カラバッジョって土地の名前なんですってね

この前の日曜はコララインとボタンの魔女(ギロッポンズルヒー)→ルド&クルシ(シネマライズ)→カラバッジョ(テアトルシネマ)→パラノーマルアクティビティ(日劇)とみまして、コララインは公開に二の足踏んでたのが意味わからないレベルに良質の娯楽作品です。とびだす作用の良さがようやく理解できた気がしましたし。前にとびだす版のファイナルディスティネーションシリーズみたらなんか飛び出す箇所の微妙にアニメっぽい見た目だったのも手伝ってちょっと興ざめだったんだよな。 あー実写とはまだそぐわないんだなー…てガッカリした。その点コララインはアニメな上に人形をちびちび動かしてとる手作り感覚満点な作品だけに、とびだす作用の持つつくりものっぽさが逆に活きる形になったような。特にエンドクレジット後のネズミモビールみたいのがとびだす映像はおおー!と思った。おもちゃ的な画ヅラとならとびだす仕掛けはたいへん相性がよい。紙芝居がとびだすとファンタジーが侵蝕してきた感が倍増します。スジとしてはいわくつきの家としらずに越してきた一家のひとり娘のコララインが、その家にあったちいさな扉がふしぎな空間に通じていることに気づいて以来、思い通りにならないことがあるたんびにその扉を通って異世界を楽しみに行くようになる。コララインが気に食わないのは共働きの両親がどっちも忙しいせいで自分のことをまともにとりあってくれないことで、話を聞かないことはしょっちゅうだし、悪くするとまともな食事にすらありつけない日もある。だからといってほしいものを買ってくれたりもしない。おとなの都合ばかり押し付けられる日々にウンザリしていたコララインが見出した、ちいさな扉のむこう側の世界はもといた世界とそっくりだけれど、よくみるとなにかが違っている。部屋はすてきものが何から何まで揃っているし、ママやパパと声も風体もソックリな人は自分の言いぶんを何から何まで聞いてくれて、ごちそうを用意してくれて、楽しませてくれて、夢みたいな生活ができる。ただ、この世界にいる人はみんな両目がボタン。ちょっとおかしいものの心地のいい暮らしを満喫するあまりに深く考えずにいたある日、異世界のボタンの目をしたママが、ずっとこの世界にいたければ、とコララインに贈り物をさしだしてくる。ウキウキして箱をあけるとボタンふたつに縫い針が…というのが大筋。このボタンの目をしたママがこの異世界をつくりだした張本人で、あるモノが化けてるわけです。最新のヒーホの三留さん文によると監督さん自身が投影されてるのがこのボタン目ママだそうで、自分の嗜好を世界中に押し付けてまわるナイトメアビフォアクリスマスの主人公といい、セリックさん作品はその強烈な欲望を投影したキャラによって物語が紡ぎ出されるが原理なわけですな。コララインでのボタン目ママの目的は孤独を癒すためにこの家にきた子供の魂を自分の手元に縛り付けてしまうことで、コララインがくるまでにすでに数人の子供の犠牲者がでているというのに、ボタン目ママの心の飢えは満たされないもようでコララインの魂までも我が者にしようと追いすがってくる。このボタン目ママの自己愛を満たすための一方的な支配欲求は子供がわがまま言ってだだこねてるのと同じ、つまり『コララインが望んでいることを全部実現する=コララインの周囲にいる人がコララインの命令に従う』ということであって、どちらか一方の言いぶんがすべて通る世界には「愛」はないんだよ、お互いに譲歩しあったりケンカしたり許し合ったりできるからこそ友達になれるんだよ、という至極まっとうな教訓が組み込まれているもようです。当初の異世界ではボタン目ママがコララインを我が物にしたいがゆえにコララインの願望をかたっぱしから叶えまくっていて、その1要素として近所の悪ガキ君はクチが悪いからといって縫い合わせてしまうところとかわかりやすかった。コララインとその悪ガキ君がいっしょに楽しいことを体験しても、悪ガキ君はしゃべれないからコララインとちょっとも共感すらできずにかなしそうにしてた。ボタン目ママの人とは暴走しきりで対話すらできないんでしょうかね。あと他の部屋に住む自称ネズミサーカスの人とか自称女優のデブおばあちゃん2人とか。ピンクパレスって名前といい、あのおばあちゃん2人はバーレスクショーの人とかなんですかね。クライマックスらへんのゲームのとこはちょっとRPG風味な展開でした。しかしパンフの上杉さんインタビュー文で、セリックさんから「みたことないもの描いてくれ」とかたのまれたそうですけど、いくらみたことないモノつくってもありきたりのスジにのせたらありきたりのものになっちゃう気はします。ところでとびだすメガネが鼻の頭と耳上部を締め付けて痛いのをどうにかしてほしい。つーか早々に肉眼でもとびでるようにしてください。肉体痛めつけてまでとびださす価値があるとはまだ思えない。

