「キチガイが何を欲して何を忌避するか」に各時代色が現れてるかどうか調べた人はいねーの?

『ジャーナリズムが呪文のようにとなえる「客観性」というものをハンターは鼻くそみたいに思っていたに違いない。客観性も公平性もそこになかった。ただ己の心情を、取材対象、対象者の懐深く潜りこみながら吐き出した。まるで若いロックンローラーがその怒りを体制にむかって吠えるように。生の声はそこに時代に対しての客観性を生み出した。だからこそアメリカという国が、その価値観が刻々と変化し続けた時代を克明に描くことができたのだ。(中略)ハンターはジャーナリズムの世界が生んだ初のロックスターだった。生き方だけでなく、実際にそういったスター達との交流も盛んなある種のセレブリティとなった。そしてそこに落とし穴があった。名声に溺れ、いつしか誰もが期待するハンターというキャラクターを演じることとなった。酒とドラッグ。創作活動にも支障をきたすことになり、やがて全く書けなくなった。怒れる若者の心情を歌ったロックスターが歳をとり、名声と金を手にしたことで何に反抗すればいいのか自分を見失うように、ハンターも次第にその取材対象を見失い、その切れ味を失っていった。何より問題だったのが、裏方であるはずのルポを書くジャーナリストが、顔を知られたことでその匿名性が吹っ飛んだことだ。無名のジャーナリストとして取材対象に近づき、ナイフのような切れ味の文でばったばったと全てを一刀両断してきたその手法は、自らが取材対象者よりも有名になることで失われ、むしろハンター自身が他の者達にとっての格好の取材対象となってしまった。
 後に残ったのはかつての名声の上に行きていくという人生。彼はそれを受け入れたかにみえた。かつての焼き回しのようなコラムと、彼を慕い集まるセレブリティとの交流を続けながら、80年代から2000年代までを生き抜いた。そしてかつてから公言していたように、自らの頭をショットガンで打ち抜くことで最後までハンターというキャラクターを演じ切ってみせた。』(GONZOパンフの野村順市さん文より抜粋)

GONZO(20日。シネマート新宿)→ザ・タウン(新宿ミラノ)→MAD探偵(K’s cinema)→イップマン 序章(新宿武蔵野館)→小学生映画日記 原画展(22日。alternative cafe)で、ゴンゾはハンターSトンプソンさんの生涯をチラなめするドキュメンタリーですが、名が知れてヤク漬けっぱなしで暴言吐くようになったらへんの有様みてたらなんか野坂昭如とか赤塚不二夫とか思い出した。3人の本とかろくに読んでもいないけどなんとなく。自宅に焼酎サーバー設置済だった赤塚不二夫もテレビ番組出演時には必ず赤ら顔だった野坂昭如も、写真でみたけど若い頃って文学青年ちっくな線の細い美男子なんだよね。ハンタートンプソンさんもしらふ(なのか?)時の顔つきみると繊細な文学青年的雰囲気の風貌なんだよな。単なるおいらの偏見だろうけどさ。背こそ高いけど図太い感じはぜんぜんしないんだよ。優しい物静かなかんじで。テレビで赤ら顔の野坂昭如みたとき、なんか恥ずかしいんだろなーと思った。さらしもんにされてヘラヘラしてる自分が恥ずかしくてしょうがなくて、でも人がいいからつい安請け合いしちゃってどうにもならなくなって酒やヤクでやりすごしてるっつーか。ハンタートンプソンさんが暴言吐いてるとことか、言い方こそ乱暴なんだけど心の底から怒って言ってるふうにはみえないんだよな。暴言吐き中の目が死んでるかんじで。義務で吐いてる的雰囲気がしてならなかった。ハンタートンプソンさんとは関係ないけどこの件(どうぞ)よんでから物書きとしての「最善」てなんなのかなーとちょっと考えたりした。上記で抜粋した『ジャーナリズムが呪文のようにとなえる「客観性」』て要するに書き手の意見はいっさい書かず目にした出来事だけを羅列する=いっさいの感想は読み手にまかす、てことなんだろうけど、事実羅列描写中に書き手の感想が差し挟まれてもそれが事実羅列文よりも面白くて客寄せになればそっちのが最善の手法ってことになるよね。そもそも視界中から書く対象を選びとる時点で各人の特色に触れる=「他者の意識」フィルターを通すもんには完全な客観性なんてないに等しいようにも思うし、書き手の感想そのものにもリアルタイムの風潮がもろに反映されてるような気もする。世捨て人でないかぎりは時代の雰囲気にだれもが染められてるし。芸能人からちびっこまで。特にそれは神経症とかの心を病んだヒトの言動にも顕著になってるような気もする。自分への極端な執着をもつヒトってなんか「社会的な(上っ面の)成功・幸福」を妄想の軸に置いてることが多いっぽいつーか。そこから外れたら死ぬ・呪われる的に。