いるいるおばけが すんでいる



        

『ある人がいっとき、「わたしは他人様に見せるために絵をかいているのではない。おのれのためにおのれ自身とたたかっているのだ」としきりに言い立てていたこどがある。
たぶん自分なりの造形の可能性を追求しているのだ、ということを言いたかったのだろう。
そう言いながら「ぜひ御高覧を賜りたく…」と案内状を配ってさかんに個展をひらくところをみると、展覧会が他人様に見てもらうための催しであることを知らないはずはない。
「わたしの絵は、わたし自身の排泄物にすぎない」とうそぶく人もあった。
一見豪快めいておもしろいが、本気でそう思っていたかどうかは信用できない。
たぶん体内にたまったものを吐き出しているのだ、といいたいのだろうが、そういいながら「どうもこんどの絵は品格が足りない」などと排泄物に精神性を求めたりしている。
おおよそつじつまの合わないことを呟きながら、自分と眼前の絵との間を往き来して、おおくの画家の明け暮れは、けっこう悩ましいものなのである。』

昨日はさよなら滝平二郎 遺作展(逓信総合博物館)→かいじゅうたちのいるところ(丸の内ルブール)→ミレニアム(ヒューマントラストシネマ有楽町)で、上記『』内はJIRO TAKIDAIRA 1921-2009 Works の25頁からの抜粋文。逓信総合博物館のはモチモチの木とか八郎とかの絵で有名な滝平さんの版画や切り絵原稿を展示してあるものですが、展示のあいまに随筆文も掲げられてて、アクション少年漫画のような画風と同じく人柄もかなり痛快なひとだったんだなーとじーんとした。江戸っ子然とした言葉まわし(出身は茨城らへんだそう)で2次大戦で権力者にいいように操られた怒りから「権力者の化けの皮をひんむく!」とばかりに裸の王様(終戦直後だけにこれくらいでもけっこうヤバめだったんだと思われる)の絵本づくりにとりかかった件とか、モチモチの木製作秘話(原作にいたく感動した滝平さんがぜったい俺が挿絵やる!て鼻息荒げてたわりにほったらかしにしつづけて、ある日とうとう原作者が重病にかかったという連絡が入る)とか農学校在籍時に遊び心で描いた教師連中の似顔絵が校長の手にわたって呼び出しくらってドクドクしたけどホメちぎられて唖然となった話とか、おもしろほのぼの逸話が語られています。酒とたばこと飲み友達がいれば満足する方だったとか。つーか去年まで生きてらっしゃったんですね。「死んだ」っていうより「つい数ヶ月前まで生きてた」ってほうが逆に驚きます。欧米の大御所写真家とか。展示内容としては1950年代の版画家色のつよい作品から1960年代につくられた代表作となる絵本のための切り絵群と、1970年代につくられた着物が日常着の時代の庶民の四季折々の生活風景を描いた切り絵群と、その後は晩年の作品という順で、やはり1960年代以降の切り絵群がすばらしい。角張った太めの紙線であそこまで表情ゆたかにできるものなんですね。爆笑や憤怒といったピークの感情をした表情じゃなくて、すこしはにかんだような表情とか、警戒してるふうな顔つきとか、ちょっと飽きちゃったみたいな顔のような、日常生活のなかでだれもが毎日意識せずにしてる表情を描くのがものすげえ巧い。1970年代の庶民の生活風景を描いたものではそういう表情プラス季節ならではの道具立てと色合い(キャラクタや背景の主線の色を季節や時間帯に合った色にいちいちしてる)が非常にマッチしていて「ああ…日本人ていいなあ…」としみじみ感じ入りました。滝平さんが描き出してるあのころが実はいちばん庶民の心根がゆたかだったんじゃないかとか思えてしまうホドに。その生活切り絵はもちろんいいんですが、個人的には1960年代のドラマチックさが濃縮された躍動感ある絵本の挿絵用切り絵群がすごくすきなんですけど、上記文がのってる展カタログにはどういうわけかタバコの箱よりちっちぇ画像でしか載ってなくてさ…どういうことなの…?あの臨場感のある切り絵をこんなちいさくしたら持ち味が伝わらないよ。それにこの展カタログの表紙には作品群中でいちばん滝平先生らしさのない版画が使われてる(滝平先生の個性が一番出た[=知名度のいちばんある]作品をもってくるべきだろうJK)上、英語圏を意識したのかしらんけど英語でしか題がつけられてねえの。ポンニ人の作家の目録なのにだよ?漢字はおろかひらがなすら付されてねえ。原産国が原語をつけちゃいけない理由ってなんかあるんですか?使われてる絵は滝平先生作品だかなんだかわからん絵、作家名よりも「Works」がデカデカとつけられてる目録。こんなの遠目でなくてもだれの目録なんだかちっともわかんねえよ! でさ、この目録になんか薄青色のチラシみたいのがはさんであって、なんか目録をつくった会社のタレごとが書いてあるんですけど(以下『』内そのチラシから抜粋)、

