風の一吹きで、街のすべてが吹き飛んだ

『「もう一つの世界」は、グランヴィルの幻想世界が具現化された作品と言ってよい。食べ物が空から降ってきたり、擬人化された惑星が旅をしたり、奇想天外な想像が展開している。グランヴィルは後世のあらゆるジャンルのアーティストに影響を与えているが、シュールレアリストが彼らの先駆者としてグランヴィルを位置づけるに至る上で、最も強烈な印象を与え、かつ決定的であったのはこの作品だろう。
 グランヴィルは、1847年に43歳という若さでこの世に別れを告げた。妻や子供を立て続けに亡くすという不幸に見舞われた上、自らの想像世界に入り込みすぎたため、晩年は精神を蝕まれ狂気のままに息を引き取ったとも言われるが、その真偽のほどは定かではない。ただ、亡くなる直前まで発想力に富んだ豊かなデッサンを多く残しており、これらは彼の死後、最晩年の代表作として日の目を見ることとなる。』

『エッツェルはグランヴィルの創造性を引き出すために、大まかな表題と内容を決めただけで先に絵を描かせ、それに作家がテキストを後付けするという方法を採用した。グランヴィルは、同時代のロマン主義作家たちの作品には原則的に絵を描かなかったが、それは「絵が従となる仕事はしない」という「画家の優位性」にこだわったためである。』

『グランヴィルが拘ったとされる「画家の優位性」が最もよく表れた作品。グランヴィルの絵に文を添えたのはタクシル・ドゥロール。画家の象徴である鉛筆が、作家の象徴である鵞ペンに自らの未知の世界への独り立ちを説得するという冒頭に、グランヴィルの意図が表れている。副題として沿えられた「変容、幻想、化身、上昇、移動、探検、遍歴、周遊、滞在、宇宙創成論、幻影、夢想、悪ふざけ、冗談、気まぐれ、変身、動物変身、鉱物変身、輪廻転生、死後神格化、その他」という内容解説がすべてを物語っている。ビュフ博士、クラック、アッブルのトリオが「もう一つの世界」への冒険を試みるが、そこでは、動物や植物だけではなく、楽器屋道具、惑星などのありとあらゆるものに命が与えられ、変身が繰り返される。例えば、空から焼き鳥が降り、木々にはデザートが生り、泉からシャンパンが噴出する世界や惑星は魂を持っており、その魂が時々他の惑星に移住する宇宙世界など、意想外の世界が広がっている。これはフーリエ主義の説く世界観を視覚化したものであるという。こうしたグランヴィル独自の詩的、幻想的世界は20世紀に入ってシュールレアリスムの先駆的作品として評価されることとなる。』

《私は通りすがりの鳥に手紙を託しました。》
《彼女は上流のフクロウのつもりでポーズを取ったが、滑稽なフクロウでしかなかった。》
《繕いものを優雅にかじるメスネズミがおりました。》
《りゅうとした身なりのダンス名人昆虫》
《巨大なる神の指》
《風俗警察は、若いアヒル―ガエルとネズミ―ネコ―フクロウのダンスを寛大な目つきで見守っている。》
《無理やり二足歩行させられているカメたちが見えました。》

『グランヴィルはなにゆえに「ガリヴァー旅行記」で圧倒的な成功を収めることができたのか?
 社会諷刺においてグランヴィルの成功を阻んだ要因、すなわち強度の人間嫌いから発するキツすぎる風刺、黒いユーモア、グロテスクな誇張癖などが「ガリヴァー旅行記」においてはことごとく逆に機能して、大きな成功の原因となっているからである。
 グランヴィルは原作者のスウィフトとよほど波長があったのか、物語をまるで自分が書いたように見事に解釈して挿絵に仕立てている。別の言葉でいえば、スウィフトとグランヴィルは人間嫌いの似た者同士であったがために、絶妙なコラボレーションが生まれたのである。』(図録p.28)

