悪魔のいけにえ好きなんだねー

小谷元彦展 幽体の知覚(26日。森美術館)→サンゲリア(27日。ヒューマントラストシネマ渋谷)→シリアスマンアンチクライスト(シアターN)で、小谷元彦のは人間が人間以外の生き物を欲望どうりに変形させる有様を字ヅラどうりに立体化したようなSFちっくな作品もいいですけど、個人的に骨のコーナーがツボった。地球上の生きるもの、地球そのものが変わらずに繰り返す営み、生きるものは目覚め、食べ、排泄し、眠り、陽が昇り、沈み、星と月が現れる―あるいは生まれては死に、また生まれる。はじまりもおわりも知れぬその「くりかえし」を表すとすれば、すこしずつ違った形状の骨がある法則に従って連なるつくりをしたニューボーンが相応しいだろう。形も定まらないほどのほんのちいさな骨片からはじまったかすかな連なりは、反復をくりかえすうちにだんだんと慣れてきて、ふてぶてしく体躯を押し広げてゆく。思うさまくりかえしが続き、頑健な羅列となったある日、もうそれほど押し広げる必要がないように思えてきて、それと同時に体躯もわずかに縮みはじめる。かつての威勢よさすら鬱陶しく思え、いっそこのまま眠ってしまいたい…そう思ったとき、かつての目にもみえないような小さな骨片とまったく同じ姿にたどりつき、ひとつの反復が終わる。そしてその反復は無二の形状をのこす。あとに残された「反復」の全体像は、遠目からみれば特定の生物の骨格にみえるだろう。だが、この生物には頭がない。どこへ向かうでもない、その場でひそやかにある反復がなされた証のみがのこる。骨格を形づくる骨はひとつとして同じ形状はなく、なのになぜか生真面目に反復した痕跡だけをのこし、全体像をみれば記憶の片隅にある生物のような姿をなしている。反復された骨組に肉や内臓をつけても現実では生きることはできない。時間の足元ではいかな肉も朽ち果てる。想像上でだけ生きるもの。ウロボロスの骨。生き物だけでなく星までがたえまなく続ける「繰り返し」を実際に形にしてみるとかなりグロいという真実。骨系作品ではほかにイグジステンスにでてくるみたいな獣の歯だけでつくった銃とかかっこよかったですし、基本的にヒト型(能面)のすました外面をひっぺがして筋組織や骨をむきだしにしてやる的な作風なのがなかなかよかったです。木像彫刻の説明で、現行の日本美術界は彫刻といえば西洋の手法を最上として評価してるけど、西洋彫刻流入以前からあった自国の木像彫刻をなぜ最上とできないの?借り物の価値観で偉ぶってるってどういうことなの?との旨かいてあって昔ながらの抜刀を片手に持った騎馬中の野武士の筋組織がむきだしにされた木像彫刻がふてぶてしく展示されてましたけど、これは西洋のまっちろな裸の彫刻とかかるくなます斬りにできると思った。木像彫刻では衣服の模様がまま体に刻み込まれたような女性像もありましたが、実は被服はもとにあった不都合な部分をかなり取り除いている、という事実をだれもが忘れ去ったかのように思っていることを思い起こさせる的な作品もすこしあって、たとえば狼の毛皮でつくったドレスは両肩に狼の頭がついているものですし(本来的にそれこそがあるがままの姿。取り去らなければ着れないのは自分たちの残虐さから目を逸らしたいため)、完全人毛製のドレスはドーブツの皮製の製品をよろこんで持ち歩いてるんだったら人毛の製品でもだいじょぶなんでしょ。えっだめなの?なんで?ねえなんで?ドーブツだったら気色悪くないけどヒトだと気色悪いのー?みたいな話ですし、はじめにだした人間の欲望で自然をねじまげる的なのは生まれたての子鹿の足に矯正ギプス的な機械がはめこまれてたり、百合の花が鉄製サックとピアノ線でガチガチに緊縛されてたりとネイチャーボンテージな風味でわかりやすい。あとぐるり囲んだ滝映像が上下の鏡張りで上に下にのびていくふうなのを体感するアトラクション型作品もよかったですわ。