レンピカのポストカードの印刷がやたら暗っぽいのはなんでなの

ヤング@ハートコンサート(28日。文化村)→アーマード武装地帯(バルト9)→シェルター(バルト9)→レンピッカ展(4日。文化村)→アイガー北壁(ヒューマントラストシネマ有楽町)とみまして、レンピッカは人体を曲線でなく1枚ずつの面で構成されているように、描く対象のもつ凹凸をポリゴン風に直線を際立たせて描いた上で鋼鉄の彫像のような金属的な輝きの色合いの塗りかたをすることで、当時の流行であったアールデコの「禁欲(無機)的な直線のもつ非情さとエレガントさ」と「女性の生命力の力強い華やかさ」という一見相反するモノが互いに相乗効果となった作品―メタリックな質感なのによくみると血管が浮いてたりして生々しい―をいくつも生み出した女性画家ですが、1930年代あたりが作品の絶頂期で、1950年以降は落ち目になってったそうですけど、推測ですけど1930年代の風潮や空気みたいなものをレンピカの絵があまりにもとらえすぎていたがゆえに大衆に都合よく「消費」されてしまったんだろうなーとちょっと思った。1発屋の芸人じゃなくてもコント55号とか、実力・才能関係なく、流行りすぎると飽きられる時が必ずくるというか。流行りまっただなかの大衆は個人なんかみてなくて、熱に浮かされたような雰囲気だけをむさぼってるだけなので冷めたら次の熱を求めて前のはポイ捨てするんですよね。レンピカの才能は流行なんか関係なく時代を超えるものですけど、熱を求める大衆に標的にされてしまったが最後、天才だろうがなんだろうが「さんざん持ち上げられてポイ捨て」される運命が待っている。鬱病の関係もあるかもしれないけど1950年代以降にレンピカはかつての光り輝くような強烈なコントラストを全面に出した筆致をやめ、なんか厳しさの欠けた甘っちょろい(極端なコントラストをなくしたがゆえに凡庸な広告イラストちっくになってしまった)タッチに変えていった挙げ句に絶頂期の筆致とは真逆の抽象画なんぞも描いてたらしいんですが、レンピカらしさがぜんぜん発揮しきれてないつまらん絵ばかりでなんか悲しくなってしまったよ…。や…最盛期のような人気を取り戻したかったってわからなくはないけど、あんたみたいな天才がそんな大衆のご機嫌とるみたいなことに労力費やすなよ…縁と浮き世は末を待てってだれか言ってやらなかったのかよ…。まあトシくってからレンピカ流行をしらない若者に再評価されたらしいんですけど、そんときまで絶頂筆致を保っていたほうが断然カッコよかったぜレンピカばあさんよ。ウケようとするあまりにらしくないことをやって右往左往する道化じみた生き様はあんたには似合わない。輝くばかりの力強い筆致の人がどんどん萎えてく様子が絵柄からわかってしまうあたりが落差も手伝ってやたら悲しかった。なにしろ絶頂期である1930年代の女性画の美しさたるや度肝ですよ。印刷物ではまったくとらえきれないコントラストの激しさ。発色の鮮やかさ。油絵は特に絵の具の塗りあとの微妙な凹凸が照明の光りをあびてまるで宝石でもちりばめられているかのようにキラキラ輝くのがなんかすごい。ああいう絵が時代をあらわしていたのだとすれば1930年代ってなんかすげえ時代だったんだなあ。

ヤング@ハートはじいさんばあさんがロックの歌をうたう会です。ちょっと遅れでみました。リンダリンダとか忌野清志郎とかうたってくれましたよ。あとクイーンもうたってたかな。なんか最初なんの歌かわからなかったんですけど、サビでようやくわかった。若い頃からプロ並の腕前をもってた人が中心ぽいです。あと観察してたらはしっこのほうのじいさんが口パクっぽかった。まあじいさんなのでゆるす。ラブソングや傷心の歌で過去をふりかえる内容のを老人がうたうと人生を回顧してるみたいでみょうにリアルでした。あそうそう、周囲にいたおんな客がロックとは無縁そうなオサレな輩ばかりで、へんにノリよすぎなのがブキミだった。

