しょうがないオヤジになるまえに

サバイバル・オブ・ザ・デッド(23日。シネマサンシャイン)→ザ・ロード(27日。しね)→アイアンマン2(スカラみゆき座)→クレイジーハート(しね)とみまして、クレイジーハートは早い話がひとりの男の再生譚ですけど、凡百の再生譚が「どん底」と「頂点」の両極的な見せ場だけを描いて済ますのに対して、クレイジーハートでは歌手としての才能を持って生まれた男の「ありふれたいつもの生活風景」をつぶさに追ってゆくつくりになっていて、主人公にとっての日常=平均値を把握した上での「幸福」や「失敗」といった感情的振り幅の大きい人生イベントの持つ重みが深く身にしみて感じさせられる。これの主人公がリストラされた上妻子にも逃げられた雄ネズミで、失意の中から気をもち直して仕事をみつけてまじめに働いたり、変わりものの友達の気まぐれに付き合ったりと、ある程度の年齢になればだれもが経験する人生風景を動物に置き換えて描いてるだけの漫画なんですが、どの話もなんてことない内容なのになぜかすごく面白いんですよね。くりーくんの場合は大抵1話完結で、名作絵本の王道である「冒頭に問題がでてくる→結末でその問題が解決されてメデタシ」という不安から安心に至るまでの道程構造で貫かれていて、それに加えて日々の生活での詳細な光景—お金がないので家のドアを手作りしたり、別れた妻の家にいる娘に会いにいったり—といった「1歩踏み出す」前と後にだれもが抱くあたりまえの感情も過不足なく描かれている。あたりまえのくりかえしのつまらない日常、とは言うものの、実際には「不安→安心」構造が日々の生活のなかにたくさん発生していて、その多くの「不安」をどれだけ「安心」に変えられたかどうかで大きな波=人生イベントが発生するかどうかも決まっていくように思う。あたりまえの日常がつまらなく感じるのは、発生している「不安」から目をそらしていつまでたっても「安心」に変えようとしないからではないのか。くりーくんもクレイジーハートも日々たえまなく発生する「不安」に向き合って「安心」に変えようと真摯にがんばるナイスガイを描いています。クレイジーハートではいい大人が「不安」から目をそらしてごまかしながらやり過ごしてると病気になって死ぬぞっていうこともちゃんと描いてます。肉体的に衰えてきてまだテキトーやってると体が保ちませんからね。あとクレイジーハートは歌手を生業にしてるヒトが日々どのように稼いで過ごしてるかがものすごくよくわかる点でブコウスキー映画がよぎりましたよ。有名な歌手とかだと半ば神格化されてるせいで卑近なリアル生活事情は描写上スルーされるものですけど、クレイジーハートでは架空のキャラってことも手伝って地方のドサ廻りしてる歌手がどういう生理状態なのかが手に取るように把握できてしまいます。いかな才能があろうとも日々発生する不安から逃げ続けてると落ちぶれてしまうという。クレイジーハートの主人公は女性記者と結婚寸前にまでなるんですが、ある事件を境に女性記者のほうが冷めてしまうんですけど、あの事件がってことじゃなくほかにもいろんな要素があって結婚はできねえって思ったんだと思う。まあ酒場に子供を同伴さすのはどう考えてもNGですけど。自分の子ならまだしも彼女の子だし。なにしろクレイジーハートは「大人」であることの良さをしみじみと感じられるあたたかな作品ですよ。真におとなになる時ってヒトによって違うんだろな。年齢関係ないっぽい。

ザ・ロードは人類がほぼ死滅し、地球のシステムも枯れてしまった(氷河期寸前といった雰囲気。木が倒れるので土が死んでるっぽい)死の世界でかろうじて生き残った父子が安住の地を求めて地上をさまよう絶望の物語。滅びの世界になった直後に生を受けた息子は豊かだった頃の世界をまったくしらないので、父であるヴィゴモーテンセンが「善」であるとはどういうことかを教えながら進んでゆく。この滅びの世界での善とは「人を食べない」ことになる。どんなに飢えても人間は食べない者こそが善。道中で武器を携えた凶悪な一味に遭遇することが何度もあり、彼らはすべて人を食糧とする者。仲間以外の人間を喰い、食用の人間を地下に幽閉していたりと生きるために鬼畜となった者。ヴィゴ父が日々みっちり善になれー善になれーとか教え込んでるせいか、息子さんは道中で会った老人になにかと優しくしようとしたり、はじめてのむコーラをがぶ飲みしたりせずヴィゴ父にすぐ分けたりするんですけど、餓えってそんな甘っちょろいもんかな?なんか原作自体が「生きることのメタファー」的に書かれたそうなんで息子さんが善の体現というアレだからしかたないんでしょうけど、飢餓の描写がぜんぜん甘っちょろいカンジでそこがものたりなかった。手足が枯れた枝みたいに細くて腹だけ膨らんだ裸のアフリカの子とか、そこまでいかずとも戦後すぐの米兵の車にたかってチョコねだってたガキどもとかさ。善とか以前に腹はおさまらないと思うんだが。メタファー優先したがゆえにリアリティ演出が薄くなっちゃってなんかガッカリ。飢えた子があんなほっぺたふっくらしてないだろ。極限状態での善ていう設定のわりにせめぎあう情動が薄いっつーか。砂糖のはいった飲み物を生まれてはじめてのんだっつーのに、その容れ物を邪険に蹴りつけたりするか?おいらなら大事にとっとくぞ。とっといてあの甘さをもういちど味わいたいがゆえにベロベロなめるぞ。後半のほうで息子さんが宝物として大切にしてるものとかでてくるじゃん。コーラの缶はあんなかに入ってるべきだろ。なんか「食べる」ことに対する考えが浅すぎて納得いかないことこのうえない。さんざんカキましたがチョイ役で出るガイピアースの化けっぷりに戦慄した。今作のルンペンとLAコンフィデンシャルのエリート刑事が同一人物だと思えない。あとひどい状況下を味わいたくないがゆえに自殺するっつーのは「ひとりだけ助かろうとする」ことと同義で卑怯者だよなあと思った。自分と他人に対する責任放棄だし。まあヴィゴがなんか2回も裸になるのでそれ目当ての方はマストです。サイモンヤムとおなじ性癖なのかヴィゴ。

アイアンマン2は冒頭のAC/DCのShoot to Thrillをバックミュージックにズキューンて舞台に降り立ってねーちゃんたちがラインダンスかますまでで100点だった。ところでエンディングのHighway to Hellがブライアンジョンソンの声に聞こえなかったんですが。カバー?とか思った。

ロメロ映画は娯楽度が薄くなっちゃった点が残念。「人間はどうしようもないwithゾンビ進化するかも」つー主張はわかるけど一般客を楽しませる気はなくなっちゃったんだろうか。