石原慎太郎の息子たちも従順げなのばっかしな

トゥルーグリット(27日。シネリーブル)→ザ・ファイター(池袋東急)→コリン(ヒューマントラストシネマ渋谷)→ファンタスティックMr.FOX(シネスイッチ銀座)。ザ・ファイターは血縁者たちの過剰な干渉が原因で負け続きのボクサーが、彼女ができたことを境に一念発起して血縁者と距離を置いて、ボクサーとしてだんだん復活してゆくさまを描いた実話がもとになったらしい物語。おいらがこの映画の世話係だったら確実に亀田兄弟と和泉元彌に宣伝文句をもらうね。どっちも親によって育てられたと同時に蝕まれた子供だし。亀田の父さんも元彌の母さんも当初は子供を大切に思う愛情の気持ちでもって指導していたのだと思うけれど、指導の必要がないところにまで踏み込んでしまった。子供自身の意志決定を尊重することは子供の自立につながる大事な成長要素なんだけど、子供のほうは子供とは呼べない年齢にまで育っているというのに、当人の意志が尊重されることはなく、幼いころと同じように親がでしゃばり続けて子供の関わるすべてを決めていってしまう。そういった親をもつ子らはどういうわけか、どの人も優しく控えめな性質をしているようにみえる。おとなしく従順にしていることこそがそのような親のもとで生きながらえる術なのだといわんばかりに。反抗すれば殺されるのだと叩き込まれ続けた人間が型破りな性質になどなろうはずもない。支配者が「異質」としたものは潰される。成人後に抑圧的な生活を強いられる場合は反抗心がふつうに生まれると思うんですけど、幼少期からずっとそういう生活だと「恐ろしい親に従順にしたがう事=親から愛される事」という勘違いが芯に染み付いてしまうんじゃないかな…。幼い時分て庇護者である親の愛が生命と直結していて、それが得られないと即生命の危機につながるみたいに感じる時期があるんよね。そういう頃からずっと「愛されたいがゆえに従順な兵士で居続ける」精神状態がつづいてると思うとおとなしい性質になってもしかたないよな…。ザ・ファイターでは負け続きのボクサー(マークウォルバーグ)に過剰に干渉してくるのが実の母と異父姉妹(5〜6人いる)に加えてかつてボクサーだった兄(クリスチャンベール)がウォルバーグの指導を担当してて、その兄がなんかヤク中な上ケチな犯罪くりかえして数度ほど刑務所にブチこまれてる有様。やっとム所からでてきてもスパーリングにはたびたび遅れるわ、それだけならまだしもウォルバーグの本番試合にすらヤクに夢中で顔出し損なうような自堕落っぷり。母さんは母さんでマネージャー業やってんですけど、いつももらってくる対戦相手が「(うちの息子が)ぜったい勝てる弱っちい相手」ばっかしのファイトマネーほしさむきだしな対戦相手選びで、過保護を通り越して学芸会で自分の子にむりやり主役をあてがわす怪物親のような風情。たとえ愛情が根底にあろうとああなってしまうと自分の子に売春させて稼いでる鬼畜外道の親にみえる。その鬼畜母の取り巻き的なのが異父姉妹たちで、なんだか母親の下僕的な役回りしてるヒトたちなんですけど、ウォルバーグが母親に逆らうような言動するとみんなしてギャーギャー騒ぎだすし、それが新しくできた彼女の入れ知恵とみるや全員でおしかけていって脅し文句浴びせたりつかみ合いの喧嘩しかけたりと始末におえない。パンチドランク・ラブでもアダムサンドラーの家族になぜかやたら女が多くて、身近に集まってきてガヤガヤやりだすと耐えきれなくなったサンドラーがちからまかせにガラスぶち破るシーンがありましたけど、そうやって発散できるならまだしもマークウォルバーグはなんか気性がやさしいらしくて、発散どころか反論すらろくにしないような状態のままずっと過ごしてきたような雰囲気。あんなふうに家族ひとりの側に手下みたいのがウジャウジャいたらまともに反論もできないだろうね。いやだねえ。で、結局ウォルバーグは新しくできた彼女の意見とか他方面のジムからの誘いとかも勘案してちょっと過干渉家族から離れる決意をする。当然モメるんですけど、負け続けてるのは事実なんで新しいジムに世話になることになってようやく試合で勝ちはじめるわけですが、ある試合で新しいトレーナーの指導じゃなく、兄であるクリスチャンベールの入れ知恵で勝利を手にしてしまい…みたいな展開。新しく所属したジムはウォルバーグというボクサーにとって家族が問題になってることをよくわかってて、契約するにあたって「家族とは手を切る」ことが重要事項になってるんですが、ウォルバーグは切り離さないんですね。切り離さずに距離を置いてほしいと告げる。ただ「良い」関係でいてほしいと。子供のほうはとっくに自立しているのに、親のほうが子に依存してるということに気づいてない。「互いに自立した関係」とは切り捨てることでも依存しすぎることでもどちらでもない、という事実にたどりつくまでのすべての子供が必ず直面する戦いを描いた映画でもある。先にだした和泉元彌に関しては、欲の皮が突っ張った女親がひっかきまわしたせいでまともな交渉ができなくなってしまった感があるのが悲惨だ。ザ・ファイターの母さんも一家の家計をぜんぶウォルバーグの肩におっかぶせてるふうなとこがなにげにひどいし。家計を維持しなきゃならない+でも息子は大事にしたい、という一心でああいうヒドい仕事ばっかとってくるようになっちまったんだろうけど。クリスチャンベール扮するヤク中兄貴は自分の過去の勝利がまがいものであることを気に病んで自堕落になってしまってたんだろうか。嬉しいはずのウォルバーグの試合に遅れたりするのも、弟がボクサーとしてうまくやるところを本当は見たくないから、とか。わからない。
