アメリカの大企業の人って踏みにじる系の手法しか思いつかないのかねえ

『母一人子一人の家庭。父親は死んだのか、家を出たのか、いっさい語られない。観客の想像にまかせられている。説明的な描写が少ないのがこの映画の特色になっている。まるで監督自身が二人の心のなかは分からないといっているかのように。
 母親は息子を溺愛している。食事の世話をするだけではない。息子が立小便をしていると、異常がないかと尿を覗き込む。息子のほうも母親を頼っていて、酔って帰ってくると、パンツひとつの姿で母親の布団のなかにもぐりこむ。かすかに近親相姦の匂いがする。
(中略)
 殺された少女の女友達の顔にはなぜか傷がある(ここでもなぜかは説明されない)。少女は写真館に来た時、なぜか(またしても)突然、鼻血を出す。』

昨日はジェインオースティン秘められた恋(しね)→デビルハザード(シネパトス)→スペル(日劇)→母なる証明(シネスイッチ)とみまして、上記『』内は母なる証明パンフの川本さん文から抜粋したブツ。『説明的な描写が少ない』(けれど面白い)作品は映画だけといわず秀作の証にも思える。たとえば小説で日暮れの時間帯のまま止まっている異空間について書く際、「ここは永遠の黄昏の国である」とか書くのは小説家としてはNGで、なぜかというとそこを黄昏の国かどうか判断するのはあくまで読者であって、そのために小説家は「黄昏」という言葉をいっさい使わずに情景を描写しなきゃだめなんすよね。「夜が明けた」じゃなく「うっすらと東の空が白んできた」みたいに。「ここは永遠の黄昏の国である」とか「夜が明けた」みたいな説明文体を文章上で使っていいのはあらすじ師であって、それを作家がやったらじゃあ情景描写や感情喚起はだれのお仕事デスカ?ということになってしまいます。…などとさんざんエラソーにカキましたけどこれに気づいたのがごくごく最近のことでして、これに気づく前にかいたモノを某所におくってしまいましたが無視orなかったことにしていただけると非常にたすかります。固有名詞をいっさい使わず情景描写(付字数制限)とかある種の訓練になるかな。なんか連想ゲームっぽいなあ。なにしろちょっとずつしかすすみません。物語としては知的障害者(パンフでは「純粋な」とか書いてるけど明らかに池沼系)の犯罪と警察の怠慢とゆうヤバいネタが主題にしてあってさすがだなーと感心しました。ポリよりむしろダークサイドの人間のほうがいろいろ知ってるだけに調査に腕が立つという真実とか、あとまともに反論できないのをいいことに知的障害者を片っ端からマンドクサい事件の犯人に仕立て上げて点数稼ぎしまくる件(知的障害者が食い物にされてる)は知識のない貧しい地域の水源を大企業がいつのまにか独占しちゃう件とおなじでマジひでえ。だれかを踏みにじり続けて儲けるやりかたは破滅がまってるよ。お互いに得るものがないと。水とか医療とかの命に関わる分野は民営化はぜったいだめよね。民営化だめよねといえば最近お客さんに出した郵便物がとどくのがなんか遅くて、1年前くらいまでは隣の千葉県宛にだしたものが2〜3日すればぜったい届いてたのに、最近だと5日かかるんだよ。祭日とかはさんでない平日中なのに。民営化失敗だったんじゃねーの?コイズミの人は責任とってくれるのかな。母なる証明にもどしますが、映画ハシゴの最後だったせいか冒頭からしばらくねてしまって、ラストシーンにつながる象徴っぽい画づらをぜんぜんみれなかったんですよね…。そういえばアンナと過ごした4日間もはじめてみにいった際に遅れて冒頭何分かみれなくて、よーしと行った2度めも遅れて結局冒頭みてないってゆう。だめよ冒頭みないと。特に今作は冒頭部分が重要っぽいですし。とりあえずうちの子は別スレのせておきます。だれかを踏みにじるやりかたは破滅がまってるよといえばジェインオースティンはのちに名作小説を書き上げることになる人がいろいろあっておとなのおんなになっていく映画ですけど、なんとなくこのへんの時代のブンピツのえらいひとってイメージ的に全員プルーストちっくな鼻持ちならない金満ハゲばっかなんだろなーと思って勝手にイラッとしてたんですが、映画みたかぎりではジェーンさんはけっこうな苦労人なのでみなおしました。しかも存命中には出版されずじまいだった作品もけっこうあったとかで、つーことはもうかるもうからない関係なく書かずにいれなかった系の人なんだーとじーんとした。ジェーンさんちのおとうさんが牧師という職業なせいか貧乏で、おかあさんとは恋愛結婚だったそうなんですが、恋愛を選んだせいでこのありさまだよ…お前達はまちがっちゃいけないよ!!などと隙あらばジェーンさんたち娘に玉の輿婚をゴリ押ししてくる母親。ジェーンさんも母親の人生ラクチンしたい願望のためにボケーッとしたバカ貴族の男をあてがわれてこまっていて、そんなさなかに法律家の卵やってるイケメン都会っ子がやってきて、あらゆる刺激を体験済のイケメンはジェーンさんの建前文朗読(地元の人はなんかよろこんでる)を聞くなり「ツマンネ(笑」とかこれみよがしに酷評したりとジェーンさんのイライラボタンを連打するうちにお互いの獣っぽい本性がみえてきて…みたいなラブコメ王道的な展開に突入して燃え上がったりもするものの、お互いの家族に会ってみるや現実的な問題が山積みなことがどんどんあぶりだされてきてそうかんたんにはいきません。作家だからどうこうというより、人間ならだれしもが社会でる前後の20歳くらいのときに必ず味わう情景というか。