『グランヴィルが美術史上、大きく語られることはなかった。それは彼らがたとえ他の芸術家に影響を与えていようとも、どれほど同時代の大衆の心を掴んでいようとも、あくまでも「大衆のアーティスト」、「民衆のカリスマ」であるに過ぎず、「正統派」ではないからである。風刺画や挿絵は、あくまでも大衆芸術の一部であり、ファイン・アーツの歴史的文脈を追う美術史からは除外されてきた。しかしながら、実際は大衆芸術とファイン・アーツを全く接点のない別物として分化できるわけはなく、共に同時代の造形的創造活動であるからして、当然、互いに影響を与え合っている。これが市民文化の勃興期である19世紀フランスともなると、両者の関係性はかなり親密となる。』(図録p.146)

グランヴィル 19世紀フランス幻想版画(3日。練馬区立美術館)→わたしを離さないで(しね)→シュルレアリスム展(9日。国立新美術館)で、上記『』内はグランビル展会場に展示されてた説明文より抜粋したモノ。グランビルは当初新聞で権力者をおちょくった風刺画を描いたりしてたんですけど、市民思想を左右しかねないほど影響力のある筆っぷりに怯えたお上に取り締まられて、以降は巷のヒトビトのありがち風体を顔だけドーブツに替えた画風での挿絵だの、黒い相性の合致した作家の小説に絵つけたりだのしてた方だそうですが、頭部のみドーブツにしただけで人間の行いがほとんど全部くだらんとゆう真実があぶりだされてしまうとは………!!絵とかの創作物で顕著ですけど、痴情のもつれ場面を描いたモノでもたとえば女がすごい美人でぽろぽろ涙流してたりしたらたちまちメロドラマ的とゆうか、なんかこう情感タップシの「美しい」場面に感じるじゃん?でも同じ場面を顔がドーブツになってるキャラがやってるとなんかただ獣がさかってたり縄張り争いしてるだけようにしかみえなくて、ミもフタもないふうにみえちゃうんよ。あれっ…?もしかしてわたしたちは普段から自身をかなり美化してるんじゃ…?!そしてそれがあたりまえになりきって疑問すら抱かなくなっている………ッ!?て思った。自分たちの姿が浅ましいかどうかは自分たちの姿で描かれるとわかりにくい。自分たち以外の生きモノで描かれてようやくわかるっつーかさ。人間の姿で描かれてるモノをヒトがみるとなんとなく見た目がキレーに描かれてるほうに移入しがちで、その「どちらか一方」の役割を強いられる見方では抱く感想や感情もごく限られたモノしか持てないことが多いんですけど、人間ではないモノで描かれてると画面上に感情移入ができるモノがどこにもなくて、だからこそ自分たちの姿を冷徹な第三者の目でみせられてしまうっつーか。人外の者の目には人間の姿がどうみえるかってゆうのを擬似的に感じさせられちゃう的に。人間からすればすごく悲しい場面でも、人間以外からみると頭おかしい行動にしかみえないとかそうゆう。グランビルの風刺画でいうとすごい美人ぶってるんだけどふくらんだふくろうだったり、胸に紋章いっぱいつけて偉ぶってるんだけどちっさいゴミ虫だったりします。「貴様、御婦人を侮辱する気か!」とか憤慨してる絵でも登場人物全員ニワトリですからね。全員照り焼きにされちまえって思った。グランビルはその調子で時の支配者洋梨で描いたりして、それが市民間でウケすぎて代名詞になってたとかそりゃ取り締まられらーな。その後もこりずに顔面ドーブツ風刺画と共に学術的な調子でイヤミったらしく生態説明までつけた博物学シリーズとかもやるんですけど、顔面すげかえを突き詰めてった結果やはりシュルレアリスムの根源となる表現にいきついてしまうのです。なにこの予想だにしない展開。見物しててビビったじゃねーか。シュルレアリスムの出発点には風刺という「笑い」があって、それを追求するためにものの形を歪めたりすげ替えたり…て!!出発点の笑いに関してもまずだれもが抱いてる本音に触れることが前提で、心や感情を揺り動かすという点で絵や音楽と目指すモノは変わらないんだよな。グランビルの絵でオペラ座の男客たちの頭部が巨大な目だけになってて、その目がいっせいに美人を凝視してるやつがあるんですけど、完全にシュルレアリスムなんすよね。ただでさえどぎつい真実をさらに誇張しちゃうと超現実に突入せずにいられない画ヅラになっちゃうのな。なかでも「天空の逍遥」と「犯罪と償い」がエルンストのコラージュかよってくらいもろにシュルレアルだし、顔面ドーブツ画は題だけでもシュルレアルっつーか。上記《》箇所のは展示されてた絵についてる題を控えてきたモノですけど、図録にもでてたんだろ〜と油断しきってたらぜんぜんでてなかったやつがあって《彼らの無邪気な》《学校の顕微鏡のおかげで》《ナイフが退屈して》《雲は、石とカエルの》ではじまるやつ誰か写してそしてインターネッツにのせてください。グランビルの顔面ドーブツ画とか植物擬人化とかはその後にいろんな方面での絶大な影響(こことかこことかここ参照)が伺えますけどしかし日本には遥か以前から鳥獣戯画がありますからなー!とかむりくりはりあってみた。本日題は巨大ふいごが街を吹いてるグランビル画のです。
