後醍醐は、死にかけた三種の神器に代わりうる呪物を密教の宝物などの中に認めたということですか?」
 「そういうことさ。であればこそ、後醍醐帝はそれが他人の手に渡ることを恐れ、支配しようとしたんだよ。舎利に関する置文などはその典型だ。同様の心理が、すでに”舎利二千粒”の白川院の時代からあったことは、前に話したとおりだ。後醍醐帝というのは、院政開始のころから顕在化してきた古代王権神話の衰亡の最後に出てきて、消える前の蝋燭のように異常に激しく燃えあがった天皇だ。あの時代から動き出した新たな王権神話作りの動きが、後醍醐帝のところで集約されているんだよ」
 「オタクのアイデンティティが、自分自身ではなく、その収集物にあるように、呪物が天皇後醍醐というアイデンティティを支えてくれるだろうという発想ですね」
 「最も根深いところから沸いてくる地位に対する不安―それが後醍醐帝をして、仏教の宝物に走らせた原因だ。しかも、こうしたアイデンティティの危機は、なにも天皇の身にだけ降りかかってきたものではない。あらゆる階層に起こったことだ。みんなが、中世の開幕期から始まったと信じていた《末法時代》の中で、新たな神話を欲していた。慢性的に崩壊しつつある古い原理に代わりうる原理が求められていた」
 「その原理として出てきたのが、和尚のいう女神や霊狐吒枳尼、また、その変容としての如意宝珠や舎利、そして立川流だったというわけですね」
 「後醍醐帝は、そうした中世という時代の無意識が集約された人物だ。彼こそが、その権化なんだ。そして文観もそうだった」』(真言立川流p.243-246より抜粋)
念力で嫌がらせしてくる人がどうも後醍醐帝の生まれ変わりくさいんでそれがらみでいろいろ。後醍醐さんてのは呪物マニアだったらしいけど、当時おそらく自分自身に霊能力がないのを歯がゆく思ってて、だからこそ今生で絶大な霊能力を持っている人生を選んだんだろうね。結果的に真実を言い当てた人間を攻撃するのに使われることになっちゃったけどな。後醍醐さんの致命的な部分てのは「絶大な霊能力や呪物がないと怖くて現世で生きられない」あたりなんじゃねえのかなあ。自分の弱さに向き合えるかどうかってのはひとえに各人の勇気次第であって、霊能力や呪物のある・なしとはまるで関係ないのにねー。先月中は嫌がらせの対処がらみで毎日ほうぼうに出かけて神仏にアレコレ聞いてたりしたんですけども、後醍醐帝の生まれ変わりが今生で「自分の弱さに向き合う」可能性てのはそれこそ奇跡中の奇跡みたいなもんで、ありえない出来事なんですって。まず起こりえない、てふうにどの方も首を横に振っていた。菩薩さんとか天部の方は後醍醐帝を当時からずうっと観察してるんすよ。この子はいつ自分自身に向き合えるようになるのかな、てカンジで。神仏が人にご利益を与えるに際してまず「精神指導から入る」てのは、ご利益を与えた人間の精神傾向が歪んだままだったりするとご利益与えた神仏まで疑いの目でみられるから(というか神仏が程度の低いもんになり下がってしまう)なので、後醍醐帝みたいのがちょっと護摩やったり祀ったりしたところで神仏がなんでもかんでもご利益あたえるなんてまずありえないんすよ。権力者としての素地もねーし。宝物とか神仏関連てのはそれを扱うに相応しい度量―他者からの信頼を得て積み重ねた政治力を備えたところで賜るモノであって、なんもやってねえのに最初からモノだけ揃えてどうかしようとする時点で考えが中二病すぎるんよね。そもそもだ。後醍醐帝の当時から神仏が憂いていたのは、後醍醐帝が仏舎利だの天部さんだのを単なる「絶大なエネルギーの塊」として利用することしか考えてなかったことで、神仏にも心や気持ちがあることをぜんっぜんわかってなかったあたりだと思う。歴史ある神社仏閣なんかで武将が戦勝祈願して叶った、てのがけっこうあるんだけども、勝った側がのちに心を入れ替えたり(+仏教関係の建物をけっこうつくる)、民に対して良い政治を行ったりする場合が多くて、勝たせたのちにどうなるか、てのを勘案したうえで神仏としては「ご利益」を与えてるんだと思う。