時間も空間もなく動きながら止まってる、ああいうのが地獄なんだろなとしみじみ思う。ところで床も天井も鏡張りなんでスカート女子はスカートの内側が皆様にばっちりみえてしまいます。おいらの隣にいたスカート女子はいたたまれなくなったらしくてはじっこいってた。いっそスカート女子だけ集めてパンチラ地獄にしてしまえばいいと思った。それか全裸の男ばかり押し込んで玉金地獄にするか。いろんな地獄ができます。地獄といえば板で仕切られた骸骨がぐるぐるまわりながらつくる水流で頭の上からまた血液らしきモノが注入されてる作品もなかなかよかった。骸骨の回転でおこる竜巻の根元の細い部分がきれいだった。あとは木製の前進拷問器具とか妖精がいたらこんなカンジだろうなーという白い草で出来たような彫刻群とかなかなか。何度もカキますが反復のさまをまま形としてあらわすだけで異世界が立ち上がるというあたりがツボでした。そういえば体毛表皮を拡大して鉄素材かなんかでレリーフにしたみたいな作品は「頭がないままどこまでも続く反復」そのもので。人間は頭を切り落として同じことをひたすら繰り返す手法を文明と呼んでるんですな。頭を切り落とすといえば機能欲求を追い求めすぎて人間を楽器化する的な雰囲気ふんぷんの手にはめるバイオリンみたいのもあった。欲求が暴走しすぎて頭(道徳)をなくした人間は動植物だけでは飽き足らず、欲求の矛先を自らの肉体変容へと向かわせる。
アンチクライストはセックス中に子供が窓から落ちたことを悔やむあまりに精神の均衡を崩した妻を治療するため、セラピストの夫が病んだ妻を伴って妻がもっとも怖れるという森の小屋へと向かった顛末を描くものですけど、なんか子供が窓から落ちるってときに奥さんは夫の肩越しにそれに気づいてたんですけど、おそらく絶頂を得る寸前で、息子を助けにいくとその絶頂が得られなくなってしまうので息子を助けにいかなかった=子供の命よりも目前の欲望を優先した自分が許せないというか、キリスト教的には悪魔そのものということになってしまった。あとはっきりとは描かれないんですけど子供が生きてるときに奥さんが陰湿な虐待をくりかえしてたらしく、どうやら子供に愛を感じなくなっていた?ような雰囲気で、セックス中に子供よりも自分の性欲を優先したのも「子供を大事に思えなくなった」的な作用がだいぶ働いてのことなのかなと思った。その子供に対する愛の薄れが今にはじまったことじゃなくてもうだいぶ前からだったっぽい描写なんですよね。「子供を愛せない」「性欲優先」という2重の意味でキリスト教に背きまくってる。それは意図的にそうふるまってるんじゃなく、奥さんがごく自然な欲求に従ってのことで、だからこそ自然は悪魔の教会だとつぶやくのかなと思った。自然にふるまったらキリスト教に背いてしまった。それならば自分は悪魔なのだ。でも、奥さんは「子供を愛せない」「性欲優先」という自分の本性についてセラピストの夫にまったく打明けない。その根源を知らされない夫は、ただひたすら妻を「治療」しようとする。妻は深く愛する子供を失った悲しみにくれているだけなのだ、と能天気に思い込んだまま。早い段階で奥さんが「本性について苦しんでいる」ということを夫に対して正直に打明けていたならまた別の救いも見出されたような気がするんですけど、打ち明けはしない。なぜか?口頭で伝える程度に「魔物」や「悪魔」といわれても、夫は真には理解できないだろう。そんなものは思い込みだ、まやかしだと切り捨てるだけだろう。実際に魔の正体を目の当たりにさせなければ。タイトルはおおまかには奥さんが子供を愛せない事と欲望優先の件を指してるんだろうけど、個人的には真実を「告白」しないことを象徴してるようにも思う。クライマックスで奥さんはリアルに発症(してないと個人的には思う)したのかなんかで残虐なふるまいをはじめますけど、わたしが魔物でもお前は愛せるのか、と夫に問いかけているようにみえた。