うさぎ年の暴力に思いをはせた件(ケイシーが同い年)

『わたしの母は、はた目には正常な人間だった。スモーキーと暮らしていたときの、フリンジの付いたレザーにヨーク仕立てのウェスタン・シャツを着て、皿ほどもあるバックルにトルコ石をはめ込んだベルトを締めて笑顔を振りまいていたころと違い、わたしの父と過ごした日々は地味なものだった。彼女は自分自身を、平凡でまっとうな人間の枠にきっちりと畳み込んでいた。パステル・カラーの服、飾り気のないブロンドのかつら、家族以外の人と話しているときは、小首を傾げながらひたむきで切ない表情を浮かべてみせる。そして、「そうなの」とか「わかるわ」といった丁寧な相づちを、時計仕掛けのように連発する。まるで、体内のあらゆる細胞が突然変異して分裂し、自分を印象づけようとしている相手の様子を油断なくうかがいながら、持てる力を総動員して、なんとかしてつながりを保とうとしているかのように。
 母はよく、会話の途中で興味を失っていないことを示すために、ぐっと首を伸ばした。相手のいったことがブタのバラ肉の値段だろうが、彼女にはなんのことだかわからない最近の時事問題についてだろうが、関係ない。一方、手では例のL字を作って―親指であごを支え、二本の指を頬に添えて―相手を食い入るように見つめ、いちいちうなずいた。母は、なろうと思えば見習いスチュワーデスの手本にだってなれただろう。アンテナの感度をいつも最大にした、医者がわずかに口元をひきつらせるか、診察台の前で椅子に座ったままくるっと回っただけで、わたしが病気ではないといおうとしていることをいち早く察知する。そして、医者の勘が問題解決につながらないことをただ確認するために、急いでべつのテストをしてほしいと訴えるのだ。こんなふうに、母は自分が突き放されようとするほんのかすかな気配を、いち早く嗅ぎわけた。』(Sickenedp.105-106より抜粋)
ノワール祭(13日。ルノアール新宿三丁目店)→キラーインサイドミー(昨日。ヒューマントラストシネマ渋谷)→引き裂かれた女(イメエジホウラム)→悲しみのミルク(ユーロスペース)→処刑教室(えぬ)。ノワール祭はトンプスンがらみの評論家の方たちのお話をきく会ですが、会場入口に細いおばさんが立ちふさがってて、トーク部屋はいろうとすると「誰が目当てなの?」みたいに聞いてくるのがまいった。答えると単なる取り巻きの1人としてみなしてる的な態度するんで「カフカとか好きです」ていうと「あー不条理ね。」とか一蹴されて済まされるし。まあ取り巻きにはちがいないんですけどさー、なんか…そんな1回2回の挨拶程度で人を判断しきったふうな態度すんなよって思ったよ。文体上の情感つー微妙な感性を売りにしてるベテラン業者が見ず知らずの人間にあんなガサツで不躾な質問ぶつけるとはねえ。なんか娼館の女主人が客にむかって「アンタ、どのコが目当て?」みたいに聞きながら値踏みしてるカンジだったよ。どういう尋問なんだよ。情婦の1人ですとか言ってやりゃよかったよ。トークショーつうたびにあのテのポジションを認識させられるようなプレッシャーを思って「うう…」て思う。おまえはあくまで客で取り巻きの一部なんだという。それ以上なにもするな的な暗黙の圧力。そもそも不純な動機を隠しもってのぞむほうが悪いです。すまなかった。トークではジムトンプスンは自分を神だと思ってるからあんなん書けるんだっつー話(配られた冊子のアルバータさん談ではひどいニュースには耐えられないほど心を痛めてた、みたいなことが書いてありますね…本当か。それって本当に、なのか?)に絡めてでも同時に神にすがるふうなところと神に唾を吐くところとが同居していたんだろうとゆう話と、あと吉野さんの「ノワールの反対語は薔薇色」という話もよかったです。バラ色の人生と闇の人生っつー。黒だったら白だけど、ノワールは黒とひとことで片付けてしまうにはあまりにいろんなモノを孕みすぎていてちょっとそぐわない気はする。グラサンデブ(お名前がわかりません)が話してた「火だるまで幕切れる小説」の話もトルーデさんちっくでちょっと興味ある。
