ヤクザから大らかさを無くしたのは誰なんだろう







・いろんなモノがテキトーなクオリティだった、てのは市井からお上まで全部が大らかだった、てことなのかな。市井の気持ちがゆるやか、てのは他のあらゆる箇所も同レベルてことであって、一部分だけが飛び抜けてゆるやか、なんて都合のいい状態はよっぽど注意して醸成してかないかぎりムリってことなんだろうなあ。そうなると今の中国・韓国にもあるそのテの側面を非難するってのはかつての「古き良き日本」を非難してるも同然なような気がする。日本もひと昔前までは水質がよくなかった街も汚かった(当時のスラム感長門裕之の映画でもちょっとみられます)んスけど、いまとなってはそれすら忘れ去られようとしてるっつーね。画像に出した昭和43年漫画よんでて思ったんだけど、ひと昔前はニートが(ご近所の目圧力で)ゆるされなかったからハミだしもんはヤクザに拾われやすかったのかな?そうするとヤクザ内にバラエティ豊かな人員が揃ってたろうから、なかには情深くてヤクザに向いてないようなヒトもいたんじゃなかろうか。マジに向いてないヒトなんかは鉄砲玉にされて即死んじゃったりしたこともあったろうけど、運良くテキ屋稼業だけで過ごせたヒトなんかはちゃんと人としてどう生きるべきか、やっちゃいけないことなんかをキチッと教えていってたんじゃないかと思う。荒くれほど決まり事をキツくしとかないと何するかわからないから、そうせざるをえないって側面が大きいんだろうけどさ。ナニがいいたいかというと、ヤクザがハミ出しもんの教育機関になってたんだよ。もちろんヤクザ側はそういった人員を都合良く悪さに使い回せるからこそ拾ってたんだろうけど、そういう組織でもないかぎり、荒くれのハミ出しもんの世話なんて誰もしようとしないわけ。ところが荒くれのハミ出しもんを都合良く使ってくれる官制組織てのがあって、まあ軍隊ですよ。戦争が起きてる期間だけは軍隊がハミ出しもんの受け皿になってたんだけど、戦争が終わって軍隊が衰退してくにつれてハミ出しもんの受け皿がヤクザに移行していった過程とかあるんじゃなかろうか。昨今は暴力団排除条例なんかでヤクザもんをやたら排除してるけど、それはハミ出しもんの受け皿をまずつくってからやるべきなんじゃねえの?古いとこから潰してると昔ながらのヤクザもんの道徳観念の継承なんかはまず断たれてくだろうから、よけいに道徳観もクソもないような凶悪な連中が集まったグループができやすくなってしまうんじゃなかろうか。そのうえで経済成長や効率優先名目で「金をより多く持つ」ことだけが勝ち、的な観念が市井にあたりまえみたいにまかり通っていってしまって、それをヤクザもんが忠実に実行すると血も涙もないサイコパス状態にしかならないんだよね。殺しなどなんとも思わないようなさ。荒くれだとかハミ出しもんの受け皿組織、てのはいつの時代も必要とされてるはずなのに、それをまず考えることなくヤクザを潰しまくってワーイ正義だ正義だーとか言ってるバカあるか。警察こそいの一番にそこ考えなきゃならないんじゃないのかなー。根本的にヤクザの仁義てのは「武士は食わねど高楊枝」的な侍のやせ我慢が源流になってるんじゃないのかなーとちょっと思うんよね。そうするとサムライを礼賛していながらヤクザを排除する、てのはだいぶ間違ってるような気がすんだよな。なにしろね、ハミ出し者の処遇を考えずに行う「善行」てのは善きものにはなりにくいんじゃないのかなーと思わずにいれんですよ。考え過ぎだといいんだけど、ハミ出しもんを排除しすぎると血も涙もないテロリスト的な方向へいってしまうような気すらする。イスラム過激派自爆テロ権力者のために命を差し出す刷り込みが悪用されてる例だけど、なんとなく善意を食い物にするブラック企業の経営者にえじきにされたハミ出しもんにみえなくもないつーか…。そういえば神仏は善悪関係なく自分が気に入ったかどうかで動くヒトたちだから、けっこうヤクザの事務所にも神棚とかあるみたいなんだよね(平山さんと三巳華さんあたりいっしょにそのテの事務所めぐりして霊エピソードなんかを聞いてまわる企画とかやんねーかな全身複雑骨折のせてた雑誌さんあたり)。荒くれでも一理あれば神仏(夜叉や鬼神を従えてる方もいるからねー)は助けてあげてると思う。神仏ついでに欲や金銭を極端に忌避する体制てのもプロ清貧の人としてはレベル高いんだろうけど、浅草寺あたりの寺と周辺ぜんぶが栄えてるのもまったりしてていいもんだよ。神仏のご利益で働きもんが増えるのであれば、清貧を突き詰めるよかシアワセもんが増えるような気がするがなあ。まず食うに困らんだろ。食うに困ってたらそれだけで相当幸福感低くなる気がするが。
