まるで新たな世界に踏み入ったようだった

カンディンスキー青騎士展(21日。三菱一号館)→完全なる報復(23日。みゆき座)→デッドクリフ(シネパトす)とみまして、かんじんスキーさんはなんか抽象画のヒトとして有名だそうですが、描きはじめた頃は誰にでもわかる風景画なんかを描いてたんですけど、じわじわと筆致が抽象表現へと変貌してったらしい。その過程がよくわかる展示体制になってるところもすごくよかった。初期に描いてた風景画はなんか指で塗ったくったかのように(実際には絵用ナイフだったらしい)たっぷりした量の絵の具を力強くヌリっと押し付けた的な技法で描いてるんで、ひと塗りの質量が重たくてまるで物と物を組み合わせた立体コラージュのような質感なんですよね。なんつーかモコモコぺんしるつーか小さい子が溶けたチョコレートを壁に塗ったくった的な感覚で。ひとつひとつの塗りつけた絵の具がキャンバスに押し付けられて盛りあがった形のまま固まってて、その縁が照明があたってキラキラ光るんですよ。その上でひと塗りひと塗りの各色が強烈に主張していて、描かれた世界が色であふれてるようにみえる。よく知らないけど油絵とかってまったく違う色を融合させるように描くことで濃淡とかをだすもんだと思うんですけど、かんじんスキーさんはそれでは「色」に対して満足できないらしくて「ひと塗り1色」原則をどんどん突き詰めていく方向になってったもよう。初期の風景画の際には色の境界線がなくて隣同士の色が融合してるありきたりな筆致でそれとわかる風景を描いてるんですけど、だんだんとドット画じみた筆致(隣り合った色が融合せずに境界線があってひと塗りひと塗りがそれぞれ独立してるカンジ。版画タッチのはビリビンぽい)になってって、使ってる色がどれも鮮やかな配色なもんで絵ヅラ的にはどれもカラフルでかわいらしい雰囲気の絵ばかりなんですけど、それも突き詰めてった結果「家ひとつが黄色だけ」「山ひとつが青だけ」みたいなテキトー大胆な筆致になって、配色が大胆になるに従って物の形も「線で囲っただけの木っぽいもの」的なのになった(このへんまでの絵はちょっと離れた所からみるとかなりまともな風景画です)挙げ句、1909年後半を境に色も形も形を成してないなにか(でも相変わらずカラフル)がドバーンと展開されてくとゆう。サイケともまた違うんですけど、色の洪水な感じで。抽象表現になるとそれまで独立させて描いてた「色」を融解させてんのね。抽象画って「何を表現してるか」を読み取ろうとしてもさっぱりわからんのだよな。まあ描き手がすきなように描きたくったもんで意味なんかないんだろうけどさ。抽象画を理解しようとしてなにひとつわからないとき「他人というのはかくも理解不能な異質なものなのか」と思って戦慄するよ。そういえば夫人がかんじんスキーの絵がわりとスキらしいんですけど、理由きいたら「どう受け取ってもいいから」てことを言ってて、抽象画ってのは「私のことをどう受け取ってもいいですよ」ていう自由さを提示しているモノなのかなあとちょっと思った。なんか夫人て傲慢な人や物を異常に嫌うんですよね。彼女が強烈だからなあ。もどしますが、かんじんスキーさんの抽象画へのめざめの過程が門外漢にもなんとなくわかる展示がよくて、なんかアルツハイマーにかかった画家が病の進行に合わせて描いていった自画像を思い出したりした。かんじんスキーさんはべつにアルツでもなんでもないけど、なんかそのわからないタッチに変遷してく過程がなんとも似てるっつうか。ドラッグやった画家が描いた自画像てのもあったけど、わりと物の形とか意識的に描けてるんだよな。かんじんスキーさんの抽象画のがぜんぜんラリってるぜ。なぜだろう。展示では手塗りみたいな質感の灰色の額も絵を引き立ててよかった。あの質感を選べるとこもすごいなあ。あの絵を硬質なもので囲んだらやわらかさに障っただろうしな。この展やってる三菱一号館てとこもはじめていったけどものすごい重厚感ですね!!格式ってこのことか!て心のなかでシャウトした。三菱一号館の重厚さに比べたら森美術館とかいなかもんだっていうのがわかった。床とか壁とか黒っぽい板が敷き詰められててさ、ヒールで歩くとすごい音がすんの。おいらいったとき女性客がわりといたんだけど、みんなヒールなもんだから馬が何頭も歩ってるみたいだった。背後でカッポカッポ音がすると「馬がきた」て思った。展示室がいちいち離れてて、三菱一号館内を縦横無尽に歩かされる仕掛けもなんか面白かった。格式たんのうした。みやげコーナーのポストカードも1枚100円でおトクだし。すごい客の身になって見世物してくれてる。見習いたまえ!!>ポスカ1枚250円で売るいなかもん!!
