権威とかの評価がない状態でもちあげる人がどれくらいいるもんなのかなー

TWS本郷(土曜)→ハービー山口写真展(日曜。川崎市民ミュージアム)→ブルーノシュルツ祭(月曜。ここのアーチからはいるほう)とみてきまして、シュルツのは朝日新聞の夕刊に砂時計サナトリウム(英題。きのうみたのってフランス版だったのかな?尚しらべたらユー粒にも出てるもよう)を上映するとの告知がでてたんでいってみただけなんですけど、字幕が英語なんでこまかいことはさっぱりわかりませんでしたが、原作のほうとくらべると「砂時計サナトリウム」をベースにして他のシュルツの短編をいろいろぶちこんだ、みたいなつくりであることはわかりました。シュルツってひとつひとつの感触にいちいち陶酔しきってるカキかたするんで、映像にするとなるとこうタルコフスキーちっくなシュルレアリスティックで幻想美的な静かでキレーな画ヅラなのかなーとか思ってたんですけど、昨日みたHas監督作品はなんつーか…ピーターグリーナウェイっぽく撮ってよ!て注文されたアルトマンさんプリズナーNo.6の撮影所編(みてないけどこれの精神病院のくだりのが近いかな)を撮ってみた、みたいな言動のおかしい人が入れ替わり立ち替わり登場するユーモラスな不条理群像劇ふうのものでした。とりあえず理解できた英語字幕があってもまともな受け答えじゃない(質問されても詩の一編を読んで返す、的な意味のないアレ)っぽいんで、和訳ついてようがついてなかろうが画ヅラをたのしむ上ではあんま差し障りがなさげではありました。でもやっぱ日本語字幕つきでもういっぺんみたいなあ。日本人のシュルツ好きは字ヅラありき=日本語ありきなんだし。加藤有子さんがおっしゃるには映画版では原作よりももっと主人公と父親とのつながりみたいなものをしっかり描いてあるとのこと。トークではこの加藤さんのほかに沼野先生と赤塚さんが重度の変態をこういう場でクソまじめにとりあげるってどうなんですか?(by赤塚さん)とかポーランド文学だからという方便でこのようなハレンチな画を堂々と映せてよろこばしいことです(by沼野先生。両方意訳です念のため)などと頬を赤らめながらおっしゃってました。上映後の質問タイムで学生さんと思しき人がシュルツは足フェチなのに映画版では足よりもむしろパイオツばかり映ってましたがいいんですかーて発言してまして、それに対しては沼野先生が当時のポーランド情勢的にはパイオツでもギリギリだった、との返答をなさってましたが、おいらとしては映画版は単に監督さんの嗜好がふつうにでちゃっただけなのではーと思いました。足フェチじゃない人に足を魅力的に撮るのはムリでしょうし(足フェチが足に対して感じる官能どころが足フェチじゃない人にはわからないので)。というわけで次にシュルツ作品を映画化する際には監督さんが足フェチであることが必須条件と思われます。なにげにおんなの足のエロがわかる人じゃなきゃいくらシュルツ好きでも完全映像化はムリ、という真実があぶりだされてきました。そういえばエロ漫画屋さんでシュルツくらい重度の足フェチの人ってみたことないな。もしかしてエロ漫画屋にはいないのか?足フェチ(太もも好きは尻に近い部位なだけに足フェチとは言わないだろうし)。ふつうの漫画家にはいるのにな。関連で足フェチページどうぞ。AVにはたくさんあるっぽいすね。
シュルツ祭にもどしますが、加藤さんご指摘の映画中で出てくる扉(最初のほうの植物がからんだ扉がきれいだった。あれどこなんですかね)は世界が切り替わるスイッチ的な役割とか、赤塚さんご指摘の朽ち果てた廃屋感はクエイ兄弟作品のビジュアル面に影響与えてるんじゃないか(クエイの爛れた描写はモノクロですが、Has監督のは黄緑がかったアレだった)、とかいろいろ出てまして、もうちとつっこんだ話を聞きたかったですがトハンパな状態で時間切れで残念でした。質問コーナーでは田中という学生さんが質問はないかと聞かれてるにも関わらず、自分の研究分野と感想とをごっちゃにした意味不明なことをくだくだ並べはじめて、まとまりのなさと自己愛がないまぜになってるとこがいかにも学生さんらしいなーと感心しました。あと会場は東大のなかでしたが、なんか机の骨組みとかが実家で使ってる骨董ミシンと同じようなつくりのですごく親しみがわきました。ちいさいころの記憶に刷り込まれてるせいかどうかわかりませんけど、東大の神殿めいた建物ってなんかすごい落ち着く。あんなか行くたんびにずっといたいなーと感じますよ。なにしろシュルツ祭のトークに関しては完全に消化不良なので、できればロフトプラスワンなどであのお3方にくわえてもっとえっちなものに詳しい人をいっぱい呼んで映像かけながらつっこんだお話をしていただきたいものです。客層がまじめふうなせいか、言えずにいることが多そうだったので。