んでキラーインサイドミーはトンプスン小説を映像化したモノで、生まれつき人間らしい情感や共感能力の欠落した異常者がそれをひた隠してさも「普通」の人間であるかのようにふるまい続けてどうにか何事もなく暮らしてきたんですけど、あるとき出会った娼婦に性的暴行を加えてしまったのが発端となって今まで隠してきた本性があぶり出てきてついつい殺しはじめてしまうというおはなしですが、ルーフォードにとって「心を動かされる=愛する」ことは同時に「自分の本能をも起動させる」こと(どっちか一方だけというのは無理で、片方に忠実になったらもう片方も自動的に忠実にならざるをえない的なもんなんじゃないかと思う)なので、ルーのほんとうの心が動かされた時点ですでに周囲&当人の破滅は決まってたようなものです。それは地震津波が起きてしまうのと同じでだれにも止められない。アンチクライストの奥さんじゃないけど、本能や本心にしたがって正直に行動したらキリスト教的には悪魔ということになって、結果的に退治するかされるかしかなくなってしまった。「大多数の普通」こそが善だと決めてしまうとそこから外れたモノが出てきた時にさっぱり理解できなくなってしまう=なすすべもなく駆逐する/されることしかなくなってしまう。自然の業から助かる方法はがむしゃらに逃げるしかないんですけど、それがすぐにでも逃げ出さなければならないモノなのかどうかを判別するには単純な二項対立方式では手遅れになってしまう可能性が高い。「良いか悪いか」の判断方法だと「良い」の要素にまみれていたら誰も「悪い」ものだとは思わなくなってしまう。 海や山や人間、ぜったいに安全なものなどこの世にはない。なぜわたしたちはこの世界がよいものだと盲目的に思い込むのだろう?本当は「良い」だけではないはずなのに。良いだけではないからこそ享受していることがたくさんあるのに。いつからこの世界のあるがままの姿から目をそむけてきたのだろう。自分にとって都合のいい部分しかみないから足もとをすくわれるんじゃないのか?おれたちみんな。トンプスン映画に関しては心がカラッポの異常者に対してまっとうな愛を捧げつづける光景てのが滑稽だし悲しかった。ルーフォードのなかには殺しを犯してすらなんの感情もない空虚しかないのに、みんなしてふつうのヒトがするようなことをよってたかって求めてきて、サイコパスからしたらなにやってんのかな、このアホどもって思うでしょうね。ぜんたい警察官とか政治家みたいな「人格者でなければならない」職業の方がご覧になると特に身につまされるであろう作品です。警察のお偉いさんの息子が外道な犯罪やらかして隠蔽された的な件てたまに実録誌にでてるよね。結婚きりだすといつもはぐらかす男とずるずる付きあい続けてる女性の方は、その男が浮気してるとこをみつけたらグジャグジャ問いただしたりせずさっさと別れなね。そうゆう男のもつ1面がこの映画で描かれています。ケイシーが淡々と感情移入させないルーっぷりでなにげなくピッタシだった。いかにも無害で「いい人そう」なみてくれだしね。ジェシカアルバはまあふつうに可愛いマゾっぷりだった(もうちょっとスレてるかんじの女優さんでもよかったのでは…)し、エイミー役のケイトハドソンは寸胴であんまし色気はないんですけど、ルーにひどく殴られて瀕死状態で失禁して服で顔隠されてるシーンの風情がなんかろくでもないエドワードホッパー的な画ヅラでよかったです。お客さん評ではいうほど狂気がなかった…みたいなのあるけど、進行上の関係で原作のキモが全部なくされてるからまあしょうがないです。原作の会話をぜんぶゆってる特別編とかつくってマニアにだけ売ってくんないかなあ。あとあの白黒ポスター売ってくださいよ日活。それとパンフの北小路さん評で「ルー(ベンアフレック)」とかまっすぐ間違ってます。ところでAB型ってそうなの?