カラバッジョは挑発されるとカーッとなって人生台無しにするくりかえしで野たれ死にした天才画家の話。なんかいつも剣持ち歩いてて、とりたてて腕っ節が強いわけでもないのにちょっとしたことですぐ激怒しはじめて決闘モードになっちゃうひとだったらしい。でも剣の腕がとりたてて立つわけでもないので、てきとうに戦って不利になると汚い手で相手を殺してトンズラするんで、いっぱしの権力者でもかばいきれなくなってついには…みたいな自業自得すぎる進行。カラバッジョ自身の人生展開は不遇の連続ってことでもなく、お偉いさんから引き立てられることが重なって当時の政治権力者(教会の人)がパトロンになってくれたりして、周囲のひとたちもカラバッジョの天才っぷりがよくわかってるのでどうにか守りたいと思ってるんですけど、激情のまま行動して結果的に周囲の人たちの好意を踏みにじるようなことをくりかえした挙げ句ひどいことになる。なんか…まわりにいた友達の人とかはカラバッジョに「挑発された時の思考訓練」みたいなことをしてあげたらよかったのでは。なんかもう同じ失敗くりかえしすぎてるし。カラバッジョが激怒する原因はおおかた仲間や絵のモデルを下層だからといって軽んじられたことに対する義憤的なアレなんで根はいいやつなんですけど、でも決闘しかけたわりに周囲の人をないがしろにするような結果しかもたらせないからやる意味もない(カラバッジョが「決闘」で相手殺しちゃったことで死刑にされちゃいますけど、殺しがお咎めなしになるからこそ「決闘」に持ち込むんじゃねーの?死刑になるのって裁判に顔ださずにトンズラしたのが原因なのかな)。画家としては公開処刑のようすを絵にもりこんでリアリティを醸し出したり、聖女画のモデルに気に入った娼婦を使ったりとイカスひとです。カラバッジョ生涯に於ける重要展開を畳み掛けるように詰め込んである構成で、トイレにいくタイミングを計りかねるくらいテンポ早い&濃縮されたわかりやすい作品ですが、要所要所でかかるバックミュージックがやりすぎなくらい大仰なのがどうか。画ヅラもカラバッジョ画の色具合を意識しすぎなカンジだし、なんかいろいろカラバッジョすぎる映画です。カラバッジョ画のモデルになったホモくさい男の人とか、カラバッジョを客の面前で小バカにしまくるお高くとまって知ったふうなクチきくバカ画家とかおもしろかった。

パラアクはブレアウィッチっつーかRECぽかった。ブレアウィッチはちゃんと呪い的なことを描いてるけど、パラアクが描いてるのってなんかアクションホラーにでる獣的なアレで怖さがぐんと減った。怖い怖いゆってるのに部屋のドアあけっぱなしだしけっこうスースー寝てるし。まあ超常現象に理解のない夫がおもしろ半分に火に油をそそぐ的なことばっかするのはイライラさせられました。こわがって十字架握りしめてる奥さんから十字架奪って火に投げ込むとことか。自分らで逃げ道をなくす的なところはスラッシャー映画でキャーキャー逃げ回った挙げ句もとの場所へもどってしまう王道だなーとしみじみと。こわくないのって霊的なリアリティがぜんぜんないからなんだろな。マジにシャレにならなくなった人はもっと死にものぐるいになるはずなのに、なんか最後まで隙だらけだし。最後のほうみたいな展開なったらふつう家にはもどらないだろ。もどってきた上ぐうぐうねてるし。

ルド&クルシはメキシコのバナナ労働者の貧乏兄弟がサッカーのスカウトマンにスカウトされてカネや女でつられるままに結果だしてくうちに人気者になってくも生来のバクチ癖やおんな関係で身を持ち崩してリアルな結末をむかえる心温まる話。