マリオン西武の後釜は家電屋だろうとの推測多し(つまんねーの)

これがすさまじい傑作。日本を舞台にしたゾンビものって「ゾンビものならこれがガチ」的な紋切り型の対処や道具立てを出すことに血道をあげるあまりに「ゾンビが日本で発生した」という現実味がいまいち置き去りにされがちなものが多いんですけど、花沢さんのアイアムアヒーローでは日本人ならだれしもが感じたことのある卑近でせせこましい生活感覚と、それにともなう心理状態をこまかく描き出していて、ゾンビを描くよりもまず現実を描くことに支点を置いたあたり、人間や社会の描写に比重を置いたロメロのゾンビと同じく普遍的傑作としての要素を兼ね備えている。ゾンビものって「ゾンビが何をしたか」よりも「ゾンビに対して人間がどうしたか」を描くものなので、国ごとにちがったゾンビ映画がつくられてしかるべきはずなんですが、どうも欧米らへんがつくりはじめたジャンルなせいか「アメリカのゾンビ映画」ならではの道具立てが日本でつくられるゾンビものにまま持ち込むことを優先するあまりに社会や人間の描写がおろそかにされることがけっこうあって、それに対して花沢さんが異議を申し立てた形になったようにも思う。アイアムアヒーローでは売れっ子漫画家への野心をもちながらもアシスタントで生計をたてながらくすぶり続けてる中年男が主人公で、仕事場である漫画家の家には主人公のほかにおなじくらいの年齢のアシスタントが3人(男2女1)いるんですが、どいつも狭隘で身勝手を極めた考えにとらわれていて、口にはださずとも「自分を否定するやつは敵」とばかりに内弁慶というか精神的引きこもりというか、1歩まちがうと重篤精神疾患にでもなりそうなくらい強迫的な自己顕示欲が頭の中に渦巻いているため、ひとたび孤独に陥ると実体のない「敵」から始終命を狙われているような恐怖にとらわれる。ゾンビが出現した理由みたいなものは既刊分ではまだ語られていないんですけど、ある日突然化け物に豹変してしまいながらもかすかに人間だったころの習慣をくりかえしている、みたいなゾンビ化後の人のありさまというのが、たとえば主人公の同棲相手の女の子は日頃は包容力があってやさしい性格なのに、酒をのむと暴言を吐く親父のような人格に豹変してしまうところとか、身勝手な思い込みを実行に移して願望どうりの展開にならないと暴力にものをいわせたり、あるいは思いきって行動して後悔にとらわれていたら思いもよらずうまくいったり、みたいにある出来事を境に豹変する人間とみようによってはすごく似ている。アイアムアヒーロー2巻めでゾンビに襲われる日本の市井の人々が端々で描かれてるんですけど、屋内でゾンビ化した家族のひとりや顔なじみのご近所さんから襲われているとおぼしき描写がたくさんあって、どの人も「ゾンビだ!」なんて言うことなくお父さんっなにするの?!とか頼むから落ち着いてくれおまえ!とか、噛みちぎられながらもあくまで家族を説得するふうな態度でいるあたりがものすごくリアル。日本でゾンビがでたらきっとあんなふうな光景なんだろうなあと思う。よくよく考えてみればゾンビだ!と訓練された兵士ばりに即頭をふっとばせるようになるまでにはけっこうな時間がかかるはず、というあたりとかマジ誠実につくってるなと感心します。アイアムアヒーローではゾンビになってない生身のキャラクタが、ゾンビがあふれはじめて混乱のはじまった世界にでてもまだ自分の欲望や怨みにとらわれつづけていて、おそらくこの自己愛的な閉じた願望が救いのない世界で自分を失わずに生きていくための砦みたいになるのかもしれない。その願望は社会が機能していないと叶わないものだから囚われていてもしかたないっちゃそうですが、そうなると社会が復活するまで抱くことがまま生存願望になるのかな。ぜんたい「襲い来る他者を振り払いながらどこまで自分を保っていけるか」みたいなことが主題の作品だと思う。ゾンビものっつーよりは精神的サバイバル漫画というほうが合ってるような。みじめな気分のリアリティと自分以外の存在に対する臨場感がすさまじい。抑制しすぎでも過剰すぎでもなく、すべてが揃っている。
ゾンビによる社会崩壊の展開で主人公が生きてくスジだと、いずれは一般的読者の日常的な感覚から離れがちになっちゃって、既刊でリアリティかもしだし装置だった卑近な生活描写もどんどんなくなってくだろうけど、作者さんはそのへんどう料理してくのかたのしみ。