パンフ執筆陣がなにげに豪華>センダック映画

昨日仕事後にかいじゅうたちのいるところ(丸の内ルーブル)をみてきましたが、大スジとしては原作どうりの典型的な行きて帰りし物語だし結末もそのとうりのものなのに…なのに…!!!「こういう終わりかたなんだろうなあ」と思ったまんまの展開だったにも関わらず、どういうわけかエンドクレジットまでみて目から汁がでてきた。原作の絵本ではおおあばれしたマックスが罰として晩ご飯ぬきな上部屋に閉じ込められて、そこからかいじゅうのしまへの冒険がはじまるんですけど、映画版ではかまってくれない家族に対して(悲しさ・寂しさ・愛情への渇望とかがぐるぐるしたすえの)怒りをぶちまけて家から飛び出していく(もしかしたら実際には外へは行ってないのかもしれない*)ものとしてかいじゅうのいる島までの道程がリアルに描かれています。原作絵本ではかいじゅうたちといっしょに暴れてるときはたのしいけれど、だんだん飽きてきて、そろそろ休みたくなる=休むためには暴れることを止めなきゃならない=暴れる心の象徴であるかいじゅうたちと離れなきゃならない、というふうに生活していく上でのけじめや折り合いを徐々に身につけてく男の子のありさまが描かれてて、かいじゅうが子供の暴走欲求の化身的な描写なんですけど、映画版ではさらに深く掘り下げて、主人公のマックスが自分と自分をとりまく世界を見つめ直して向き合っていくための心象風景的な、体験をまま投影した世界として描かれています。子供でも大人でも感情が逆立っているときには自分を冷静に見つめ直すことができないものですが、友達との遊びとか、なにか本をよんでいるとき、空想の世界にいる最中、こことはちがうどこかを疑似体験してたくさん楽しんでこころのなかが安心してからやっと、現実世界でうまくいかないことを自分のなかで整理したり、自分なりに納得できるまで噛み砕いたりできるようになるのだと思う。 女の子ならおにんぎょうさん遊びで、男の子なら「ゴッコ遊び」で、その年齢までに見聞きしたことをもりこんでいるうちに、いちばん気になっていたことにやっぱりぶつかってしまう。その世界にはその年齢になるまでに知った「安心」や「楽しさ」しかでてこない。未知の悦楽はどこにも存在しない。よくやる「敵と味方」遊び、古びたセーターにくるまるホコリっぽいあったかさ。マックスのたどりついた「かいじゅうたちのいるところ」にいるかいじゅうは、どこかでみたことのあるような性格をしてるやつらばっかりだ。うたぐり深かったり、目立ちたがりでくよくよしてたり、怒りっぽくて寂しそうだったり…。そうしてみんな、なぜ世界がこんなに悲しいのか、なぜもとのように楽しいところに戻らないのか考えてる。そんなところにマックスがあらわれる。まよなかのように暗いよるの島で、かいじゅうたちは興味津々に近寄ってきて、大きな目ととがった歯をむいてマックスをたべてしまおうとする。あわててマックスは自分はバイキングの王だったし、ここでも王になると豪語する。びっくりしてたべるのをやめ、よろこぶかいじゅうたち。王さまがきたからには安心だ、自分たちの寂しさを消し去ってくれるにちがいない。なりゆきで言ったとはいえ、みんなをたのしませるためにマックスは毎日かいじゅうおどりや砂玉当てっこを提案しては元気のないかいじゅうたちを巻き込んで暴れつづけるのだが…というのが大体のスジ。原作ではマックスの暴れ心の象徴であるかいじゅうは終始アグレッシブなんですけど、映画版ではどのかいじゅうにもなんか倦怠感や無気力さに包まれた憂鬱な重たい雰囲気が漂っていて、マックスのこころのなかはそうとう疲れきっているのかなと思う。マックスの怒りの象徴とおぼしきかいじゅうのキャロルが「最近砂漠が広がってきた」と言ってマックスといっしょに歩む場面がありますが、サイコパスの心に入るセルでも自閉症の子供の心象風景として砂漠がでてきますけど、心理学的に砂漠ってやっぱ乾いてるとかそのまんまの意味なんでしょうか(参照)。最終的には怒りの投影キャラであるかいじゅうのキャロルの横暴っぷりをみて、マックスがいままでの自分を反省していく展開なんですが、このかいじゅうのキャロルとマックスとの邂逅の場面はこれがちょっとよぎったりした。相手をゆるすことは自分をゆるすこと、という構図がこの映画ではまま映像となっている。
センダックとは関係ないんですけど、「行きて帰りし物語」でこどもが「行く」のが上でも書いたとおり「空想の世界」で、そこで癒されたり強くなったりして「帰ってくる」あたりの作用としてなぜかこれ(グイーッとのばしてボイーンともどってくる)がよぎりました。なぜだろう。どんな空想でも役に立たないものはないというか。よくよく考えるとセンダックの関わるえほんは空想世界に行って帰る系の話がけっこう多い気がする。これの三部作中に入ってるまよなかのだいどころ(この絵本ちいさいころ怖かった)もだし。
センダック映画にもどしますが、もしマックスがかいじゅうに食べられてしまうと、ちょっとやそっとじゃ歯止めのきかない危険な子になってしまうということなのかな。日本でいうともののけ姫でたたり神にのみこまれてしまうようなものでしょうか。でも「食べられたくない」と思った時点でマックスは自分で自分をどうにかしたかったのだな。原作が「暴力衝動との折り合い」が中心に据えられてるがゆえにマックスをたべようとするかいじゅうからただ離れてくだけで、かいじゅうたちはマックスを追いかけてガウーとなってるままだけど、映画版だとマックスとの別れの際にかいじゅうたちがみょうにメソメソしてるのもなんかおもしろかった。たきもとさんも書いてるようにかいじゅうの立ち位置も絶妙だし。


アメリカでは子供がどこいったかわからなくなると即ポリに通報して大々的に捜索、とかなるものですが、この映画に関してはマックスのお母さんは通報のたぐいは一切せず、台所でひたすら待っている風な描写だった。これは「マックスが外に飛び出しておらず部屋に閉じこもっている」かもしくは「マックスは実際に外に飛び出していったけれど、お母さんが辛抱強く待っていてくれるほどマックスのことを信じていた」のどちらかになると思う