人として最低な行動をするシーンがある映画は十中八九満足します。


       

石井桃子展(7日。世田谷文学館)→バッドルーテナント(恵比寿ガーデンシネマ)→ハートロッカー(渋東シネタワー)→AC/DC BLACK ICE TOUR(14日。さいたまスーパーアリーナ)→隣の家の少女(えぬ)とみまして、隣の家の少女実際に起きた事件を下敷きにつくられた小説を映画化したモノで、内容としては事故で両親を失った姉妹ふたりが引き取られた先の親戚一家に虐待の対象とされてゆく一部始終を追うスジで、映画をみるかぎりでは引き取られた姉妹はごくふつうの子なんですけど、虐待する側の人数が上回っているがゆえに「いじめられる側も悪い」的な根拠ゼロの妄信が虐待者に蔓延ってゆくありさまがおそろしい。どんな人間であろうと暴力の対象にされるいわれはなく、いじめる側の肩をもつ論理である「いじめられる側も悪い」をまかり通してはならない。一方的に痛めつけられている人間を指して「お前が悪い」というのは家庭内暴力をふるう人間の常套句でもある。おまえが悪いから俺が鉄拳制裁してやっている。暴力にさらされ続ける側が逃げないのは恐怖によって心が竦んでいたり、共依存の状態なのかもしれないが、それは弱さであって「悪」とはいわないはずだ。被害にさらされる側を「悪」と呼ぶことから歯止めのきかない暴力が生まれる。隣の家の少女では自分以外の「女」というものに異常な妬みをもったシングルマザーが司令塔となって姉妹のお姉さんをまだ幼い息子たちに暴行させますが、このいかれたシングルマザー家の隣に住む少年もなりゆきでこの暴行の現場に居させられ、いけないことだとわかっていながらもどうにもできずに悩む。率先して暴行にいそしむ息子たちは性に対する興味も手伝って始終いかれた母親の言うなりなんですけど、おとなりの少年ひとりだけがどうにか暴行させられている少女を助けられないかとアレコレ手を尽くすんですが、その方法が年齢的なことも手伝って非常に拙くて、かくれんぼや鬼ごっこの延長みたいなことしかできないわけです。もっと成長すればどうすべきか判断がつくと思うんですけど、救済に動くべき立場の人が幼い少年ひとりだけという歯がゆさはいかんともしがたい。幼い子供にいきなり「吊られた裸の少女」をみせても、それがどのように危険で、だれになにか言うべきなのか、なにもしなくてもいいものか、なにかするとしてもどの程度すべきか、それとも黙っていたほうがいいものなのかの判断をすることはできない。一般的行動とされている「吊られた裸の少女が暴行されているところを目撃→通報」が即できるのは「社会」を理解したものだけだ。子供だから、幼いからと「ひどい描写のある」読み物を遠ざけることは、ある経験への想像力を遅らせたり欠落させることにほかならず、子供のためにはならないはずだ。ありえない状況へ想像をめぐらせるちからをつけることに害などあろうはずがない。そういう状況下になっておろおろとするしかない人間に成長させることが「その子のため」なのだろうか。ひどい有様をみて「ひどい」と思えるならまだいい。その子にはちゃんと良心が育っている。問題なのはいかれた母親の手先と化した息子たちで、命の手綱を握られている母親に逆らえない(身を守る的な精神状態)というのもあるけれど、女の身体にいろいろしたいという欲望も手伝ってひどい行為を「ひどい」と認識することができないようにされてしまったあたりの無自覚な被害者感が悲惨です。あの子たちはその後の人生でまっとうな価値観を身につけることができたんだろうか。この息子を手下みたいに育てあげた母親は日頃から息子はおろか小学生くらいの少年たちにビールを飲ませまくったり、酒場で男に聞かせるような猥談を聞かせたりと子供相手に暴走族の女ボスみたいなふるまいをしていて、その上で姉妹たちを暴行さすあたり、旦那が女のもとへ走ったとかなのかなーと思いました。あとなんでこのこわいおばさんのとこへ近所のガキが集まってくるかといえばやっぱ「こわいものみたさ」なんだろうな。子供のころだれしもが抱いてたような。「いじめられる側が悪い」論理にもどしますが、いかれたおばさんの息子たちはラストのほうになると姉妹のおねえさんを犯しながら「コイツはブタだからレイプしてもなにも思わない」みたいなふうに言い出してて立派な性犯罪者になっていました。正直いってこういうものを見たり読んだりした子供はすくなくとも「こういうことはしちゃいけない」と感じると思いますよ。ひどいものを「ひどい」と認識できないように育てられること(=家庭環境)が問題なのであって、描いてあるものを客観的に感じさせる読み物が根源悪になるなんてまず考えられない(「読み物=根源悪」が成り立つと創作物がたくさんある国のほうが治安が悪いことになる。たとえ影響されたとしても治安に影響しない程度が真実であって、それがまるで国を崩壊させる危険物かのように誇張して恐怖を煽るのが石原慎太郎やカルト団体といった「民衆を意のままに操りたい」連中)。
追記(3/27)。映画版で唯一の感情移入キャラの子が原作では悪に染まりかかってるふうに描いてある件のせておきます。それ描かないとおとなになった後に苦悶する説得力がねーじゃんなー。

自分の生命を握られている相手からの安心感や愛情を与えられず、受け入れてさえもらえない子供は「自分が悪いんだ」と自己否定を余儀なくされて、そういう状態のままおとなになって自分の子供をもったときに感情や欲望をむきだしにする子供をみて「自分は感情をだすのを禁じられているのにお前は自由に出しやがって!」という思いに駆られて暴力を振るってしまうことがDVの原因にあるそうですが、子供に愛情を与えない母親というのは「自分が愛しい」「自分だけが大事」という自己愛に支配されたままの人な場合が多いんだそうです(上記画像もこの漫画のです)。いまポンニで家庭内暴力が増えてるのってそういう女が多いからじゃないですかね。こういうバカ女をどうにかしないかぎりは暴力にさらされる子供は増え続けるだろうよ。漫画のキャラとかぜんぜん関係ねー。仕事してるように見せかける為に派手な業界ターゲットにしてんじゃねえよ。いまだに虐待死を止められもしない怠慢連中が。

バッドルーテナントは警部補のニコラスケイジが欲望のままに飲む・打つ・買うをやってるうちに自分が犯罪者っぽくなってきたもののある日ツキがきてめでたしめでたし。みたいな話。やけにやる気ありすぎな最近の出演作よりも情けな顔がイキてる役柄でしぜんでよかったです。ヤクのせいで現場にイグアナがみえるとことかすきですし、老人ホームでかよわいおばあさんを暴力で脅しつけるシーンとか今年のだいすきシーンです。ビッチなエヴァメンデスとののしりあいするケイジの継母役の人のガチなカンジとかもすごかった。でもあの終わり方ってちょっと出来過ぎでラリってる風景なのかな?とか思いました。しゃべりかたが常にどっかおかしくて夢見がちなところがケイジにピッタシでした。

ハートロッカーはギリギリ生活になじみすぎてカタギに戻れなくなった男のドキドキドカン映画です。抑圧や支配といった負の側面からしか生み出されないものの代表作。戦争でなにもなくなっちゃったっていうけど、そのかわりにこういうものがたくさん生み出されます。 とりあえず中東の人はこれみてどう思うのかなーと思いました。砂漠での銃撃消耗戦とかリアルすぎる。

いしいももこのは神様ですのでみにいきました。文字主体の展示なのでいちいちよんでくと見終えるまでにすっげー時間かかるよ。