アーマードは警備会社勤務の人たちがかるく仕事のブツを奪ってしらんぷり作戦しようとしてたところ、予定外の出来事によって良心に逆らえなくなった黒人さんがひとりで半旗をひるがえす的な話。つーか…場数ふんだ泥棒でさえもビビるような数十億とかいう高額の仕事に昨日今日の新入りを参加させるゆとり脳がすべての元凶な気がする。ひとりずつ事情聴取された際の口裏あわせすらろくにやってねえし。なんだあのゆるみきった人たち。でかい額をエモノとする犯罪モノで綻びがでるのっていつものメンバー以外の人員が関わる場合が多いよね。さんざんカキましたが、たったひとりの反逆によってものすごいくだらないことに全労力を注がなきゃならなくなるあたりの描写はけっこうすきです。クリフハンガーで飛行機から落っこちた札束入りのスーツケースを捜索しにいってさんざんな目にあう犯罪者とおんなしですな。
瑣末なことが破滅へといえばアイガー北壁はベテラン登山家のふたりが難所である山にのぼることになって、主人公のふたりだけなら確実に登頂できてたっぽいんですが、国からさんざん援助された2人組が足手まといになって全滅してしまった話。なんか実話だそうです。社長から聞いたんですが、チーム登山ではひとりでも負傷者がでた場合は頂上の数メートル手前であろうとかならず引き返すのが暗黙のルールなんだそうです。ひとり登山はまた別だそうですけど、基本的に自分がそういう状態になったら、という発想のもとに人員を見捨てたりしてはいけないものなんだそう。なんか最少人数でまわしてる中小の零細企業でひとり欠けた際の過酷さを思わずにいれませんでしたよハハハ(泣)アイガーではひとつずつの判断が最終的に大きな綻びになってしまう展開でやりきれないかった。尚、ひとり登山の人は社会や人との関わりを嫌うがゆえにへんな性格の人が多いらしい。あといちばんひどい季節に登頂することがのぼり家の人にとって賛辞に値するのだそうで、よく事故があるのはそういう理由からなんすね。ハートロッカーの人とあんまかわらんよな。

シェルターはやつれた顔が板についてきたジュリアンムーア主演のむりのあるホラー映画。ワタシを信じる者は病気になりません!その証拠に私の娘(実はワクチン投与済)は元気でしょう!とかいってお布施ガッポリ稼いだものの病にかかりはじめて嘘に気づいた村人たちがエセ牧師をなぶり殺しにした大昔の事件がはじまりなんですけど、なぶり殺しにした(←その時点で神の教えには背いてるよな)際に呪術師のバアさんがこのエセ牧師の魂に「神を信じない連中の魂を隔離しろ」みたいなよくわからない呪いをかけたことがそもそもの発端で、それ以来神を信じないでいる人の魂を寄せ集めてさまよい歩いてる迷惑きわまりない奴がいて…みたいなスジで、まあ家族が巻き込まれたジュリアンムーアがこまって呪いかけたバアさんとこまでいくんですけど、つーか呪術で商売してる人間が呪いをといたり防いだりできないってどういうこと。よく生きてるなあんた。霊のやりとりしてるくせして「愛する人が死ぬ事は悪い事。でも神を信じないのはもっと悪い」みたいな原理主義者の説伏じみた論理しかもってねーし。劇中で神を信じられなくなった人たちって愛する人を亡くした傷心から神を信じられないでいるんであって、その傷口に塩を塗り込むようなちんけな脅ししかできないくせして神がどうこうとかよく語れるよなあ。神を信じない人に改心する間も与えず苦しみ続けろって呪いを与えることは神の教えに背いてねえのかよ。浅薄な霊論理でできた霊話ってつまんないすね。なんていうか善の論理も悪の論理もトハンパでうすい。50メートルプールの水に小さじ1の塩が実体なのに、派手にかきまぜてなにかすごいものがあるかのようにみせてるふうな映画。あそうそう、あと精神科医のくせに多重人格の存在を全否定してるっていつの時代なんですか。それとバアさんの信じてる「神」が悪魔とすれば説明がつく…ような気もする。どうでもいい。