でも、夫は魔物を愛さない。夫が愛したのは「子供への愛情深い妻」だった。キリストに付き従うごとく生をまっとうする女。キリストに従わない妻はいらない。奥さんはキリスト者に生まれ変わろうと自分の魔物を罰する。夫といたいがため。だが、本性をあらわにした妻を目の当たりにした夫は恐怖に駆られ、魔物を駆逐せずにいられない。キリスト者は非キリスト者を排除することでしか理解できない。願わくば、奥さんがキリスト者の手の及ばぬ世界へ放たれんことを…。奥さんを診るセラピストが夫以外の非キリスト者であれば、もっと早い段階で告白もできて回復したかもしれない。しかし夫は自ら妻の治療をかってでた。妻を幻影でしか愛せず、キリスト者の考える「治癒」こそが最善なのだと思い込んだまま。継母や継父が妻や夫の連れ子を虐待する話は大昔からありますが、それは動物的な情緒(動物の世界では自分の種を残すための子殺しはごくあたりまえ)に従ってしまった結果であって、人間にならなくちゃだめなんです。人間になるにはその獣の部分が自分にあることをまず告白しなければならない。自省し、救いを乞うことは人間にしかできない知性であって、人間に生まれた以上は人間にならねばらない。自分は動物ではなく、人間なのだと確認しなけりゃならない。人間の子供は獣でなくヒトになるべく育てなければならない。獣の部分から目をそらし、見つければ魔物や悪魔だと糾弾する世界ではいつまでたっても人間になれない半獣人だらけだろう。自分は獣ではないと言い続けているのだから、人間への1歩すら踏み出すことがままならない。獣であることを認め、目を逸らさないこと。獣をどう愛し、どう同居するか…?アンチクライストでは「キリスト者は獣を排除するしかできない」とはっきり提示してて、すごい勇気があるなあと思いました。キリスト教圏でやるのはたいした度胸だ。ヒーホ52頁に『"神に逆らう者は 追う者もないのに逃げる"(箴言第二十八章一節「聖書 新共同訳」より)』てのがでてましたけど、奥さんは夫といっしょにいたいがため(キリスト者の教えに沿う形で)逃げずに魔物としての本性をみせる決意をしたのに、夫は魔物に耐えられず、逃げ出してしまう(自分の都合でだれかを消し去ることは逃げにほかならない)。魔物を消し去るとはいえ、相手はれっきとした人間だ。人間を殺害すればキリスト者が神に逆らったことになる。しかし、キリスト者にとって魔物は殺しても罪にはならない。キリスト者以外の「魔物」との共存を許さない、という精神病理にも似た理念の残虐さは、奥さんのもつ魔の性質とどう違うというのか。異質な他者の存在を許さぬ荒んだ考えをもっているかぎり、何人であろうと楽園にたどりつくことはできないだろう。何者も駆逐したりされたりしないのが楽園であって、駆逐を教えに組み込んでいるキリスト者は永遠に楽園にたどりつくことができない。余談ですけど、キリスト教の創世話にあるアダムとエバの件てさ、楽園でリンゴをとってくったことで「他者のおいしさ」を覚えて以来その美味さを得たいという欲望が出てきてアレコレとって喰いだした=喰うための知恵がついてって楽園追放になったってことなんでしょうけど、リンゴが発端になったってことは菜食主義って善でもなんでもねーよな。要するに自分以外の他者を喰らうことに動物も植物もないってことだよね。なんで菜食主義の連中って「植物くうのは善」とか勝手に決めてるんだろうね?
アンチクライストにもどしますけど、ラストはなんか奥さんの妄想目線な世界観ですが、あれは奥さんがみてる夢なのか、それとも夫が発症しちゃったのかどっちなんでしょうか。ちょっとおそろしい終わり方だと思った。そういえばエンドクレジットにタル子フスキーに捧げるとか出てたけど、ストーカー?ノスタルジアサクリファイス(みてない)?どれなの?タル子フスキー視点のアンチクライスト評求む>どなたか!!