『(中略)滝平二郎画伯の一生をこの一冊に込めたいとの気持ちからこの一冊に短期間を押して製作させて頂きました

短期間でつくったから多少の不備は認めてくださいってごていねいに言い訳ですか。短期間をどーたらの前にある「一生を込めたい」とかいう部分がみごとに死んでいますな。みんなが目当てにみにくるような代表作を縮小して載せるとかカバーを作家の個性が欠落しきったものにするとか、いいかげん (株)D・A・I [←死ぬ?]の滝平加根は滝平作品を尊んでるというより自分のデザイン采配をみせびらかしたいが全面にでた三流うんこデザイナーにしか思えません。
日本郵政株式会社郵政資料館は腕利きのデザイナーにたのんで滝平二郎展目録をつくり直させたまえ。
正直いってこの目録はひどい。忙しかったことをいいわけにした上(あまつさえそれを客に言い渡す)、作家性をないがしろにするような目録デザインするのはプロとしてもどうかと思うよ。 加根ってアホは美術展の目録をつくるに際してなにを大事にすればいいのかしらないのやもしらん。滝平二郎のファンが「望んでる画ヅラ」をマジで考えたか?つーか時間がなかったとか客に知らせるくらいだから親子だからゆるしてくれとか言いそうだな。 滝平さんの親族だろうが容赦しねえ。巻末の滝平先生のバイオグラフィーなんか出身地すら書いてない(茨城出身つーのは差し挟まれてる随筆文でわかった)。二郎さん、あんたの子供は客にいいわけしてプロフェッショナルヅラしてるクソッたれになっちゃったよ。
あと、アンデルセン展以来毎度のことですが展示してある原画に使われてる画材とかがいっさい書いてねーし。何から何までプロのおしごとですねー(棒読み)