引き裂かれた女は初老の作家に惹かれつつどっかの御曹司につきまとわれたりなんだりしてお天気お姉さんの人生がフラフラする話。主要キャラたちが行動の理由をはっきり提示しない(こういうつくりってフレンチ映画でよくみますけど、夫人からすると「いちいち説明するような野暮はしないのよ。」だって)んでなんかいろいろ謎のままなかんじです。初老の作家にしろ御曹司にしろあんまし魅力的ではないっつーか、なんとなく「正統派色男」から外してるふうな微妙にたるい持ち味の俳優さんを意図的だかなんだかしらんけど使ってるんだよな。主人公のお天気お姉さんもきれいですけど、なんか個人的にあまり好みでないしなあ。どのキャラにも移入できない。作家の奥さんが唯一すてきなかんじでしたけど。つーかどの女性キャラもたとえ結婚してる身であろうとどの男とでもソッコー寝てしまいそう(そしてそれをなんとも思わなそう)な雰囲気のゆるさをまとってるふうなのがなんか不穏でもあった。フレンチ女性ってみんなあんな股が万事ユルユルなかんじなんすかね。ヤリマンが常識的人間みたいな。初老作家はお天気お姉さんにいれこんでるふうだったけど、乱交さしてから鍵替えちゃうってのは愛してるとかは全部嘘で単なる遊び(もしくはネタにされただけ)ってことなんね。その初老作家の奥さんは「来世は男になりたいです(笑」とかちょろっといってたけど、あれって旦那の女遊びの激しさに辟易してるけど妻としての矜持で別れるわけにいかなくて、間接的に「やってらんね」て言ってんのかな。あと御曹司のママンがわたしの息子はちいさいころから殺しちゃうんですよねえ…遺産はビタ1文やらないわよ…?みたいな実はサイコパス的な告白とかなんとなしにしてたり。そしてお天気お姉さんは叔父のマジシャンのネタにされて泣くのだった。わからん。夫人といっしょだったらあれはあーでこーでってザックリ説明されたうえでもうぜんぜんだめね!もっとフランス映画みたいな大人の話をみなさいー!とかさんざん叱られるんだろうけど、ひとりでみるとにゃにがにゃんだかです。フレンチ人はワタクシの脳の範囲を超えたところでゴチャゴチャやって放置してくるからこまる。
追記(4/21)。もしかしてラストでお天気お姉さんがマジシャンのネタにされて泣いてたのって、お天気お姉さんが老作家のことを好きなのに老作家がすげなくしてる事へ怒りを感じて御曹司(お天気お姉さんに激しく片思い状態)が老作家をぶち殺したことに対して(お天気お姉さんは御曹司のことはあんまし好きではないけれども)人生を投げ出してまで自分の思いを代弁する行動をしてくれたことに言い表せないほど想いがあるし、いっぽうで好きな老作家はぶち殺されちゃって死んじゃったし、当の御曹司も牢屋行だし、なんかいろいろ「引き裂かれた」状態だっつーこと?そんでどうにもできんくて泣いてんの?まーでもあの2人はどっちもろくでもないから冥府魔道は避けられなかったのでは。さしてすきでもない相手から人生賭けられてその上片想いの相手ぶち殺されてもなあ。お天気お姉さんとしてもこまるだけだと思うよ。
悲しみのミルクは強姦された際の恐怖を母親からずっと言い聞かされて育ったために、男や性への恐怖にがんじがらめになってまんこにじゃがいも入れて暮らしてる女性が、まんこに詰まったじゃがいもをだす決意をするまでのしずかな顛末を描いたおはなし。男から身を守るには「性への幻想を叩き潰すような気色悪さ」が必須なのだと母親が歌っててそのとうりだなーと思った。ちんこを萎えさすことしかないんよね。主人公の女性は母親に半ば脅されるように育てられたのが原因でビクついてるだけなのに、なんだか周囲のヒトビトがしきりに「彼女は母親の乳から恐怖が伝わって恐乳病になってるんだ」てありもしない病名をでっちあげて勝手に納得してるんですけど、根拠もない迷信を信じるあまりに差別を差別と気づかない状態って、いくら学者が統計だの研究結果だのだして無害なことを証明してもまったく聞く耳もたずにエロ漫画やゲームを諸悪の根源だ、弾圧しろと規制を推し進めるカルト団体や政治家とまるで同じ脳内構造だなーとしみじみ思いました。迷信て理解しがたいものを自分なりにとらえるために「わかる物語」をつくりあげる作用が働いて生み出されるモノなんですね。なにしろいくら我が子を思うからといっても恐怖ばかり植え付けるのはDVと大差ないなと思った。
処刑教室は「ハイスクール・ディティクティヴ★恋とスクープは命がけ?!」にタイトルを替えるべき。処刑なんてもちろんしませんし、ブルースウィリスもでてくるたんびに生徒の口ん中のガムに固執するだけの本筋とさして関係ないかんじのヒトです。ガムかんでるってだけでのど笛をかっ切る鬼畜教師が巻き起こす血と暴力の学園支配的な映画を目当てにきた客にヌルいティーンのラブコメとかみせつけてどうしようとゆうのかえぬは。こうゆうの懐かしいな!とかおっさんがなぜか喜んでたけどさ。