つーわけで「客観的・主観的」の違いで内容の良し悪しは簡単には決めれんような。あーでもどんなカキかたでもより多く客寄せできたほうを「良し」としてたらカタルシス煽りのプロパガンダにいっちゃうか。それがいちばん読み手にとって気持ちのいいアレだもんな。リンク先のは報道とは無関係の作家さん日記であってカキかたルールなんざないようなもんだけどさー漫画なり小説なりでも身内ネタを扱う際「身内がこんなことをした」的な事実羅列に重きを置いていれば「家族についての作品」なんだけど、事実に対する書き手の感想提示量が増えてくにつれ「家族についての作品」じゃなくて「書き手についての作品」になるよね。後者は気をつけないと「他者叩き(=自分擁護)」を羅列しがちになるように思う。文カキに快楽を見いだしてる人ほど文を書く上で不快に感じる物事は排除していく。不快な思いをしてまで自分の落ち度を公にぶちまける必要はない。書き手だけじゃなく、おそらくだれもが多かれ少なかれ自分の落ち度に日々目をつむり続けてる。口を閉ざしたところでわだかまりは心にのこったまま、それをどうすべきか?自分じゃなく、自分以外の誰かが悪いと書けばいい。自分は「いい人」であってそこから外れてはならない。書くときにはあるのは不快ではなく快楽でなければならない。自分、自分、自分。そこに他者への思いやりはない。おおまかには事実羅列のみで満足する書き手は相手に感想をゆだねる点で読み手と対等であろうとするのに対して、事実羅列より自分感想を多くしないと気が済まない書き手は読み手のもつであろう感想をコントロールしようとする支配的性質つーかんじか。後者を身内に抱えてしまった方は御愁傷様です。この件については決定的に考えたりてないかんじがするんでこのへんにしとく。
ハンタートンプソンさんに関しては不良的キャラだったと同時にすごく強固な理想を抱いてたヒトだったのかなーと思いました。でなきゃ政変でいちいち落ち込んだりしないし。外側にみえたけど実はゴリゴリの内側だった、とか。わからん。他人の目を気にするあまりキチガイにもなれない凡人のタレごとです。

『「人間は表面ではひとつの人格でも、裏にはいろんな顔を持っているはず。世間的には心の優しい人でも、脳のどこかにはヒステリックな部分があったり、悪事を働こうと思ったり、どこかで復讐心があったりする。その潜在意識みたいなものを、多重人格者のキャラクターとして表現してみた。常に怖がっている人格、女性のように優しい人格、やたらと暴力的な人格など、それがいつ、どのタイミングで出てくるのかが、わからない。それがこの作品の面白さだといえるね」』

上記『』内はMAD探偵パンフのトーさんインタビューから抜粋したモノ。人間のもつ心根が人格としてみえてしまう能力をもった元刑事が、現職の若手刑事に乞われて失踪した刑事を探す捜査に協力する話。たいていはひとりにつき1人格がふつうらしくて、たとえばおっさん刑事の別人格が口うるさいおばさんで、おっさん刑事が外づらではにこやかな社交辞令言ってても心のなかではおばさんが罵詈雑言を吐いたりしてるっつー。人格透視能力をもつ主人公からすると態度のでかいおばさんが大声で怒鳴り散らしてるよこでヒトビトがなにごともなく過ごしてるふうな画ヅラが日常風景。主人公が関わることになった刑事失踪事件は刑事本人の所在がわからないのに当人の銃が使われて繰り返されてる強盗事件が絡んでて、とりあえずその失踪した刑事といっしょに仕事してた刑事の様子を伺ってみたら人格が何人もいる奴で…という展開。車に乗っても他人格も全員乗ってる的な画ヅラが連発するんで慣れないとなんかわかりづらいですし、人格透視能力をもつ主人公もいちいち常軌を逸してる系の行動するんでよけいに混乱してくる。件の7人くらい人格もってる刑事が便所で小便してるとき、なぜか美人女の人格になってて、画ヅラがスカートもちあげて立ったままおしっこ放ってんの。それだけならまだしも横の便器で小便しはじめた主人公が放尿したまま体ごと横向いて、女性人格の足にびちゃびちゃ尿を浴びせたりすんのよ。あれは…挑発してるにしろ小学校低学年的な性衝動のあらわしかたですね。直後にノされちゃうし。人格中には美人女のほかに暴力的な屈強男だの狡いチンピラだのラムシュだのいて、ラムシュの時はとても大食いです。ラムシュ人格の隠された部分をよもうとしてか主人公がラムシュのくってたメシを何回も何回も繰り返して平らげるとことかもあります。兎に角主人公がムチャで捜査対象の人の内面にがむしゃらに入り込もうとするし、人格なのか妄想なのかわからない「妻」に始終話しかけてて能力なのかリアル病気なのか判別がつかないとゆう込み入った事情がありすぎて話自体もなんだかわからんくなってくる。あと主人公が恩人に対して耳を切ってプレゼントする場面があって、それはパンフに書いてたんですけどなんか特別に奇異なことをしなければ表せないほど深い情からなされたことなんですって。相手がよろこぶかどうかはおかまいなしなんだな。パンフではゴッホにも触れてたけど、ゴッホが耳切ったことの背景をよくしらんのでにんともかんとも。そんな熱い気概でやったもんなんでしたっけ?ぜんたい「内側に淫しすぎて病んじゃう」あたりはなんとなしにハンタートンプソンさんに似通ってるふうな気もしてくる。