通り魔的な殺人者がでるたんびになぜかテレビ新聞なんかは犯人は暴力ゲームを愛好していて…とか部屋にはエロ本があって…みたいな「アル中の家に酒があった」報道をさもそれが原因かのように毎度タレ流すけど、無差別殺人をおこすヒトの多くはおそらく親との確執が原因だよね。そんなのあたりまえすぎて視聴者喰いつかせられないって?あたりまえのことでも喰いつかすようにさすのが報道の人間の仕事なんじゃないのかねえ。そもそも真の原因をださずに原因でもなんでもない物をさも原因かのように喧伝する事が社会全体にとって善きモノとは到底思えないけどな。真に原因究明しようとしたり、同じような事件がおこらないようにさせようとはみじんも思ってなくて、場当たり的に儲けて終わりにさすことしか考えてないのがまるだしだよね。魔女狩りでメシを食うって人として最悪なんだが。人間の根幹をなす「家族との関係」を甘くみてんじゃねえよ。
トゥルーグリットは牧場主であるお父さんを殺したケチなチンピラを追うために老いた賞金稼ぎを雇って仇討ちにむかう少女の話。この少女が小学校あがりたてくらいの年齢なんですが、仇討ちにお金がかかるとみるやソッコーで馬商(だっけ)まで赴いて、死んだ父親が取引した商談をネタに脅したりすかしたりして馬商から巧みにでかい額のカネをむしりとったりする。きっと牧場主だったお父さんから商売の駆け引きに於ける勘所をきっちり叩き込まれたのだろうなあ、と思わずにいれないほど鮮やかで肝の座った交渉っぷり。お父さんの死体を引き取ったりする事務的な雑事も大人顔負けにこなしちゃって、そのうえ涙ひとつみせないなんて気丈な子だな…と思ってたんですけど、お父さんの所持品を目の当たりにしてはじめて涙をみせるんですね。彼女が泣くのはここだけで、以降は壮絶な戦いでも決してひるむことがない。この子にとってお父さんはふつうの意味での「お父さん」よりもずっと濃い、血縁者というよりも熱い血でつながった同志のような関係だったのかもしれないなーと思った。父の仇討ちにあそこまで固執するのも、ひとりの人間として心の底から尊敬して感謝しているからなんじゃないかなと。あの少女の賢さや図太さから彼女をそのように仕込んだお父さんの姿が垣間見えるような。さしたる理由もなく尊敬するお父さんを殺した奴がいたら自分の手で殺してやらんと気が済まんだろうね。しかもその犯人を野放しにしかねない社会構造下ではよけいに。父の仇討ちにむかう少女、という設定なはずなのになんとなく恩義のある仲間のための弔い合戦的な話にみえる。仕込まれた当人がそれがいい事であることを自覚して、なおかつ感謝の心を抱くほどの「教育」をすることのできる親ってのは世界中でもめったにいないでしょうな。
すばらしき父さんギツネは絵本界ではおもに鼻つまみもんのドーブツ(狐・アナグマ・ネズミ)たちが人間が経営するトリ農場と酒農場から盗みまくった結果、真っ赤になった農場主に地獄の底まで追い立てられるシンプルなお話ですが「これからさらにヒドいことが起きるであろう」感満載の結末に関してはこれの結末をよぎらせずにいれなかった。魔女がいっぱいはおばあちゃんと少年の魔女退治のおはなしなんですけど、いろいろあってラストで主人公の少年がネズミに変身させられてて、そのネズミ姿のまま少年が「これからふたりで世界中の魔女を退治してまわろうよ!ワーイワーイ!」ておばあちゃんといっしょに大喜びしながら終わるんですが、ネズミに変身させられたらふつうならもとの人間の姿に戻りたがると思うんですけど、この少年はなぜだかそんなことはまったく思わないらしくて、そんなことより「世界中の魔女を退治してまわる」ことに興奮してるんですね。凡百の物語のキャラがとるであろう言動(家族に会えなくて泣くとか、人間にもどりたいとか)をいっさいしない。家族にも俗世にもすでに未練がないの…?それより「魔女を滅ぼしてまわる生活」に興奮するの…?て読後感がすごい不穏な気持ちになった。たしかこの子はもう2度と人間に戻れないんだよな。そのヤケクソ感でなんか滅ぼしたい的なのか、それともネズミに変身して脳も都合良くなっちゃったのかどっちなのだろうか。あんましおぼえてないんですけど、この「(世界中に相当数いるらしい)魔女を滅ぼす」てのがけっこうヒドいことだというふうにニオわされてるんですよね。なんかこう崩壊の序曲的な幕切れでさ。ロアルドダールって………………!て思いました。このヒトはガキんちょの破壊衝動に忠実なモノを書いてた方なんでは。児童文学作家っていうとだれもが油断しがちだと思うけど、ダールはそこらの甘っちょろい児童文学作家じゃねー。よんでるガキにも安心させようとかぜんぜん思ってない。むしろ不安にさせてチビらせようとしてるふうに思えるんだが。生きてたらじかに聞きにいくのに。
コリンはゾンビ化した青年が街をあちこちさまよう中でなにげなくすれちがったりしてたゾンビ化人間たちが、実は家族のひとりだったり親友だったり…というゾンビ前とゾンビ後の時系列配置の妙を駆使してゾンビ化人間の悲哀や殺伐っぷりをじっくりあぶりだした的なゾンビ文学作品。なんかすごい低予算でつくったらしい。画面が暗すぎてなにやってるかよくわからないとこがけっこうあって残念だった。