石原慎太郎と自民公明が若者文化を破壊してる中の絵がありましたよー

漫画弾圧への反対署名withこどもも部外者もできるよ!はじまってます。

    

『もはや統治能力を失った老人が、自分をたしなめた相手に罰を与えるというよりむやみな怒りをぶつけ、その結果、将来ある若い命を奪ってしまう愚―イワン雷帝のこの愚は、今なお繰り返されているのではないのか、というのがレーピンの訴えであった。
(中略)
 レーピンが伝えようとしたのは若者のいたましい死だったはずなのに、強烈なインパクトを持って迫ってくるのは、自らの取り返しのつかない愚行に愕然とする老人の方である。彼の絶望、彼が感じる恐怖の、圧倒的なまでの大きさの方である。』(p.210-211)
 
『ホガースの批判精神は、どの階級に対しても等しく向けられた。(中略)もちろん子どもにも容赦なかった。ホガースの英国魂は、幼いというだけで無垢だの純真だのとは信じないのだ。犬や猫を虐待したり、こっそり大人の指輪を盗んだり、酒に混ぜ物を入れたり、馬車に火をつけたりと、着ている服と同じで大人と変わらぬ悪党ぶりを発揮する子どもたちを、これでもかとばかり描いている。』(p.158)
 
『最後の謎とは何か。どことなく無意識の表面をカリカリひっかかれるような、不快な嫌な感じを伴う怖さはどこから来るのか。
 それはやはり主役ふたりの存在であろう。鑑賞者は誰しも最初に彼らに目が吸い寄せられ、それから周りを順次見まわし、最後にまた彼らのところへもどってくる。何度でももどってくる。なぜなら愛しあうこのふたりは、このように愛しあうのにそぐわない気がするからだ。
 何かがおかしい。
 おかしいはずである。キューピッドは、ヴィーナスとゼウスとの間に生まれた息子なのだ。つまりこのふたりは、愛の女神とその実子なのだ。これは母子像なのだ。しかしそういうことを知らなくとも、神話の知識がなくとも、本来的にアブノーマルを感じさせるところに「愛の寓意」の凄みがあるのではないか。
 愛というものの大きな要素である官能は、人間性を逸脱させることもある―この絵はそう語っている。』(p.65-66)
 
『芸術には毒が含まれていることがあるし、美は善悪を超越し、時に不吉でさえある。作品を道徳的に断罪してもしょうがないのはわかるのだが、にもかかわらずこの絵には猛烈なおぞましさを感じてしまう。コレッジョの色彩表現が自然で美しく、優雅であるだけに、なおいっそう。
 そもそもガニュメデスは一方的な被害者なのか、それともユピテルに愛され、神々に奉仕する身へと出世できたのだから恵まれた人間と呼ぶべきなのか。そこをどう考えるかがあまりに悩ましいため、この神話の多様な解釈が生まれて来たのだろう。そして少年愛を認める流れと、生理的に反発する流れが交互に、あるいは混濁しながら、現代までなだれ込んできている。現代人の多くはこう言うだろう、同性愛は成熟した大人同士が合意の上で行うことだが、少年愛は一方的な搾取である。子どもを大人の性的欲求の対象にしてははならない。たとえ子どもが喜んでいるように見えても。
 ではなぜコマーシャリズムの世界であれほど大っぴらに、子どもたちは疑似大人化され、鑑賞され、消費されているのだろう?例えば美少女コンテストにおける、娼婦なみのどぎつい化粧、過剰にセクシャルなしぐさは、異性を受け入れ可能であるとのデモンストレーションでなくて何だろう?しかもそのようなコンテストに、実の親が我が子を出場させている。子どもが望むのだという。拍手され、欲望の視線を浴び、賞金を得ることを、子ども自身が望むのだという。
 もちろん我々はその欺瞞性に気づいている。なのに我々はあの着飾ったジョン・ベネちゃんが歌い、踊る姿を鑑賞したのではなかったか?酒を注いでまわるガニュメデスの、愛らしい姿に魅せられた天井の神々に。』(p.220-222)
 
『昨今、親の子殺しがマスコミをにぎわしている。ふと思ったのだが、彼らはこのサトゥルヌスの絵を知らないのだろうか。もし一度でもこの絵を見たならば、自らの浅ましい姿をサトゥルヌスに重ねずにはいられないはずだし、ひとつの抑止力にはなるような気がするのだが……。』(p.112)
 