よりよき方向を生かす、が基本なんじゃないかと。後醍醐は生まれ変わった今生ではまず相手の気持ちを考えたり、自分の弱さに向き合うことを目標とはしてるんだろうけども、歌だの説法だので「愛」とか「ありがとう」とか盛り込んだ歌詞のを癒し系的なユルくさく歌ってんだが、説得力がゼロで異常に薄っぺらいのね。この人ね、愛だの感謝だのの意味を本当はわかってないのに、言葉で繰り返し言ってればうまいことやり過ごせると思ってるくさい。真実を言い当てた相手をお得意の霊能力で痛めつけてるくせして「生まれてくれてありがとう」なんて思ってるわけねーもんな。そもそも自分の作品が酷評されたところで的外れだと思うなら涼しい顔でスルーしてればいいのにさ、洗脳まがいの思念だの獣の霊だのを今の今まで延々と送り続けてるあたりからしおいらの指摘がよっぽど図星だったんだなーとしみじみと。霊能力者によくあるんだが、この世に人間として生まれついて「霊と対話ができるor成仏さす」「他者の考えが聞こえてきてしまう」「近い未来がみえてしまう」能力を兼ね備えてる時点で将来的に菩薩になれる可能性を持ってるヒトってことらしいんですけども、おいらに嫌がらせしてる人てのは嫌がらせしまくってる時点で菩薩にはなれないんすよ。能力だけはスゴイのに。自分に向き合わないままだから芸術方面の才能も出せないし。ちなみにこの人はカウンセリングで自分の思い通りにすすめられないとなると客を怒鳴りつけるんですよね。悩み相談にきたヒトを怒鳴りつける菩薩なんていねーぞ。なんつーかさー…絶大な霊能力をもつ者ほど本当は僧侶であるほうがいいのかもしらんね。厳しい戒律下にいないとそのちからを私怨なんかに使いかねなくて、野放しにすれば鬼子母神になる前の人食い的なもんにならんとも限らないし。結果的に後醍醐帝の生まれ変わりの人は生霊でおいらの思考を支配しようとした(ペラい歌が脳内に四六時中流れつづける)うえ、獣で肉体を傷つけようとしてたんだな。精神と体の両方を同時に攻撃したわけだ。クチのまわりとか首とか乳首に小さい2つの穴―というか咬み痕みたいのがいっぱいつくんだよね。なんかちっさい肉食獣的な霊なのかな?と思って傷のとこに夫人からもらったメキシコみやげのハバネロの緑汁ぬったら咬まなくはなったんだけど、こんどは小さい爪痕みたいのがついて、かむのヤだからひっかくふうになったらしかった。いろいろ試したんだけど、ハバネロ汁ぬった上からステロイド剤とかぬるとわりと防げるよ。でもハバネロ汁ぬった指先で目とか触らんようにね。わりと諸刃の剣です。獣たちけなげだなあ、と思ってあるところへ相談にいったので、受理されてればそうゆうヒドい目にあわずにすむようになるであろう。あの獣霊つかってたのってなんか女の人(奥さんではないくさい)なのかな。文観さんの生まれ変わりとか?今生もろくでもない奴の片棒かつぎする運命なんだね。絶大な霊能力をふりかざして「俺の歌を褒め讃えろ!」とでも言いたいんだろうか。バッカじゃねーの。
後醍醐帝の件についてはこれのp.241-247に書いてありますけども、この本に関しても性交時に達する境地の大切さについて触れてるわりにいちばん大事なはずの四歓喜についてまったく触れてないあたりがちょっとどうなのかなーとも思う。語られてる思想についてはおおまかには正解な気もするけど、目指す境地への方向性や踏み込みがいま一歩足りないから呪術を暴力がわりに振りかざすふうな輩を引き寄せてしまいがちなんじゃないのカナー。
 
今回の一連の件に関して某漫画家さんは描けないんだろうな。後醍醐帝の生まれ変わりは逆鱗に触れた相手の家族まで傷つける外道なので気をつけてね。おいらも誰がしかに守っててもらわんと好き勝手書けない状態になっちゃったあたりヤキが回った感が否めんけども、今回の件でいろんな神仏と関われたことのほうが嬉しいんでべつにいいです。