この前の美の巨人たちで、北アフリカの色鮮やかさを盛り込んだ絵がその時代の画家たちの心を鷲掴みにして鮮やかな色使いの印象派が生み出されてった件やってましたけど、かんじんスキーさんの色鮮やかな風景画をみて納得。世界は色にあふれている感動を思い出させようとしたのかな。本日題はこの回でやってたマチスが絵の世界に入ったときの文句です。うろおぼえだけどあんなふうなことだった。と思う。
 
完全なる報復は妻子を強盗に目前で惨殺されたのに、弁護士が勝手に司法取引して犯人が数年の懲役でまぬがれてしまったことを機に復讐の鬼になってしまう男の話ですけど、このジェラルドバトラー演じる男がいくつも特許持ってる発明家で資産はスゲーあるし政府の隠密仕事のようなことも請け負ってる人なんですが、つーかそんな財力と知力が湯水のようにあんなら司法制度くらい変えられるんじゃねーの?まあ天才は狂気の面も凡人より強烈らしいから家族殺されたショックからブチ切れちゃって復讐殺人に邁進しちゃったのかもしんないけどさ。前半でせっかく身を挺して黒人弁護士に司法制度の穴を体現してみせるのに、その後にやることといえばむごたらしい殺しばかりなんだよなあ。交換条件にちょっと豪華な生活用品ばかり要求してたけど、いつ司法制度改正を条件にだすのかなーともどかしく思ってたら題まんまな結末が訪れてむつかしい問題が一気に霧散するし。あのラストでこの作品が民放でダラ見するため以外の何者でもない作品になっちまった。どうせ作り事なんだから現実ではありえない方法をどんどんやって司法制度の欠点を根底から変えちゃうようなことをみせつけてほしかったなあ。主人公格の黒人弁護士さんも、バトラーの要求をのまなかったことが原因で何人も死んでるのにぜんっぜん反省してないふうなのもどうなのかと思った。交渉に応じなかったあんたの責任はねーのかよ・・て何回も思った。なにしろこの映画は「社会制度の難点を指摘してくるようなマンドクサい輩にはさっさと消えてもらって家族サービスしてましょうね」てことを主張してんですかね。きわどいネタ盛り込んでるくせして正面から扱う気なんかさらさらねえのな。せっかくのいいネタが玉なしの監督にだめにされた。とりあえず作品傾向としては「飛び抜けた才能持ちが凡人の仕組みを嘲笑する」系でこの作品の主人公もそうでしたけど、社会のシステムつーのは「ちょっと頭のいい凡人が努力して作ったもの」なので、その人からうんとかけ離れた宇宙人レベルの天才からすると屁でもない仕組みにみえるらしくて、その仕組みのなかでうまくやることなど朝飯前なのだ、というアレ。今作は架空の話だけどジムキャリの詐欺ホモ映画の人は実在の方ですし。なんかどっちの天才も社会システムを変えようとはせず、ひたすら目先の欲望優先するんだな。その宇宙人的な頭脳を駆使して凡人の作った悪い仕組みをいいほうへ変えてくれりゃいいのに。そうならないからこそ天才なのかな。よくわからん。
デッドクリフはなんかかるい気持ちで山登りにきた若者たちが奥地で暮らしてた狩人に狙われるフレンチ話。襲撃されてる中にも仲間内で見捨てたり見捨てられたりと内輪もめがたびたび発生します。ラストで「バルカン半島では3000人が行方不明」とかテロップ出たからえっコレ実話がベース…?とか思った。入り口の人はちがうって言ってた。