虚像を押しつける人は相手を所有物だと思ってんだろな。

 

 

 
       

ちょっと前に買った漫画で身近にいる動物(愛玩動物)について描いた作品が3つあって、そのうちのこれの作風について違和感を感じた。それ以外の2つ(これこれ)はこれと同じく偏愛する生き物の可愛らしい面も暴力性も同じ質量で描いていて、対象の生き物の持つすべてを分け隔てなく愛でてるんだなーというのが伝わってくるんですけど、某文鳥漫画に関してはなんかその…部外者からみて「(一般的にいう)かわいい」所作しか描かれていなくて(これで作風がリアルタッチならまだ緩和されると思うんですけど、ものすごいデフォルメしたキャラクター商品系タッチだからよけいにそう感じる)微妙に動物愛護原理主義的な「愛」臭が感じられて気色悪かった。その気色悪さが濃縮されてるのが「しろちゃん」が死んでしまったエピソードの内のp.116-117の場面で「たった3日で戻るから、と思い」実家に帰省して2日後にしろちゃんが死んでしまうんですけど、文鳥をいかに溺愛してるのかをこれでもかこれでもかと描いていながら「ちいさな生き物にとっての2〜3日」がどれだけ大きな時間なのかを想像できてないっつーのはなんか…この人のいう「文鳥への愛」は彼らのありのままを認めるものじゃなく、自分が心地いいと思う虚像を押し付けてるだけのひどく身勝手なモノなのでは…?と思わずにいれなかった。しろちゃんが死んでしまった件は作者さんもとても後悔してるでしょうし、そういう失態は2度としないとは思うんですけど、なんか文鳥が好きだ好きだと声高に叫ぶわりに彼らの立場になって考えたことがないというかさ…。「ブンちゃん」が逃げちゃった件もさ、ブンちゃんからしたら作者さんともう暮らしたくなくて逃げたかもしれないじゃん。ドーブツがなに考えてるかなんて人間がわかるわけないけど、でも作者さんがいかに悲しんだかばっかり描かれると読んでるこっちとしては興ざめなんだよねえ。自分以外の他者に悲しみを伝えるときって、出来事を羅列するだけでいいんだよね。作者が目から汁タレ流してるとこを繰り返しみせられてもウゼエだけで悲しくもなんともないよ。なので「しろちゃん」の死骸を前にしてでっかく描かれた作者の泣き顔のキモいことキモいこと。文鳥よりも「文鳥が死んで悲しむ自分」や「文鳥を溺愛する自分」がなによりも大事でしかたない、みたいな雰囲気が濃縮されててオエエエエって感じだった。作者さんはなんか漫画家じゃなく似顔絵界で名を成してる方みたい(巻末の作者紹介で賞歴羅列すんのってどーなの。履歴書じゃあるまいし)なんで、漫画的な表現についてあまり知らないっぽいからしょうがないのかもしれないけどさ…。とりあえず漫画という「語り」は作者の思想が全面にでてしまうものだということはしっておいたほうが吉に思います。動物にも子供にも「勝手な虚像」を押し付けることは愛でもなんでもありません。動物や子供をネタにしたオナニーです。子供や動物に「可愛らしさ」だけ求めてそれ以外の自分が不快に思う部分を「悪いこと」とか決めつけるのって精神的な虐待にしか思えんよ。すべてを愛せないくせになぜ愛だのなんだの叫んでんだよ。
 
上記画像は東條さんのインコ様々からです。彼女はとりのなんこさんとほぼ同じ冷徹な観察者の視点と愛情のふたつが備わってるから信用できる。その下の画像は不忍池の囲いに貼ってあるもんですが、冬のたのしみの鴨のえさやりができないことにぜんぜん納得がいかん。食いもんがいっぱいある春〜秋のエサやりを禁じるならまだしも冬場のエサやり禁じるってなに。せっかく遠方からお越しいただいた渡り鳥は飢え死にするにまかせろってことなんすか。注意書きにはエサやりしちゃいけない理由として「鴨が太りすぎて野良猫のえじきになるから」とか書いてあったけど、そんなら野良猫も太らせればよくね。デブ同士でドタドタしてればいいよ。そう思って近所の711でかったバタースコッチをちぎって鴨の口にじかに放り込んでたらちいさい男の子に冷たい目でみられた。みつめかえしたらうつむいてた。トリ自身は食い物もらいたさにあの池にきてるかもしれんのになにが「ここは鳥が休む場所です」だよ。勝手なこと書いてんじゃないよ。