その後はふたたびセンダック映画みました。実は先週みにいった際に白いフクロウとか家作りのシーンとかで寝ちゃってたので再チャレンジで。あのフクロウの名前ってマックスのお姉ちゃんの男友達の名前でしたっけ?KWがマックスのねーちゃん投影とすると石で落とされる関係あたりも隠喩みたいなのかしら。あと、家作りが終わったあたりで夫婦っぽい怪獣のおばさんぽいほうがマックスに「王様の愛情が平等に行き渡ってないじゃない!」とか「アンタは王様なんだからアタシのいうことはなんでも受け入れてよ!」とか要求をいろいろぶつけてきて、あすこらへんは自分の思うようにならないと気が済まないマックスのわがまま心の投影なのかな。アイツらとばっかりいっしょにいて!アタシのこと嫌いなんでしょ!ってちいさい子がいいそうなセリフだ。このへんのマックスをイヤーな気持ちにさせる性格をした、自分にとって都合の悪いかいじゅうを泥ダンゴ戦争で片っ端から敵側にふりわけちゃうわけですが、泥ダンゴ戦争ではボコスカぶつけあいをするわけなので肉体的にも痛い思いをした結果、全員が後味の悪い思いを味わってよけい関係が悪化してくという。「敵」ってレッテル貼ったところで事態がよくなるわけがない。あと後半あたりでマックスの怒り投影キャラであるかいじゅうのキャロルがはずみでトリ型かいじゅうの腕をひきちぎってしまいますが、ここで彼らが実はぬいぐるみである証左がでる=この場所がマックスの部屋のなかである、という証拠になってるのだなと思った。なんか監督さんは原作画ヅラにでてくる道具立てを実にことこまかく使い回してます。腕をちぎられたかいじゅうのいう「お気に入りの腕だったのに!」はなにもかも壊してしまいたい!と思ってるマックスが同時に抱いてる思いなんだろな。ずいぶん前に朝日新聞のコラムかなんかで読んだんですけど、幼い頃に友達の少女といっしょに飼ってたカエルがいて、その人(当時少年)も女の子もすごくカエルを大事にしてたらしいんですけど、ある日女の子がなにかでひどく叱られてわんわん泣きながら来て突然大事に飼ってたカエルの両足を力まかせに引き裂いてちぎって殺してしまって、少年だったその人はあまりの出来事に呆然とした話が書いてありましたけど、幼い子にとっての「自分を否定される」ことの精神的質量っていうのはおとなが考えるより何倍もすさまじいものなのかなと思う。それははじめて世界や他者に出会ったってことで、そのつらさにすこしずつ耐えられるようになることが人間としての成長つーことなんだろう。もうすこし先に進むとこんどはガキ扱いされるのにムカついてきて、必要以上に大きくみせようと背伸びしすぎて大失敗とかなる絵本がでてくるわけですが、それはまたべつのときにでもかく。あそうそう、パンフでじんぐうてるお先生や五味太郎先生の挙げてるセンダック絵本(これとかこれとかこれとか。あと参照)よみましたけど、とおいところへ…みたいなわかりやすい作品ではかいじゅうたちのいるところ同様に意気揚々とでかけていった挙げ句どんどん飽きてきて「やさしい だれかさんの ところへ[byかいじゅうたちのいるところ]」かえりたくなって帰る展開ですが、まどのそとのそのまた…は子供のころによんで抱いた「なんかわかんない」みたいな感想しか抱けなかった。まったく変わってない。センダックはモノによってはひどくむつかしい。ふふふんへへへん…は言葉遊び的な内容だからかもしれんけど、話が含んでるものがさっぱりわかりません。むずかしすぎる。夫人もセンダック映画みてきたらしいんですけど、あれは教育映画よ!て断言してた。むずかしいといえばかいじゅうたちパンフにセンダックのご尊顔が掲載されてるんですけど、眉間にシワがよってて気難しい頑固おやじみたいな厳つくてむずかしい顔してましたよ。この前の土曜にやってた美の巨人たちがカラバッジオでしたけど、作風の激しいドラマチックさと比例するように顔が厳つくて、気性の激しさがまま作品にでてしまうものなのかなーとちょっと思います。そうそう、あとかいじゅうたちのいるところの原作絵本を見直して思いましたけど、ボンヤリ描いた(拡大コピーかな?)背景にハッキリした線で描いたキャラクタをはめこむようにしてあって立体的な作用を狙ってあんのな。やっぱスゴいなセンダック。気性の激しいひとは作品をドラマチックにするためならなんでもやるっぽい。

ミレニアムはなんか北欧らへんの富豪一族内で発生した殺人の調査依頼を受けた記者と、その記者の身辺を洗ってた凄腕ハッカーの女がいっしょになって調べて回る話。三本の絡み合った糸が同じところへ収束するんじゃなく、また別の3箇所におさまるふうな展開なので真相がわかってもなんとなくカタルシスはなく。話の方向がいちいちバラバラなんで金田一さん的な黒さもなく盛り上がりにも欠ける。殺人のほうの犯人はなんとなく個人的性癖でやってたふうで一族総出意味ナシ。あと凄腕ハッカーの子は会社の裏金ガッポリかっさらうような野心抱いてるんならとっくにやってんじゃね?凄腕ハッカーなんだからそんなの思いつかないわけないし。凄腕だけど今所属してる会社の仕事とか生活に満足してるのかなーストイックでかっこいいなーと思ってるとラストになって突然生活スタイルを劇的に変えるところがえっ…?と思いました。なんか性格設定がよくわからない。それまでクールな仕事人キャラだったのがラストで唐突にものすごく危ない橋を渡る女泥棒になっちゃって。でもまーエンドクレジット後にやってた2作目のがスリリングそうではありました。