『年月が流れる中、いつの日にか一人前の写真家になることをずっと夢見ていた。ある日、地下鉄のホームで、パンクロックバンド、ザ・クラッシュジョー・ストラマーを見かけた。恐る恐る、「写真を撮ってもいいですか?」と訪ねる僕に、「撮りたいものはすべて撮るんだ。それがパンクなんだ」と彼は答え、カメラの前に立ち止まってくれた。』

上記『』内はハービー山口展に展示されてる「Joe on the Tube」(1981年)のよこについてた文から抜粋したブツ。写真はストラマーさんが電車の座席に座りながらカメラのほうを向いてるとこを撮ったものですが、ものすごいふつうのにーちゃんな感じ(パンクバンドの人なのに履いてるズボンもパリッと糊がきいててまじめな人なのかなーと思うくらいフツーっぽく撮ってる)なとこがイカしてます。1980年代のロンドン滞在時の写真はパンクな人とか演劇の人が中心ですが、どれも演技指導したかのように表情がキマってて(同時に日本で最近撮った俳優や歌手の写真もあるんですけど、ロンドンのパンクの人が写されてるものにくらべるとみょうなカッコつけが薄っぺらい)、あれは自然な一瞬なんですかね?あとパンク流行後のニューロマンなんたらの人たちを撮ったものもありましたが、ボーイジョージ系のやたらに原色使って飾り立てるド派手ビジュアルなんですけど、混沌としてるはずなのに個々はちゃんとキマっててカッケー(日本人がやると野暮っつーか継ぎはぎが歩ってるみたいになっちゃうのに)!!80年代のド派手演劇化粧+ダブついた服装って三宅一生とかにまんま受け継がれたんすね。パンクな人のほかにはビビアンウエストウッドさんだのデレクジャーマンだのわりと有名どころも写してありますが、やっぱハービーさんお得意の市井の人の自然な笑顔写真がいちばん良くて、女子校で撮った「School Friends」とかのたのしげな女子たちの自然な表情をみてると心暖まります。あそうそう、この写真展の副題がポートレイツオブホープということで、最初のほうの展示がごく最近日本で撮った市井の人々の写真なんですけど、カメラを向けられた際に出るはにかみ的なほほえみをほとんどの人が浮かべてて、こういうものはともすれば一般の人の撮る家族の写真だの友達写真だのと変わらなくなってしまいますが、ハービーさんはそういう表情のなかでもいちばんEとこだけを捉えてるので一貫してあたたかい味わいのある写真群となっています。おっさんおばちゃんはもちろんですが、カッポーも山口さん写真でみるとほのぼのしてて浄化されるような心持ちで鑑賞することができます。ハービーさんはどうしてこのようにあたたかい心にするような写真を撮るようになったかというと、学生の時分に病を患った際ひどくつらい気持ちを味わったからだそうで、その時期がなければこのようにあたたかな写真が撮られることもなかったことを思うと病はありがたい授かり物のようにも思えます。なにしろハービーさんの日本の市井の人々を写した写真をみてると「古き良き日本」はべつに失われてなくて今もふつうにあるじゃん!と思います。なくなったと思ってる人はそういう箇所をみてないだけなのではーと思った。古き良き日本といえば代官山にあった同潤会アパートとそこの住人さんを撮った写真もかなりよかった。朽ちた石の建造物に植物が生えそぼってるとこが日本じゃなく欧州の古びた街みたいな風情で、そこに洗濯物が干してあったり子供らが遊んでたりばあちゃんが井戸端会議してたりと、シュルレアルっぽいものと卑近な生活感のものが組み合わさったふうな写真で。