お芝居は過去を変えられないけど、僕に勇気を与えてくれた

『今レイティング厳しくって、こどもがああいうゲスな映画観られなくなってんだろ?可哀想に。
 精神衛生を守るためにレイティングを厳しくとかさ、なんの意味もないよね。こどもはね、卑しいものとゲスなもの汚らわしいものとズルいものを浴びるほど見て「美味ぇ!んめぇ!」って飯食えるようになることがまともな大人への第一歩なんですよ。それから「ああそうか、そういうことはいけないな」っていう芽生えが来るんですよ。分別の前に混沌があるんです、まず。とんでもない理不尽と蹂躙と強姦があって、それからようやく分別くるんですよ。いきなり分別っていってもそれこそ豚に真珠でね。尻の穴が氷河期になるような酷い暗黒を見て「あぁ……」って思うわけ。
 そもそも大人がクズなんだよ。そりゃ、レイティングってシステムってのは必要だよ。でもね、それを大人がまともに守っちゃいけないんだよ。ゾンビゲームはこどもはやっちゃいけない、それはある。でも「おじさん!」って買いに来たら「ほどほどにしろよ」って売ってやるのが良い大人なんだよ。裏道の歩き方をいくつ知ってるかっていうことが大人の凄さだろ?
 そういう大人がいないから、チビも良いものがわからない。だから葉っぱ隊(草食系男子?)みてーなのが湧いちゃったりするんだろ?葉っぱ隊が増えちゃうと国が滅んじゃうよ。いいんだけど滅んだってね、でも厄介かける奴が増えるのは面倒だよな。自分で自分の始末出来ねぇでよ、やれ電車に飛び込んでみたりとかよ、あの畜生どもはほんとに迷惑この上ねぇったらありゃしねぇよ。
(中略)
 スッキリするかどうか。
 それでいいんだよ。「エクソシスト」、あれはクタクタになるほどスッキリするね。抜いた後みたいな?しかも、ありゃ花びら無限回転だよ。「え?また来たの?もう無理!」みたいなさ。そんでちょっと晴れ晴れとして出てくんだよ。心地のいい虚脱感みたいな。
 小屋の方もそういう目的でプログラムを組んでたんですよ。だから「徳川女刑罰史」とか色々あんじゃん。あんな映画どういうモチベーションで作ってるの?って聞かれてもわかんないだろ?「徳川の拷問の記録をリアルに残すことでこういうことのない世の中にしましょう」なんてバカなことは絶対に考えてないんでね(笑)。要はスッキリするかどうかなんだよ。女がギャーギャー騒いで手足がちぎれたら世の中にはスッキリする人もいるんだよ(笑)、人間の残酷衝動とか、性欲とか暴力衝動とかね。
 人間の暗いB面衝動をスッキリさせるキチンとした役割が映画にはあるんだよ。で、そこには大きな最低条件があるんですよ。それは多人数と暗闇で一緒に観るっていうこと。これなくしては完全なスッキリないの。家でテレビで観るのではダメ。周囲が明るいから、潜在意識がくびきから外れない。暗い中で明滅する光を見てると潜在意識が上がってくる、そうすると暴力衝動とかが沸き上がって来る。その時に自分の衝動と対峙するんだな。しかも、そばには他人がいるから完全な自分勝手にはできない。ここがキモなんだ。他者と同じ暗闇と明滅する光を共有すること。これはある意味、祭りに似ていてね。祭りって周りの人間気にしないで騒ぐだろ。でも、完全な錯乱状態にもならずにうまくストレスの解消ができるあれは他者の気配があるから。これは集団でやるからいいんですよ。だからその澱が一気に昇華される。
(中略)
 実は映画館ってのは非常に大きな学習の場だったの。自分の暴力と性欲とアナーキズムとか破壊衝動とかをブラッシュアップするためのね。自分自身の鞘作りの場だったんだよ。でないと剥き出しになっちゃうんだよ矛が。だから自分も傷つけちゃうし、人も傷つけるんだよ。俺らはそこで鞘を作ってたから鞘に納めてられる。俺の場合は映画作ったり、原稿用紙の上で鞘を抜いちゃうわけよ。でズタズタにする(笑)。普段町中ではやれないからさ。そういうところの場所だったんだよな。
(中略)
 鞘に納めないとどうなるかっていうと、いつも抜き身じゃ辛いでしょ。だから自分で尖りを丸く削ったりするってことを始めちゃうんですよ。そうするとストレスがへんな風に溜まるんですよ。だからおかしくなっちゃう。「人を殴りたい」とか「うまく世の中を転がしてるやつはぶち殺してぇ」とかさ、それはまっとうな意識なんですよ、実は。動物としては当たり前のことだよね。ライオンだって喰う為には殺しにいくし、どっかでまんまと食ってる奴がいて、自分が腹へってたらブン盗りにいくじゃん。ただこれは社会としては成り立たないからよしなさいってだけの話で、個人が個人としてそういう衝動をもっているのはまったく問題がないし、逆に健康的なんですよ。ただそれを無分別にやると社会性がなくなってしまうのでね、だから鞘を作っておかなくちゃいけない。
