権利とか平等って概念てあの時代にもうあったんだっけ?

GAMER(15日。みゆき座)→マクナイーマ(17日。イメージフォーラム)→ゴダールソシアリズム(19日。しね)→インセプション(真文芸坐)→冬の小鳥(武蔵野館)→白いリボン(武蔵野館)→キックアス(23日。シネセゾン)→バーレスク(26日。渋谷東急)→トロンレガシー(渋谷TOEI)→ロビンフッド(渋東シネタワー)とみまして、白いリボンはナチ出現直前のドイツのある小さな村での話なんですが、はっきりとは描かれないんですけど、子供たちほぼ全員が村の大人たちを見下してるんですね。すこし理解者っぽい大人にすらビタ1文本音を漏らさない(=決意がゆるがない)ところからして、大人に対して相当の不信感を抱いてる。子供が大人の前で常にですます調でしか話をしない自体が不自然きわまりない不穏すぎな光景。この村の、特に子供のいる家庭ではひどく厳格な躾を施すことが大前提になっていて、その躾から外れたことをした子供は酷い罰を与えられるんですが、そうやってキツイお灸をすえる大人たち自身はというと地獄の悪鬼のような爛れた内面をしていて、まるでその悪行を覆い隠すためにキツい道徳を説いてるような雰囲気さえ感じられるほど。相手の内面を無視して表面的な躾だけ強いているせいで、躾の本質じゃなく「汚い部分が見えなければいい=きれいに見えさえすればいいのだ」とばかりに本音を隠して接する(他人を信じない)=他者をないがしろにすることが子供にまで美徳かのように浸透してしまっている。「ひどい罰」をこうむる可能性のある場では生物的本能から「罰を受けないための最短ルート」を選択してしまうんですな。それがこの村では「怒りを覆い隠して天使のようにふるまう」ことで、腐った大人たちに辟易して子供たちは陰でひそかに鬱屈を爆発させてるようなんですが、そんなことはおくびにも出さず「汚れのない子供」のように賛美歌を従順に歌い上げる。人間の本質から目を逸らす社会は腐り落ちてゆくよ。子供に本質から目を逸らさせるための都条例を可決して正義ヅラしてる石原慎太郎をはじめとした自民公明、それに同調した民主の都議、あんたら全員この村の大人たちだよ。漫画を子供から取り上げることが美徳とか本気で思ってるバカどもにはパルムドールとった傑作がまったく理解できないでしょうけどね。頭が悪すぎて。こんな連中が権力握ってるなんて恥の極みです。
ソシャーリズムはほとんどが監視カメラ的な画質の荒い映像で構成されてて、じゃあその監視カメラはだれがみてるの?て話なんですかね。たびたびうとうとしたしさっぱりわからないんですけど、とりあえず戦争犯罪者だか政治犯だかとその子供が落ち着き先がなくて世界中をウロウロしつづけるカンジの話…だったような気がする。若い娘さんが旅人から道聞かれた時に読んでる本から顔もあげずに「侵略ならよそでやって」て冷たく言い放つとこがかっこよかった。冒頭の「海」が金の隠喩で、人間を満載した船がたえまなくその海に揺すられてるありさまがまま人間社会の脆弱さをあらわしてる…のか?しりません。パンフみるとセリフや場面が全部なにかの引用だったり含みがあったりするみたいなんで、そうゆう知識人的謎解きがおすきな方むけやも。この監督さんの作品て年代色が濃いんですかね?夫人とかがみるとスッとなじんで簡単に入り込めるみたいなんですよね。その感覚がおいらには欠落してることだけはよくわかる。とりあえず観客に全力で挑戦してるんだなあとは思いました。客をバカにしてない。こういう作品感覚を貫いてることがすごい。あの途中に大写しになる文字とか、日本語だとエヴァンゲリオンの漢字が大写しになるのと同じようなアレかしら。この作品はむしろ萌えアニメ絵にしてしまったほうが日本の若者には理解されやすいんじゃね?とか思ったりもしました。
バーレスクは給料もろくにもらえないド田舎の飲み屋を飛び出した娘さんが、勤め先探しでみつけた場末の娯楽バーできらびやかなショーに魅せられて以来恋に踊りに奮闘する的なお気楽映画。この娘さん役がアギレラさんつーリアルで歌手の方なので、そこらへんが実は隠れた才能をかくしもっていて…!みたいな展開につながる道具立てになってるんですが、このアギレラさんの歌いっぷりが力強く張り上げる系の歌いかたなもんで「男を翻弄する強い女」的な歌詞のうたにはピッタシなんですけど、恋心を歌い上げるようなしっとり系のバラード歌わすとどーも年上の古女房がイキんでるみたいなふうで情緒に欠けるつーか艶がないっつーか。その決定的にたりない部分を娯楽バーの女主人役のシェールつーおばさんが担ってるからいいのか。パンフチラ見したらなんか日本のバーレスクショーの人の文がのってた。古くは日劇のレビュー(しらん)とかなのかな。