今展のチラシビジュアルになってる『代官山17番地』とかも言われなきゃ日本かどうかちょっとわからんくらいかっこいいしな。なんかモデルさんにポーズつけさせて撮ったのもあるんですけど、それはいかにもやらせ感あふれててなんか面白くなかった。あの建物のありえないファンタジックな風情にしぜんな生活感が介入してるふうなほうが異世界な感じでイカしています。写真みるだにすごく気持ち良さそうな雰囲気であのまま残しときゃよかったのになーと思いますよ。えーとあと日本の歌手だの声優だのを撮ったものはなんか…被写体になってる人たちが撮られ慣れてるせいもあるかもしれないですけど、なんかかっこつけすぎてつまんなかった。ハービーさん写真の持ち味って市井の人の自然な感情風景なせいか、よけいにその商売向けの顔つきみたいのが目立っちゃって薄っぺらくみえちゃうっつーか、カメラを意識してない人の写真にあるドラマがなくなっちゃっててさ。ただ声優の宮野さんて人は写ってる写真どれもごくしぜんな表情で「日本のアーティスト写真」コーナー中では唯一よかったです。あとなんかご本人がいらしたので少お話など聞かせていただいてしまいました。なんかちいさい気さくなおっさんでした。いい写真ほど1〜2ショットしか撮ってない場合が多いそうですげえなあ。あとマジな目で写ってる女子学生さんを写した際のエピソードなんかも聞いてもいないのに次々と聞かせてくださいました。ハービーさん写真に写ってる日本の女の子がみんなイ〜イ顔してんだわ。当たり前だけどいちばんかわいいとこを心得てるんだな。
ところでこのハービーさん展をやってる川崎市民ミュージアムではサンデーとマガジンの50年史展とか江波杏子の女賭博師映画とかやってますんでお好きな方はどうぞ。みようかどうしようか迷った挙げ句今日はだまし絵展みるんだ!とばかりに渋谷いったらだまし絵展チケット買う時点で25分待ちとかで萎えて帰って腹立ちまぎれに隣で散髪したらあんまりな髪になってしまったのですが、それに関しては明日書く予定。

TWS展については高コレよろしく岡田さんのコレクション放出展とゆうことで高橋コレクションを上回るガラクタと寝食共にするあんたがいちばんスゲぇよ岡田…!とか感心してたらなにげに岡コレのほうとは完全に別モノでしたスマン。あと3階に飾ってあった抽象画の作者さんの小林達也さんご本人がいらして、ああいう抽象画はどうやってみればいいのかとか訊ねてみましたが、見かたについてはよくわからなかったもののとりあえずあのテの色彩ランダムにつけていったふうな模様的な絵の作成観念として「質感のよろこびと描きながら沸き上がるものに従って描く」「一般的な意味のものにしたくない(認識外のものを表現したい)」という考えのもとにつくっているそうですが、一般的意味から外れた自分だけがもつ感覚をだれもがわかるもので表現すればよりいっそう広くわかちあえると思うんですけど、そういう他者からの理解はべつにされようとは思ってないからああいう描写法をとってるということで、そこらへんからしてなんか…抽象画って引きこもりとか自己満足のオナニーにも思えるんだよな。理解させないことを是とする意味がわからん。会田さんがいつだかどっかでゲージツ家は自分を観客にグリグリ押し付けてナンボだって書いてましたけど、芸術家が自分のつくる作品に対して特定の意味にしたくないだのなんだの言うのって自分以外の世界に対する逃げにしか思えないんだよなあ。だったら壁紙職人とか左官にでもなってりゃいいじゃん。というわけであのテの絵のなにがいいのかどうみりゃいいのかいまだにさっぱりわからないままです。結局ポロックだのリヒターだのロスコだのみてると技法編み出し勝負になるんだよなー文様的な絵描く人って。ロスコはでかい仕掛けがあるぶん抽象画家という字面からはみだしちゃってますけど。
会田さんといえば2000円払えば誰でもTWS hongoでだけキュレーターになれる会のチラシの審査員とこに会田さんが写ってましたよ。展企画案としてはひろしまでピカ時にちんぽさんが出した謝罪文とか、これみよがしにひどい作品をつくった作家が方便として書く文章を部屋中に強迫的に貼り巡らせる美術家いやがらせ展とかどうか。たのしいよ。たぶんな。