シリアスマンはザマス眼鏡が流行ってたころのアメリカのユダヤ人家庭のクソ真面目な数学教師であるお父さんに次々と人生の難題がふりかかってきて、涙目ですがりついたラビ(坊さんぽい人)にわからん話を聞かされてはたらいまわしにされてよけい疲れる話。あのラビってなんか業界維持のために客たらいまわしにしてんじゃねーの?相談料時給1万円とかねーわ。でたらめ占い師と同レベルじゃん。難題つーか奥さんがある日突然浮気相手を連れてきて「ちょっと出てってくれる?アナタのためだから。ねっ。」とか意味不明の命令をしてきたり(お父さんおとなしく従っちゃう)、息子が勝手にレコードの年契約をしでかしたり同居中の親戚が毎朝トイレ占領してイボの膿をだしてたり、受け持った韓国人生徒がカネで成績を買おうとしてきたり(コイツの親が買収に応じないことの抗議にきたんでお父さんが「あんたの国じゃ成績を金で買うのかッ!」て怒鳴ったら「そうだ」て即答してわろた)隣の体育会系の強面オヤジが土地の境界線の件で微妙に嫌がらせしてきたり息子を学校やすませて狩りに連れてったりとか、まあカキだすとささいなことにも思えるんですけど、主人公のお父さんはいまいち気弱でおろおろしては涙目になるばかり。で、ラビ(ユダヤの坊さん)に相談にいくんですけど、オチもろくにないような意味不明なダベリを聞かされてんのにそれでも怒らずなんとなく解決した気になったりして、でも解決してないからどんどん偉いラビ(ユダヤ坊主)を紹介されては相談してくんですけど、階層があがるごとに頭おかしいとしか思えない話をしてくるわ、たよりになりそうと思ったら突然発作で死ぬわで色々わからなくなっていく。そもそも悩み事のすべては決断して方向をキビキビ決めてくしかないモノですけど、なんだかこのお父さんは起こることすべてキッパリ決断を下せずにおろおろそわそわして涙目になってく。まあ結果的にはそれがよかったふうにもなるんですけど。なんか…すごくおもしろかった。この映画。ちょっとカフカっぽい芳醇さがある。つーかお父さんは離婚問題にしろほぼ全部で有利な立場にいるんだからちょっと頭働かせれば悩むこともないだろうに、おろおろぐったり言われるがままになって、でもそれでまるくおさまることになるのが普通だとファンタジーにみえちゃうけど、今作ではなんかちょっとリアルなかんじもする。夫婦って長年連れ添うとちょっとあんなかんじなんじゃないか。あと親戚のおっちゃんが夜抜け出してプールで下着姿のまま泣くところは今年度の名シーンだった。胸がしめつけられた。ドラマってあれのことだ。
サンゲリアはゾンビものを一般人にもとっつきやすくわかりやすいふうに描いてるとこがなんか新鮮だし好感。ゾンビの造形(腐って虫がわいて崩れてる)もさることながら立ち姿の風情(ミイラ的な「蘇った死者」であることを確認させられる)や喰らってるところ(4ゾンビが囲んで放心したように喰らってるとこよかった)、突然でるシーン(海中で鮫を襲う!)、ぜんぶ新しい。女性のヌードがたびたびはさまれるのもとてもよかった。あの船のオーナーの奥さんが海中撮影いくときのトップレス&ボンテージ風の黒革ベルト+ヒモ水着(うしろを向いてアッと驚くあの仕掛け!ちょっとお笑い芸人の手法っぽい!)のエロ演出コンボはサラッとこなしてるところがすばらしすぎる。そうはできないよ。あの道具立てでエロさをあますところなく映せるっていうの。ともすればクドくなっちゃう。噂の目玉にとがった木が刺さる描写もリアルすぎてうわああと思いました。こう白目がブリュ〜て引きずられて潰れて穴があくシーン。あれは歴史にのこる。