ちょっと練りたりなくて言いたいことが完全に出きってないカンジです

昨日はバーンアフターリーディング(スカラ座)→グラントリノ(丸ピカ)のあとにミルク見ようと思って席もとってあったんですけど、強烈に頭痛がしてしかたなく帰りました。グラントリノはラスト泣きましたし感動しましたけど、今朝ふとんの中でイーストウッドってもしかしてメルギブとおなじアレなのか?とか考えたりしてた。すまなかった。ラストにコワルスキーさんがちんぴらのアジトに向かう際、おいらはあの若造どもとてっきり対話をするのかと思ったんですけど、結局「(何歳であっても)悪でしかない人間」はそれに見合った処置しかない(=対話してもムダ)、みたいな実にアメリカ的善悪観が炸裂したラストで。荒野の用心棒とかでさんざん人を殺してきた男の考える最良の末路がアレ(今回は過去の戦争時に殺した人種へのうしろめたさというのがポイントに)ってすごくわかりやすいですけど。対話できてたらとっくにしてるし、力で対話してきた男だからこそあの最後しかありえないってことか。グラントリノを託されたタオは今後の人生で何度もグラントリノを奪われたり傷つけられたりするかもしれないけど、守れるだろうか。徒党組んで弱いものいじめするチンピラたちも根っからのワルというのは実は少なくて、大部分の子が弱い自分を隠すために虚勢を張ってるうちに後戻りできないところまでいってしまうことが多いと思うんで、今回の作品で敵対するチンピラたちもコワルスキーさんが腰据えてじっくり個々と話つければわかりあえるとは思うんだけどな。そういうことやってたらドラマにならないけどさ。なにしろ作品としては過去のガンマンものとまったく同じものにみえました。男の死に様としてはあっぱれ見事なりとしか言いようがないし、血のつながりはなくとも精神を共有した同士や人とのつながりを重んじる同士なら家族同然に生きられる、という情景の反面としてコワルスキーさんとは離れたところに住んでる息子夫婦が遺産以外に興味のない冷血一家として描かれてましたけど、でもあの冷血ファミリーをつくりだしたのは誰あろうコワルスキーさん本人で、そのままコワルスキーさんに備わってる面(言葉が通じるのに理解し合おうとしないことと、言葉は通じないのになんとなく共に生きていける)の対比構造になっててわかりやすかった。しかし弱いものいじめするチンピラっていつの時代でもどこの地域でもぜったいでてきますけど、映画や漫画で似たようなキャラみて自分がそれと同じことやってて恥ずかしくならんか。そういうザコな生き様したくて生まれてきたのか?政治家もさ、「親の後継いで同じポジションをラクにゲットしてウハウハ」とかいう生き様って老いたときに振り返ってマジで誇れる人生か?泥酔して裸になった芸能人を親の仇とばかりに罵倒するような度量の狭い人生は終わったあとに胸はれるか?若いころも人としての許しより失態への罵倒しかできないような政治家になりたかったかねえ。そもそも七光り議員は若い時分になりたい政治家の理想像みたいなものを抱いてんのかな。

バーンアフターリーディングはなんかコーエンのかみさん映画にみえましたが。なにげにファムファタルもんじゃねこれ。結婚するために全身整形しなくっちゃ!!みたいなジム勤務の中年女性のなりふりかまわなさによってジム勤務の男ふたり(含ブラピ)とかクルーニーとかがどんどん巻き込まれてひどい死にかたとかする話。何組かの夫婦がでてくるんですけど、妻も夫もそれぞれ現状に満足できなくて、相手を変えることでなにかもっといいものが手にできるはずだと思い込みすぎて策略をめぐらすものの、結局そこには前と同じものしかなくて絶望する、みたいな。うまくやってるつもりで実はぜんぜんなにもうまくいってない人たち。ファーゴの女性警官とは真逆の人たちのバカまるだしなありさまを描いたものです。欲深すぎなくせにいざ手にしてみると自分の追ってたものは空虚でしかなかったことがわかって絶望するという。コーエンのかみさんの役どころの人は自分の身の丈にあった人よりも世間一般で評価される基準を満たす男(イケメン金持ち会話が楽しい)をやたらに追い求めてて、それは相手がどうというよりも自分自身がそういう男につり合う人間なのだと思いたくてのめりこんでるふうで悲惨です。仮に全身整形できたところでなにか悪いことがおきるとすぐ整形のせいにするだろうしなあ。つまるところ結婚はだれとしようと同じもんしかないというアレか。