お客さんがおトク感をかんじれるかどうか至上主義、てのはばんどう太郎といっしょだな。ばんどう太郎の社長さん、番組でみたかぎりでは店にできるかぎり赴いて社員さんたちから話きいてまわったり、評価するイベントを開催したり、仕入れ先にはぜったいに値下げ交渉はしない(→仕入れ先は安心して良いものを提供しつづけてくれる)て体制をつづけたり、なにしろ「安心感」でもって人をつなげる至上のヒトだった。給与外サービス(マニュアル盲従ではできない個々に備わった優しさから成される世話焼き)感覚こそが売り上げ低迷を打破する道なんだけど、それは社長自身のプライベートすらも投げ打つ覚悟がなければできなくて、それを多くの経営者は薄々わかってるんだけども面倒くさくてそんなことまではできない、て心の底で思ってるぽい。長く儲けつづけたいのならそれを打ち壊せ、てばんどうの社長は言ってるんだろうな。社員や仕入れ先に安心感をもってイイ仕事をつづけてもらうには社長自身が足しげく動くしかない、てのを実践してるようだった(ただなーあの番組はらしくつくるのが巧いからこそ盲信はしないにこしたこたない。前にマクドナルドの社長がでてうまくやってる手法みたいのを披露してたんだけど、しばらくしたら売り上げがめちゃくちゃ落ちてたし)。ぜんたい社長がマンドクサがってるかぎりその会社は長く儲けることはできんよて論理にはまあ同意。ここ十数年は特に経済成長て言葉に踊らされすぎるあまりに昔ながらの「仕入れ先を大事にする」「社員を大事にする」てのをあまりにもないがしろにしすぎて基本中の基本がわからない人が続出してたんじゃないのかなーてのをばんどうの社長の経営方法みてしみじみ思った。仕事上で新しい観念をすぐさま取り入れられる柔軟な体制を敷きながら、人員は大切にする、て勘所さえ押さえてれば頑迷な体質に陥る心配はないんだろうけど、そこらへんの勘所も考えずにひたすら実力主義さえ貫いてれば安心だ、みたいなふうになってたんじゃなかろうか。そうやって考えがちな人ほどアメリカのやりかたを紋所みたいに出すんだけども、彼らのやり方を突き詰めてくと収入落差がどんどん開いて金持ちと貧乏人の間の越えられない壁ができちゃうんでしょ。つまるところ社員が安心しすぎると改革がしづらくなるんじゃないかつー共産主義的体制への恐怖心に駆られすぎるあまりに、がむしゃらに実力主義にすがりつきすぎてブラック企業がどんどん生まれてしまったんじゃないのカナー。安心感てのは使いようなのに、それの正しい使い方を考えずにひたすら忌避した結果おかしなことになりかけてた感。それをばんどうの社長さんがちゃんとわかって実践してみせてるんだな。
ばんどう社長さんの安心至上体制をさんざんホメといてなんですけど、空気を読む、てのは本来的にこういうふうなのが理想であって居るべきでないところにしがみつきつづけて醜態をさらす人にこそ投げかけるべきなんだろうな。企業の規模がデカくなるにつれいろいろ複雑化&冒険しづらくなって没落をたどるので小規模のままでいたほうが長続きする、て点からするとこじんまりした国はやりようでどうとでもなる件と同じだろうか。日本はこれから人口へって没落する的な記事を最近よく朝日さんがだしてるけど、ちっさくてもやりようでよい国になる可能性もあると思うよ。無理せずにまわす道も視野にいれていいんじゃないだろうか。
この番組にエレガントマナースクールとかいう礼儀教室的なもんの経営者のおばさんが満面の営業スマイルで出てたんだが、マジにエレガントな人て営業スマイルのつくり方すら知らない(知っててもやらない)し、戸塚ヨットスクール的な怒鳴りつける教え方もしないし、自宅や会社の前に高級車を自慢げに置いてたりしないと思うんですがね。自分がエレガントさから程遠い商売人だってのをまるで自覚してないんだな。このヒトも生い立ちがすごく貧しかった、てやってて思ったけど、成人後にどんなに礼儀作法を学んでも、幼少期に刻み込まれたおカネへの妄執から醸し出される銭ゲバ人間の所作てのは消し去ることができないんですな。デビもだけど、いくらセレブと付き合っても自分がどうであるのか自覚することすらできないみたいなんだよね。ゼニ大好きで妄執もって稼ぎに邁進するのは逞しくていいですけど、このテの人はどうも「エレガント」の意味を根本的にはき違えてるようなので見かけるたびにいちいち指摘してくようにしてる。そうしないと銭ゲバ人間のいう「エレガント」だけがまかり通るようになってしまって、真の品の良さがなんであるか理解されなくなる可能性があるから。それはそれでちゃんと守っておかないと目指すところがどんどん低くなって、ひどいもんしかなくなるかもしれんし。カネに踊らされてるかどうか、てのは隠せないんですよね。実際におカネをもっていようといまいと関係なく「お金や物をどれだけ欲しがってるか」てのがむきだしになっちゃうの。なりが欲求に直結してるというのかな。それを自覚できてない、てのはつまりそれをおかしい、と指摘できる人がそばにいない(=遠ざけてる)てことであって、これも異論者を排除してふんぞり返ってるバカ教祖の一種なんだな。件のおばさんは番組内で、お金に愛されるには「人を喜ばすこと」だと満面の営業スマイルで言い放ってたけども、これはあくまで営業上でってことだよな?こと人間関係においてもそれを適用してると相手の喜ぶこと=お世辞しか言えない、本音の言えない、手痛い指摘もできない、バカ教祖に陥っていてもそれを指摘することすらできない冷たい関係しか築けなくなるよね。金儲けに走りすぎると精神性がないがしろになりがち、てのを地でいく光景をまのあたりにしたふうだった。この番組内でとりあげてた他のヒトは稼いでても身の丈をしってるふうなカンジで好感だったな。元美術家やってたヒトが主婦やったら新鮮な視点で発明ができた件とか、子育て中の必要から地下鉄の出口案内つくったヒトとか。アフィリエイトの人は高級マンションを自慢げに映させてて成り金感むきだしだったけど。おかねってこわいね。