上記『』内はこれのモノです。コレッジョのくだりでは「宣伝や美少女コンテストが悪の根源だ」と言ってるのではなくておまえら全員ガキの色気をよおく知ってるからこそ日常的にそういうことやらせるんだろアァン?てことです。子供店長だってかわいいから人気があんだろ。あれだって形のちがうポルノみたいなもんだよ。ペド嗜好を「一部の変態性癖者」呼ばわりしてるけど、実は人間ならだれしもがその快楽わかってんじゃねえかよ、という意味ですね。ガキの色気を愛でるのは異常でもなんでもない、ごくふつうの嗜好ということが毎日のようにお茶の間で証明されつづけているいっぽう、幼い息子と母親の近親相姦描写をした絵はお咎めなしで、エロ漫画でやると極悪犯罪などという漫画の才能を持った市民への差別的な決めごとをさも正義かのように権力者が振りかざしている昨今ですが、こんな浅知恵でつくられたような、世界史上に名を刻む名画や神話すら差別の対象となりかねない文化精神性の低い劣悪な決めごとを、先進国家の都市が取り入れたうえ市民に強要する?後継である息子を感情のまま撲殺する雷帝と同じひどい愚かさだ。これまでさまざまな芸術家たちが主張してきたことを真っ向から全否定するのって、名だたる思想家や研究者を平然と足蹴にして自分こそが神だとのたまう某カルト教祖とまるで同じメンタリティですね。天才たちをいともたやすくゴミ扱いする輩に市民の幸せを語る権利も玉座につく権利もない。
そもそも統一教会や創価学会といったカルト教ばかりが次々と条例に賛同してくるあたり、類は友を呼ぶということで条例の内容は推して知るべしといったところですね。カルト教ばかり押し寄せるといえば、公明党の母体である創価学会では実力そっちのけで膨大な信者数によって実現される「社会的な成功をさせる約束」をエサに芸能人を釣ってるそうですが、そういった芸能人の方は全員が今回の弾圧条例に諸手をあげて賛同しているのでしょう。子供性癖は諸悪の根源だと叫びながら子供店長の稚気特有の可愛い色気にニヤニヤして過ごしているんですね。わかります。子供性癖は悪ではない。みんながふつうに持ってる感情だ。子供はかわいらしく、愛らしい。人によっては艶かしく感じることもあるだろう。それをあるがままに認められる社会こそが安心して暮らせる社会というものなのではないのか。みんなが日頃感じていることにも関わらず、だれひとり口にだせず、うっかり口にだせば犯罪者になってしまう社会というのは不信や欺瞞が絶えず渦巻いていて、だれもがビクつきながら過ごさねばならない管理社会そのものだ。あたりまえのことを大っぴらに口にできる社会こそが健全というものだ。だれかを弾圧しながら築かれる「平和」はかりそめのものでしかない。ユダヤ人を全滅させようとしていたナチスのように。真に強い社会というのはどんな異質な者も許容でき、共に生きてゆくことのできる、こころのしなやかな豊かさを多くのひとが持った状態の集団のことだと思う。人間のなかのどの部分だろうと等しく大事なように。自分にも備わっているかもしれないある部分を「潰せ」と叫びつづける者が長生きできるだろうか?健康でいられるだろうか?

上記画像は青少年の育成に悪影響を及ぼす児童ポルノ画「漫画文化を喰らい若者を死滅させる自民公明老人図」ですが、この不景気に思想や嗜好を全体主義よろしく縛り上げる自民公明によって極悪犯罪人として弾圧されかねないので作家さんのお名前はふせておきます。ちなみにゴヤのほうは喰ってるほうが泣いてるので今回の場合適切ではないかなと思いました。


ビジツネタついでに月末らへんからやってる展としてこれはなんかおべんきょう的な目的でみてもいいかな…?とかちょっと思ってたり。あとこれ近場だったら確実にイッてましたが…府中…しかも大規模回顧とかなら府中だろうがぜんぜんみにいきますけど、35点とゆうビミョーな出展数にもあまり食指動かず。食指動かず系ではここはなんだろな?あたらしい展示場所は気になるけど展示作に食指動かず。ちょこっと気になってはいる展としてはガレが終了間際なのとミュシャはじまるそうでふーんと思う。こまいぬ史は神社好きとかいぬ好きがイクのかしら。イキたい展が真逆の場所ばっかしなことが多くて予定あわせづらいことこのうえない。