ロビンフッドはジョン王さんがかませ犬すぎてかわいそすぎる。グラディエーターエリザベス女王の夫婦とかちょっと最強すぎるだろ。そもそもジョン王さんの兄貴のリチャード王も名君とか言われてるわりに人も金もムダにした十字軍遠征やった時点でなんかおかしいし、その遠征でカネなくなったからってお国への帰途でじゃああちこち襲ってまわればいいじゃない!て発想になるのもなあ。そうやって襲ってる最中にリチャード王がサクッと戦死したんで、弓の使い手として働いてたロビンフッドも王の軍隊からこっそり離脱(王からの問いに対して「十字軍遠征って間違いだらけじゃね?」てクソ正直に答えたら磔にされたんで忠誠心はないに等しい)するんですが、離隊直後に所属してたリチャード王側の兵士の一群が襲われてるとこに遭遇して、とりあえず襲ってる奴ら(フランス側の間諜)を追っ払ってから虫の息のイギリス兵に事情聞いて、死んだリチャード王の王冠を城まで届けること、そのイギリス兵の携えていた剣を故郷まで届けることを義侠心から誓うロビンフッドと仲間3人。で、王冠のほうは無事届けることに成功するんですが、その王冠を継いで王座に就いたのがリチャード王の弟のジョン王さんで「カネがないなら奪えばいいじゃない」的なDQN発想に輪をかけた「俺様は王なんだからてめーら貢げ!貧しくて貢げないだ?じゃあ死ねよ」的な暴政をするもんで市民をどんどん敵にまわしてゆくわけです。で、そのジョン王さんを操ってるのがイギリス征服を眈々と狙うフランスの間諜で、イギリスがフランスから狙われてる真っ最中だとゆーのに国民全員を虐げまくって内乱勃発させまくるアホ一直線なジョン王さん。いっぽうロビンフッド一行は死に際に立ち会った兵士の剣を故郷へ届けるべくある村にたどりつき、ロビンは死んだ兵士の父親から自分の出自について聞かされる。ロビンの父さん(パンフの有光さんの説明が面白かった。石工がなぜ頭がよかったのかが今さらわかった)は市民の自由を得ようと闘った立派なヒトで、ロビンもまたなりゆきも起因して権力者と戦うことになるんですが、その前に襲ってくるフランスを追っ払わなきゃならないもんで市民を団結さしてジョン王さん側についてグラディエーターばりの戦闘をくりひろげるわけです。そこで獅子奮迅の戦いをしたもんで市民や兵士たちはロビンに賛辞をおくりまくる。立場のないジョン王さん(リチャード王が死んだときも思ったけど、ふつう大将って戦んときは陣地の奥にいるもんじゃね?なんか2人共「俺も殺っちゃうもんねー!」みたいに軽々しく前線出ちゃうとこがチンピラ脳すぎる)はイギリスを守るために戦ったロビンフッドを罪人に仕立て上げ、ロビンは仲間たちと森で暮らすようになると。クライマックスのフランス軍との戦闘シーンはなんとなく300をやりたかったのかな?と思わないでもない雰囲気ではあった。特にロビンが黒幕に矢を狙い定めるところは300でレオニダスの放った槍を報いてやりたい思いだったのかなーと思った。だれかリドリースコットに300みてどう思ったか聞いてこいよ。あと蜂蜜酒つくってる修道士のヒトの造形がなんかリアルだった。実像しらないけどきっとあんなんだろうと思わせられた。パンフで滝本さんがリドリースコット映画は嫉妬が軸になって世界をゆるがす旨かいてた(今回の評は濃密かつノリがいいぜ!好きな映画とそうでない映画のときの温度差が歴然な)けど鋭いな。決して混ざり合うことのない「持つ者と持たざる者」が対峙する緊張感から派生するエロスのヒトですからね。

 
ほかのについては冬休みかくはずだ。