目の前の責任を果たすこともできずにまともな生活が築けるわけありません的な現実が青い若造たちにつきつけられる的な物語。この汚れた苦しい現実から逃げ出せばきっと楽園が待ってるんだ…ッ!!みたいな青いファンタジー思考に覚えがある人は涙なしにはみられないと思います。目前の苦しみに向き合えない人はどこへいこうと逃げ回ることになるんだよ。ジェーンさんは法律家の卵イケメンとあやうく冥府魔道に入りかかるんですが、あることがきっかけでそれは間違ってる(だれかを犠牲にしたものは破綻する)ことに気づいて踏みとどまり、数々の名作をのこすことができたというアレ。しかしパンフの中尾真理さん文(以下『』内はジェインオースティンパンフより抜粋)にも『自立だの、キャリアだのと言っても、この階級の女性にとっては、結婚する以外に生きる道はなかった。男性でさえ、父親に権利の集中する大家族制で、長男一人が土地財産を受け継いでゆく当時の社会では、自立して生きるのは容易ではなかった。映画の中で、トム・ルフロイは弁護士になるために勉強中、姉のカッサンドラの許嫁者は従軍牧師として西インドへ赴くが、弁護士になるにも、教区牧師になるにも、相応の支度金や有力者の援助が必要で、安定した生活を手に入れるのにはみな苦労をしている。結婚も個人の自由に任されるわけではなく、同じ階級の中で家柄・財産を考慮して決められた。女性には持参金が必要で、長男には大勢の弟妹の面倒を見る責任があった。恋愛を貫くのは容易ではなかったのである。』て解説がありますけど、親が自分のラクチンのために子供に責任負わすのをあたりまえみたいに思ってるのがひでえなーとしみじみおもいました。「恋愛結婚=貧乏(=子だくさん[避妊できなかったんだな…)」な前提でふつうに「悪い人生のお手本」な会話がすすむのとかうへーと思いますけど、おんながなにげに情よりカネがすべてな生き物なことは今にはじまったことでもないか。あそうそう、あと当時は小説家という職業が見下されてて、たとえ売れっ子になってもあらぬ噂を流されて世間から白い目でみられたとか。おんなの人生といえば結婚しかなかったみたいなご時世に独身を貫き通したところもジェーンさんはすげえおんなだったんだなーと思った。今でこそ小説家とかあたりまえだけど、世間的に白い目でみられてる状態でやるっつーのがやっぱすごいと思う。物語としては法律家の卵イケメンと別れたことでお互い発奮したっぽいのでよかったんでは。なんとなく法律家の卵イケメンはジェーンさんといるとヒモになりそうな雰囲気(情熱だけでなんとかできるファンタジーに浸るあたりとか)ふんぷんでしたし。あと家のためにむりやりあてがわれたバカ貴族の人は最後のほうでわりといいひとっぽい雰囲気でしたけどね。あっちの人のがジェーンさんを理解してくれそうなかんじではあった。でもどんないいひとだろうが好きじゃない人とは生活すればするほど空虚になるだけだし。
技術的な差がそうとうある以外ではデビルハザードとスペルは悪魔がきて大騒ぎするという点でおなじアレです。サムライみは客を怖がらせる気がハナからゼロだったんでしょうか。銅像ハナ肇をひたすら痛めつけるみたいな体をはったお笑い芸人のコントをみてるようなきもちになってくる「ショック」映画。ローン延滞の常習客である気味の悪いバアさんの懇願を袖にした銀行の融資担当である主人公が、帰り際にくだんのバアさんに襲われて以来、物音に極度に怯えるようになったり、腐った粘液やウジムシをぶっかけられる夢にうなされたりするようになって、家にいるときだけならまだしも会社での仕事中とか婚約者の実家での親面談中とかにまで出て来るので、なごやかな会話中にナメとんかボケナスがあ!!みたいに虚空にむかって怒鳴りちらしたり、持参スイーツたんのう中にクチから生きたハエを飛び出させたり鼻血をやりすぎなほど吹き出させたり(コント展開すぎるよ!!)とその場にいた全員から避けられる的行動をしてしまうことに。いくらなんでもこれはとなった主人公は霊能者(インド人)にたのみこんで苦しめてくる悪魔を降霊会でおびきよせて退治してもらうことにするんですけど、なんかこう実際に悪魔的なモノを真っ正面からガッチリCG描写するせいかこわくもなんともありません。悪魔がのりうつって顔がリアルになるヤギとかちょっと噴いた(まさかそこでリアル顔になったりしないよねーとか思ってたのでよけいに)。しょっぱなから地面が割れてごつい手がでてくるあたりからもうこわくもなんともねー系映画だなーとは思いましたけどまさかここまでとは。つーわけで観客の生理的嫌悪感をこれでもかーみたいに刺激しちゃうぞふう画ヅラが連発されますけど、動物のツラをリアルにしたり超常現象(浮かぶとか)をはっきり描いたら台無し確定ではあります。まーでも本来的にシネパトスでしかやらない系のしょーもないアレを有名監督だからとゆーだけで日劇の巨大スクリーンで大入りの観客とともにみるとゆうのもなかなかに乙でしたので、これはこれでなんかよかったです。この前みたアルジェントの新作思い出した。デビルハザードは回想シーンがうざかったです。悪魔もいきなり悪い人全開にしないで、ちょっとおとなしくふるまっといて地上にでてから好き勝手やればいいのに。なんであの悪魔ってあまりに考えなしな連中なのかなー。神に叩き出されたのも悪いからじゃなくてちょっと頭わるすぎるからじゃねーの?