反論する人が周囲にいるか自覚するようにしとかないとな

・佐村河内さんはお涙頂戴キャラでさんざん騙してた時に抱いてた「見世物師としての本音」をなんもかんもキレーに吐露した手記を出すでもしないと、これから音楽業界で生きてく自体がそうとうむずかしくなっちゃうと思うよ。この期におよんで小手先で戦ったところでもっと心証を悪くするだけだと思う。騙されてた業界のヒトたちも彼を簡単に追い出すようなことはしたらいかんと思う。秋元康かなんかのもとでイチからやりなおしたらどうか。一応プロデューサーとしての才能があるみたいだし。追放して済ますにはあまりにも惜しい。やっちまった人の更正について何が最善かを考えるにはいい機会なんじゃなかろうか。その失敗はいま真摯に向き合うことでのちに得がたい財産に化ける可能性があんだよね。失敗を重ね続けることでしか辿り着けない「成功」てのがあんだよ。彼を追い出したらそれもなくなってしまう。後醍醐帝の生まれ変わりが相談にきた客の頭のなかを勝手に読んで、上から目線の命令口調で「アドバイス」してさっさと追い返すような乱暴なカウンセリング方法をくりかえしてる内に人望がなくなって孤独に陥ってしまってた件じゃないけど、間違いに気づいた時点ですこしずつそれを正すように努力してかないかぎりは改善しっこないし、その際にしでかす数々の失敗についていちいち咎めてたら、改善するものもしなくなっちまうのよね。どんなに失敗しようと、ぜったいに好きでいてくれる人がいれば安心して頑張れるんだよ。失敗を怖れるなとはいうけれど、失敗したヒトをいつでも受け入れる度量や体制があってこそその言葉がはじめて現実味を帯びるんだな。なにもしなくても居るだけで愛される、その安心感さえあれば多少の事があってもぐらつくことなく生きられるんだよね。それは子供だろうと大人だろうと変わらない。去年の秋ごろだったかな…。たしかスポーツニュースかなんかで安藤美姫が自分の子について「早く世話しなくていいようになってほしい」とかゆってたんだが、や…花形のスポーツ選手で超忙しいてのはわかってるよ。けどさあ…。まだ生まれて間もない子供に対してかけるべき愛情そっちのけで成長を急かすような本音抱いてる、てのがちょっとゾッとしたというかね…。赤ん坊なんだから手がかかってあたりまえじゃん…。ただ居てくれることが嬉しい、て安定した愛情のもとに子供はぐらつかない心を育んでくもんじゃないんだろうか。早くなんかしないと愛されなくなる、て危機感を幼い子は敏感に感じ取る気がするよ。困難にめげない心は「なにもしなくてもいつも変わらず愛してくれる人がいる」ていう安心感があってこそ育ってくんだよ。愛情のかけ方といえばこの番組で元レイヴ&ドアーの人が寂聴に対して「親とどう接すればいいかわからない」てしょんぼりした調子でゆってたけど、ストレートに大好きてぶつければいいと思います。直接やっちゃダメ、てのを親から刷り込まれたんならまずその思い込みをブチ破るとこからはじめないと。まずバカになるといいよ。バカはなんでもできます。
亀田兄弟がお父さんから離れない理由てなんだろう。ボクシングは「お父さんの要望を叶えてあげるためにやってる」から、お父さんの意思から離れたらボクシング自体もやる意味がないのかもね。マジにボクシングを極めたいのなら、自分の意思でもってお父さんから離れて独立してやってかなきゃならないことはすぐわかるはずなんだけど(そばにいるとお父さんが「兄弟を勝たすためなら汚いことでもなんでもやってしまう」=甘やかしてしまうから)。ボクシングをやってるのはひとえにお父さんの要望だけであって、実は自分自身ではそんなにやりたいと思ってないとか?推測でしかないけど、亀田兄弟は幼いころに「ボクシングをやらないと愛してもらえない」という恐怖を刷り込まれて育てられてしまったのかもな。聞き分けがいい子すぎるのもそこが原点になってるからかも。もしも兄弟がボクシングをやめたら、お父さんが再起できないほど打ちのめされてしまうのを兄弟は痛いほど知ってるんだろうね。お父さんに逆らって別の生き方してってもいいんだよ。それにはまずお父さんと向き合って徹底的にケンカしなきゃ。お父さんは自立しなきゃいかんのだよ。そこから逃げまわってたら何度生まれ変わってもずうっと持ち越してくよ。しかし幼少期のスパルタ教育は結果的によかったてなる場合もあるからちょっとむつかしい。愛情ほしさに言いなりになり続けてしまう、ていう危険も避けられないしな…。大人になってからすごく苦しむヒトもわりといるんじゃなかろうか。