イップマン序章は詠春拳の達人であるイップマンさんが日中戦争が原因で裕福な身から食うに困る貧乏生活に転落してなりゆき上から日本軍の軍人たちを畳の上で痛めつける話。イップマンさんは裕福なころからなぜか乞われても決して弟子をとろうとせず、貧しくなってさえ拳法で食うことをなかなか了承しないんですけど、あれはどういうこだわりがあってのことなんでしょうね?まあその頑なさがあるからこそ後の綿花工場の行員全員に詠春拳の稽古をつける決心をする展開のカタルシスもうまれるものですけど。安賃金労働中の行員たち全員にああやってクンフーをマスターさして中国共産党を倒さしてしまえばいいのに。行員に詠春拳の稽古をつける展開の前にイップマンさんは食うために肉体労働をしはじめるんですけど、そこへ暇をもてあました日本軍の軍人がやってきて拳法の使い手を駆り集めてゆく。空手の使い手である日本軍人と戦って買ったら米をやるという余興のために集められてて、勝つと一応米はもらえるんですけど、そこの師団の長(池内博之)の部下の機嫌を損ねると即射殺されることもあるとゆうルールがあってないような状況。あのキツネ顔の部下の鬼畜っぷりったらない。そのキツネ顔の部下がつねに付き従ってるのが池内博之で、このヒトは勝負事には正々堂々を重視する性質で一見話がわかるかんじではあるんですけど、それも「俺様はだれにも負けない」精神を基底とした傲慢人間の思い上がりから派生したどっしりさなので善に肩入れすることなどないわるものです。で、空手の使い手軍人と一戦まじえて中国人側が勝ったにも関わらず無惨な仕打ちをされる所を目の当たりにしてとさかにきたイップマンが空手軍人10人との試合で手加減なしで軍人たちを完膚なきまでにノしてしまい、それをみた池内博之は空手家としての血が沸きイップマンを探し始める。イップマンを求めて各地で暴力をふるう池内の配下たち。なにしろ池内博之は傲慢な軍人役やると色気があってピッタシですという結論。トーさん作品でいつも変態的な悪者やってなぜか裸になり始めるサイモンヤムがまじめ一徹経営者なのは(腐女子的にとても)惜しかった。合ってたけど。あんだけお色気男優そろってるのに…!まあイップマンさんの映画ですからこれ以上わがまま言いません。ただ名残惜しいだけだ。やっぱキャラ立ちした正義側を使う話では悪もしぜんとイイですね!
ザ・タウンは強盗が横行する街で生きる強盗稼業しか選択肢のない男たちの明日はどっちだ話。強盗が横行してるわりにアメリカ映画でよくみる凶悪なツラの黒人ギャングたちが行き交ってる汚れた街的な描写がなくて、一見しずかで整った街みたいな雰囲気のなかで証拠も残すことなく手慣れた仕事っぷりで銀行のカネを奪いさってゆく青年たち。この強盗稼業をやってる青年たちも非行に走って特別荒れてるということとかは全然なくて、ちょっとした手違いでこの稼業をやりだしてしまった感。完全に向こうの側の世界の人間になってたらたぶんなかったはずなんですけど、ハンパにふつうなので被害者女性が「排除すべき邪魔者」ではなく「異性との出会い」になってしまった的な展開があります。非情な世界にふつうの感覚は命とりというアレ。生活に対してテンパってるやつほど仕事でも終始ビクついて余計なバカやっちゃうところとか、アバズレちゃんが街でたがってるとことか、そのアバズレちゃんに近づくFBIの話術とかはなにげなくリアルだった気もする。ヒートっぽい地味な画ヅラの映画だった。
小学生映画日記原画展では幼稚園〜小3くらいの子供たちが映画みて印象にのこったとこを書きなぐった絵が飾ってあります。スターウォーズのは女の子はアミダラとかの華やかなキャラを描きがちなのに対して、男の子はもっぱらメカやロボットを中心に描いていました。でも主催のdoyさんの娘さんはわりと男らしい描き方だった。doyさんとはすこしお話しましたが、たいへん参考になる件を聞かせていただきました。定年退職後の客層と同じくチビッコ客層が激しくよろこぶ定番展開がちゃんとあるという。マーリーさんが満点つけてるのはその欲求に忠実に作った映画なのでしぜんに男らしい。