 鞘を作って、必要な時に抜くのは全然問題ないんですよ。だけど鞘がないと剥き出しになってやっちゃうわけよ。酒が入っただけで殺しちゃったりとか。そうするとだんだんスポイルされていく、そうして自分も嫌だから消そうとする、消せやしないんですよ。歪んじゃうだけ。自分でなまくらにしちゃう。人間が持ってなくちゃいけない生きる力をなまくらにしちゃう。
 そしたら何が生まれるかっていうと怒りしかないんですよ。自分に対しての怒りなんですよ。ただその人たちは自分に対してっていう認識がないので、社会に対しての憎悪になるんですよ。社会っていうのは自分がいなければ存在しないんだよ。だって目ぇ閉じちゃえば社会ってのはないんだからさ。自分への怒りっていうのは変遷していくと社会への怒りになっちゃうんだよ簡単に。つまり自分と社会っていうのは同一体だからさ。
 映画館っていうのはそういう色々な効用があるんだ。例えばそれに変わるもので、理不尽な運動体育会系にいって、「嗚呼!!花の応援団」みたいにガンガン苦しい想いするのも良いよ。けれども、いかんせん映画ほどバラエティにとんだ体験が出来ないんだよ。映画は国の内外を問わず時代を問わず色んなパターンのスッキリの仕方が襲ってくる。そういうことでまんべんなく作れるわけ。ただ単に面白いとか、何かをよく描いてるとかさ、そんなのは作者にとって意味あるだろうけどこっちにしたら何の意味もないからね。「よく描けた」なんて知らないよこっちは(笑)。そんなのお前が好きで描いてるだけだろ?ってさ。客はスッキリしたいんだよ。』

上記『』内はこれのp.61-69からの抜粋で、本日題は町山さん番組でやってたカシムザドリーム中で、過去の経験を演劇にしている元少年兵だった青年談からです。自分や他人の欲求に応えるための鑑賞物を「青少年の育成を阻害するもの」として消し去ったうえ罪人扱いする決めごとを、いかにも正義や善かのように喧伝して儲けようとする子供喰い団体そのお仲間には反吐が出ます。人間ならだれしもに備わっている暗い感情をみないフリしてやりすごすっていいおとなの行動じゃねーだろ。暗い欲求から目を背けてひたすら勉強だけ詰め込んできた親が子供から金属バットで殴り殺されたりしてんのに。「性や憎悪といった暗い感情は見なければいい」みたいな安上がりな発想って、「家庭」や「教育」といった情緒が根幹をなしていて近道なんてないようなシロモノに、平然と効率を持ちこんできた奴らが陥りそうな考えだよな。暗かろうが明るかろうがどの要素にも正面きって向き合えるのが成熟した社会ってもんだろ。それをただなくせ!なくせ!ってどこの未成熟な国なんだよ。ウガンダ元少年兵以下の知能程度ですね。2009年5月5日の朝日新聞21面の「こどもとメディア」ってコーナーが子供のいるご家庭がゲームとどのように接しているかがお題で、読者からの投稿が6つ掲載されてるんですけど、しっかりお子さんが育っているご家庭ではゲームと子供との関係に於いて親御さんがしっかり手綱を握っている旨書かれてまして、三上真一郎さん談に於いては『親がどれだけ真剣に向き合っているか、子どもはわかっている』とのご意見が提示されています。これだけ氾濫するゲームについて「親が真剣に向き合えば問題はない」と当事者から意見がでているあたり、漫画も同じではないのでしょうか。もし子供がひどいものをみていても、親との対話があれば問題はないということなのでは。以上からしひどい内容のものを子供がみちゃうから国がなくせという論理は親の責任放棄に思えます。そしてそれをなんの疑問もなく真に受けてしまう権力者は魔女狩りをはじめる危険のある不健全な心証をしており、民主主義国家に害をなす人たちだと思います。
そもそも「良い」と「悪い」ていう分けかた自体も人間が勝手に定めただけのもので、時代や地域によって意味がぜんぜんちがったりするいいかげんなものなのに、勝手に決めた「悪い」面が多いからって権力者が民衆の嗜好品弾圧を推奨するなんてことが市民にとっていいものなわけないじゃんよ。変わった性癖もって生まれてきた赤ん坊に「お前は禁じられている性癖を持っているから日陰で生きろ。いやなら死ね」っていうのがどこが正義なの?独裁や社会主義と変わらない、異質な存在への弾圧だよ。
型にはまるな、個性だせっていうけど個性だしたら弾圧するじゃん。生きるための手段を奪って型にはまらせようとするじゃん。漫画やゲームを悪に仕立て上げようとしてる人(「自分さえ儲かれば国なんかどうなってもいい」の典型ですね)さ、マジで子供の個性を認める気があるの?真に見たことないものを受け入れる準備があるの?