東京裁判はアメリカンによる大虐殺をごまかすための裁判だった、てのは戦争勝者側すべてに適用できる論理な。「勝者は完全に正しいし何人殺しても残虐行為にはあたらない」ていうのを通説としてまかり通すためには必須だろうし。原爆投下はふつうにその威力をたしかめるための人体実験だったんだろうなとは思う。皮膚や肉がどろどろに溶けてもまだ生きて水を求めて徘徊するんですよ。よくわかりましたか?>アメリカン江。それとさーあとから新しい呼び名を追加するのって、どう考えても新しい名を望んだ国のほうがのちに領土を広げたい腹でやってるようにしか見えないんだが。バージニア州の人はアジアに火種を据えることを良しとしてるんだねえ。世界の警察サマは実は世界各地に紛争をばらまくのを善行と掲げてるわけだ。おおこわい。さすが歴戦の勝者さんはなにをやっても誰からも咎められない処世術に長けていらっしゃる。しかしなー。領土云々とか言いながら大国にすり寄るしかねーのな。お互いちっこい国は悲しいねえ>韓国さん江。日本との対話を避けてでっかいお兄ちゃんを洗脳するのに必死こいてる国のどこらへんが「平和」目的なんだかわかりゃしねえ。それとさー韓国主導による慰安婦は全員被害者喧伝てのは日本に置き変えると「米軍兵に強姦された沖縄の少女像をヨーロッパやロシアの深田舎に設立してまわる」ことをカリフォルニア・バージニアニュージャージーの3州のヒト全員が善行と認識してるってことなんすかね。そもそも大戦時の日本兵による強姦被害を非難するならまだしも、慰安所のヒトはアグレッシブに出稼ぎにきてた逞しい女子たちが中心だった(&強姦が起きたからこそ慰安所をつくった=慰安所の存在自体が「強姦被害を止めようと日本兵が考えてた」ことの証左)んだから、その事実をねじ曲げて認識させないようにするってのはつまり「戦を股で稼いで乗り切ったヒト」の存在否定にも等しいと思うんだが。国同士のいさかいなんてバカらしいことに加担するよか、それに乗じてうまいこと稼いでやんぜ、ていう市井の逞しさの共有感覚こそが平和につながるんじゃないかとおいらは思ってるけど、それをすべて「被害者」としてしか見なさない、ていう動き自体が国家的な視点に蹂躙されてるようでヤなんですよね。 戦火を乗り越えた慰安婦さんは逞しくてステキ!国に踊らされることなく市井の知恵で何事も乗り越えてゆきましょう!てんなら賛同するよ。そういう点を民主主義国家のアメリカの方たちがなんも勘案せず、ただ韓国の人の被害者ヒステリーにノせられて憎悪を焚き付けつづけさす火種づくりに邁進しているのかと思うと暗澹たる気持ちです。民主主義て脆いんですね。米軍といえばこの嫌がらせは誰がしでかしてるんでしょうな。なにしろさー中国も韓国も優秀な市民がいっぱいいるってのに、そっちをほったらかして「敵が敵が」て悲しい政府だよな…。前回日記でだした孫向文さんの中国の実態漫画さ、あれって日本の実録犯罪誌がおどろおどろしい調子で書く内容のを「そうですけど?」てサラッと描いてるのがまたコワイんだよ。そんだけフツーになってるってのが。中国市民のヒトもヤバい、てのはわかっていながら何もできずにいるんだよな…。
・ドラッグ・ウォー/毒戦(1/29。シネマカリテ)→土門拳 手(写大ギャラリー)→ポール・ヴァーホーベン/トリック(ヒューマントラストシネマ渋谷)とみまして、ドラッグウォーはかつての仲間を売りまくってどうにか生き延びてきたクズ野郎が粘着質の刑事に追われまくる話で、トーさんお得意の「荒くれ同士が仲間のために何の躊躇もなく命を落とす」話とは真逆の陰惨なテイストの映画ですな。それもこれも中国大陸にいって天朝(中共のこと現地のヒトはこういうのね)の監視下(犯罪者を善きものとして描いてはならないetcの制約)のもとでつくったのでこういうふうにならざるをえなかったそうなんだが、トーさん、あえて困難なとこで戦ってるんだな。カッコイイ人だよまったく。まー熱き血潮モノは香港にもどればいつでもできるしな。トーさんが大陸でいつものアツい映画撮れたら最高なんだがなー。わかってないな天朝も。権力側(警察組織)だけでなく犯罪者側にも同程度の熱さがあるからこそぶつかるときに面白さが生まれんだよ。そういえばドラッグウォー中になんか「むさいおっさんが実は凄腕の戦闘部隊」的なザ・レイドを意識したと思しき銃撃シーンがちょっとあったよ。
ヴァーホーベン先生のはのっけから本編かと思ったら半分くらい制作ドキュメンタリーだったりして肩すかしだったけど、本編もおもしろかったなあ。募集した脚本のイイとこをつなぎ合わせてつくったらしいんだけど、ちゃんと過剰でよかった。スジゆっちゃうとおもしろくないんでまあくわしくは避けますけど、自分は総攻でうまいことやってると思い込んでた父が、実は総受で全員からいつのまにか便所にされてた、みたいな話。なんか、クローネンバーグとかヴァーホーベンとか、もともとスプラッタとかスラッシャーもののドログチャやってた名匠がトシくって映画撮ると全体的には品のよろしいドラマだったりするんだが、昔よくやってたショック描写が1点に集約されて突然暴発するみたいになるのな。持久力配分上の問題なんだろうけど。むしろ静かしい映画しか撮ってなかった人よか品の良さとショック描写の差を格段に知ってるからどれもよく活かすことができるんだよね。
写大ギャラリーのはいろんなヒトの手を撮った写真展で、人間の手は作業してないときでも考え事をしたり、涙をぬぐったりして感情を無意識に表したりして常に忙しくしてるのだけども、神仏像の手はどれも忙しさとは無縁になにかを形づくってたりするんだなと思った。アダムスファミリーにでてくる動く手じゃないけど、顔はないのになぜかキャラとして情が伝わってくるんだよね。ふしぎ。