シュルレアリスム展はマンレイとかブルーメンフェルドの「なめらかな物体」として女体を撮った的なのとか常識を非常識配置にするマグリット的な、誰の目にもわかる「シュール」作品よりも、どっちかゆうとシュルレアリスム直前のダダ(しかも絵画上の技法として表現された)系列の破壊衝動を基底とする混沌作風のが多くて、どうも事情通の玄人向けなラインナップだったような…。シュルレアリスムって「常識を覆すたのしみ」を表現するために整頓されてシンプルな形にまとまってる作品がすごく多いんですよね。ひとつの作品のなかにごちゃごちゃ色んなもんが入ってるとその理念を伝えるうえでの障害になりかねなくて、ともするとシュルが消え去ってしまう―シュルレアリスムが立ち現れる瞬間は繊細でとらえがたい―ために「だれにでもわかるモノ」をちょっとずらして据えただけ、みたいな傾向のが中心なんですけど、今回の展はダダ系列のとシュルレアリスムど真ん中のをいっしょくたに展示して、合間合間にシュルレアリスム宣言からの抜粋文と当時出版されたシュルレアリスム関連の同人誌をてきとう陳列してある有様なんで、特別に美術好きとかでないお客さんは肩すかしだった方が多かったんじゃないすかね。なんか…ポンニで「シュルレアリスム」の展示で稼ぐに際して、なんとなく多くのヒトが「シュール」という字面に対して漠然と抱いてる―期待している部分を満たすのってけっこう大事なんじゃないのかな…と思いました。インターネッツでも意味不明画像シリーズってなにげに人気あるし、ポンニのヒトって明確な「わけのわからなさ」に快楽を感じる傾向が強いように思うのよ。そういう意味で今回の展は期待した画ヅラのもんが少なくてガッカリしたお客さんがわりといたんじゃねーかな。今展でやたら多かったマッソンの混沌作風に関してもそれがどうしてシュルレアリスムでカウントされてるのか説明がいっさいねーしな。まあ鑑賞者にご自由に感じさせるのもいいんですけど、それにしては微妙に傾向が異なもんをただズラリと並べて放りっぱなしみたいな展示はちょっと乱暴だなーと思った。鑑賞に際しての素人さんへの配慮がなさすぎっていうかさ…。子供への配慮はしてるっぽいかんじはだしてたのにね。今展でダダくさいのしか出てない作家さんでもわかりやすいシュル作品をけっこうつくってたりするんだよね。そうゆうのを借りないで、なぜかダダくさいのばかり持ってこられても…。今展の作品チョイスした人のセンスがあまりよろしくないような考えさすぎなような。アレかね?「ここらへんをまとめて借りるならお安くしますよ」的なポンピドゥの手練交渉に押し切られてこんなんなっちゃったとかなのかね。だったらかっこわるい。かっこわるいといえばさーちっさい写真が展示されてる前の床に線が引いてあって、そこからちょっとでも足がでると監視がとんできて線から出るなって注意してくるんですけど、ちっさい写真なんだから近寄って見ないとわからんつーの。なんなのこの厳重すぎな展示態勢。今展の企画者の人ってなんかやさしさが欠けてるかんじがする。鑑賞側への配慮そっちのけで「俺様のすばらしいセンスをみろ」みたいな。あとブルトンのアトリエ映像は字幕つけろっての。なにいってんだかぜんぜんわかんねえよ。さんざんカキましたけどエリロタールの食肉処理場写真とか、ジャコメッティサイコパス的な人体切り貼り銅像とかシュルレアリスムど真ん中で清々しかったですし、トワイヤンの石ころで出来たお墓にたかる青い蝶の絵はきれいですし、シュルレアリスト4人が部分ごとに好き勝手描いてって出来た「甘美な死骸」は便所のラクガキ的にフザけてていかしています。伝言ゲームで完成した文章の無責任暴力と同傾向のアレ。個人的にツボったとゆうかむしろ単体で回顧展やってほしいと思ったのがブローネル(どうぞ)というルーマニアの画家の絵で、このヒトの作品はシュルレアリスムというくくりで片付けてしまうにしてはいろいろ含みすぎな気がする。下記に画像いくつかのせときますけど、どぎつい風刺的絵柄なんだけど土俗的なおとぎばなしキャラとしてまとまってる、みたいな物語感覚の作風が興味深いんだよな。イヌイットの民話的な簡略化された動物の絵とかさ。あきらかにシュルとは異なる方向を目指してる(参照)。シュルレアリスム展にひっぱりだすならこれとかこのへんとかの風刺っぽいほうが合ってたんでは。


