生物多様性を掲げていながら自分たちの性を否定してちゃ世話ないよ

『  ゲーテ「おかしな評論家もいたものでね。連中ときたら(ヴィルヘルムマイスターの)主人公が悪い社会に出入りしすぎだとこの作品を非難したのさ。しかし私は悪い社会というものは よい社会についていうべきことを伝えるためのひとつの手段としているのだ」
エッカーマン「もし先生がよい社会を いわゆるよい社会を通して描いていたらどうなったのでしょう」
   ゲーテ「きっと誰もこの本(ヴィルムヘルムマイスター)を読んでくれなかっただろうね」』(ゲーテとの対話 (まんがで読破) p.82-83)

真綿で首を絞めるような「善意のファシズム」が日本を覆っていて息苦しい。その「善意」を推進するためなら邪魔する者(反論)を駆逐することをも善とする暴力性を孕んでるからだ。そのテの方々は「暴力」と名のつくすべてを否定するばかりで正視しようとしないから、自分が暴力に染まってるかどうか判別がつかない。殺しはいけないとクチでは言いながら殺してまわっているようなものだ。ひとくちに暴力と言っても、地域や状況によってさまざまに使われる意味は違ってくるのだから、具体的かつ限定的な禁じかたをするのが現実的なのに、暴力全否定の人は内容を精査することなく「暴力はなんであれいけない」と暴力と名のつくものから目を逸らすことを是として問題と向き合わずに逃げ回っているも同然の姿勢でいる。「禁じたものから目を逸らす=善」が基本姿勢なので、映画や漫画といった子供が目にする鑑賞物に描写されることなど言語道断だ。ならば読み物や現実世界で暴力をまのあたりにしてしまった子供は「失格者」として追放すべきなのか?ちがう。凄惨な暴力を目にして不安になっている子供に必要なのは、その暴力を凌ぐ道徳観と安心だ。なぜいけないのか、みてしまったらどうすればいいのか。問題にぶちあたったときの対処やヒントを教えるのが良き大人の役割であって、「自分の望むとおりに動かないことに対する排除」はもはや教育ではなく都合よく操るコントロールでしかない。前者には愛情が根底にあるけれど、後者は欲望の押しつけでしかない。どちらが子供を守ることになるだろうか?むろん問題への対処だ。欲望の押しつけは個の否定=虐待なので子供を守ることにはならず、むしろ害になる。暴力が描かれたものを鑑賞することはその暴力をどうすればいいのか考える機会となり、つねに道徳を考えざるをえなくなるので子供の思考を育てるにはもってこいのものだ。その暴力をまねたらどうするんだ、というなら、まねしてはいけないことを教えていない大人に責任はないのか。子供が納得できるような贖罪の説明をきちんとしたのか。逆に暴力が描かれた鑑賞物をまったくみていない子供は暴力から派生した様々な問題について考えることがなく、対処のしかたすら大人と話し合わないで過ごしてしまう。実際に直面したときにどうしたらいいのかわかっているのと、まったくわからないこと。どちらが「教育」なのか。問題から目を逸らして逃げ回る論理の最たるモノとして、石原慎太郎が自民公明をバックにエロ漫画弾圧を掲げていて今年も9月はじめに都条例に盛り込む気マンマンらしいですが、漫画弾圧中の国より性犯罪が減ってるにも関わらずさも増えてしまうような物言いをして鑑賞物をなくそうとするのって、ちょっと前まで新聞やテレビが殺人犯した奴は漫画やゲームの愛好家だ!漫画ゲームを規制しよう!(参照)て報道をしてましたけどそれは「殺人犯したアル中の家の冷蔵庫に酒があった!酒は規制しよう!」てのと同じ目逸らし論理そのもので超アホまるだしですな。
民度がいちばん低いのはてめえだろ石原慎太郎
エロ漫画弾圧を掲げてる人たちは同時に「古き良き価値観の復権」を掲げてもいますけど、仮にその古き良き価値観が風紀の乱れをいっぺんで正すほどの効果をもってるというのなら、巷にどんな読み物が出回っても市民の道徳観は決して揺るがないだろう。ならばエロ鑑賞物の弾圧などしなくてもいいはずだ。自民公明のお偉方がそんなにも古き良き価値観がよいというのなら、まず先にその教育を施せばよかろう。エロ漫画のことはそのあとに考えればいいことだ。順番が逆だ。性に関する道徳的教育がされていないのに、なぜ先に学びとなる鑑賞物を消し去ることが善とされねばならない?それはつまり映画や漫画で描かれるような問題に対処できない程度の脆弱な精神が自民公明のいう「古き良き価値観」ということなのだろうか。それ以前にあまたある性癖を「悪」とすることが果たして文化民度が高いといえるのか。異質な民族文化をアメリカの生活に染め上げることは「文化的」なのだろうか?それは他者の否定でしかない。文化とは他者を理解するためのものだ。文化を推進するならば、まず他者のありようを認めなければならない。