 

シュルレアリスムついでにこんなとこみつけたのでのせておきます。あとミロの絵がちょろりとでてますが、女子のお客さんが「わけわからんけどきれい」と口々にゆってました。服飾や宝飾品好きな女子ほど色彩や形状の美しさへの感覚は鋭いよね。夫人も抽象画の自由さと美しさが好きだって言ってたしな。
わたしを離さないでは人間が病んで臓器が必要になったときのために臓器取る用に育てられたクローンたちがなすすべもなく臓器提供させられて死んでいく話。ブレードランナーレプリカントみたいに反乱できればまだいいほうで、ああやって権力側に立ち向かった以外の大部分のレプリカントたちはひどい決め事をあんなふうに従順に受け入れるしかできなかったんだと思う。わたしを離さないでのクローンたちはクローンとはいえ体も心もふつうの人間なんですけど、生まれてからずっといろいろ吹き込まれて育ってきたんで「あなたたちは臓器用です」て正面きって聞かされても泣いたり喚いたりはおろか逃げ出すことすらせずに「あーやっぱりそうなんだ…」てガッカリする程度で、その後もおとなしくそのひどい制度に従いつづけて暮らすんですよね。自分がひどいことをされてるかどうか判別ができないというか、既存の考えの範囲内でしか生きられなくなってしまう状態を淡々と描いてるところが恐ろしかった。洗脳されてることすら気づかないのが本当の洗脳なんだよな。「家畜」や「囲い」がなんであるかを理解できない者は家畜以外になれないし、囲いからも出られないとゆう。人間が食用にされている惑星の話(藤子不二雄とイシグロってどっちが先?)とか男が奴隷にされてる惑星の話と同系列の物語。認識すらできないほど厳重な拘束を生きるなかで、孤独に怯えた者が真の愛を交わす者同士に嫉妬して壊してしまったり、ほのかな願望がもとになって不確かな「噂」や「迷信」が立ち上がっていったりするところをしずかにとらえた作品。その願望を手にするにはそうとうな破壊や暴力が必要なのに、彼らにはその発想すらつかめない。幸せとか不幸せというのは多くは自分独自に認識&獲得してると思いこんでるけど、実際には権力者の都合で左右されてしまう不確かなモノなんだとゆう話なんだろな。