シュヴァンクマイエルもエルンストをまねたかったって正直な題名つけてたしなー

    
  

生誕100年 岡本太郎展(国立近代美術館)さっきみてきましたが、太郎が絵画を描く際に多用する形状で、どっちが発生源なのかはわからんけど、1カ所からニュッとでてきたふうなありさまのモノがあって、先っぽが広がったりなんらかの形におさまらない場合は発生したところとおなじように細くシュッとすぼまってますが、そこが筆で書いた文字のようでもあるし、容器からイキオイよくでたケチャップのようだし、あるいは肛門からひねりでたやわらかめのうんこ、男根の先端から放出された精子、流れゆく星、消えゆく寸前の煙、生物の内側を張り巡る血管、または太陽が大地に落とし刺す光線のようでもある。先っぽがツンと尖った流線型のモノはどこかへすべってゆく途中なのか、なにかを刺そうとしているのかはわからないけれど、画面の中を多彩な色をふりまきながら縦横無尽に張り巡る。その不可解な流線型のトンガリを眺めるうちによく見慣れたつまらないモノとよく似た形をみつける―どこかでみた安っぽい、現実をひどくデフォルメしたどぎつい風刺のような―とたんにそれは「素晴らしい」モノではなく、数百円でいつでも買える卑近なモノのような気がしてくる。これが「芸術」なのだろうか…?あの数億円でやりとりされて、王侯貴族だけが所持を許されたモノと同じ、なのか?その薄っぺらいモノの周囲にはつねに不可解な混沌が渦巻いていて、共感できるような記号がなにひとつない。多くの日本人が「わからない」上に、内心ではバカバカしいとか、なんてことないくだらないモノだな、という思いを抱いてしまうことだろう。商品のパッケージに描かれた宣伝記号のような形とか、ニャロメ的なキャラがたびたび見受けられるから。そういうモノはいつもグチャッと潰してゴミ箱に捨てているから。唾棄されたモノが弧を描いて廃棄場へと流れ落ちるとき、いくつもの流線を描いていることはだれもが知っていて、だれも気にはとめない。なんか岡本さんの絵って永井豪の力強い描線と赤塚不二夫ちっくな軽さが随所にあるのな。美術の文脈からは完全に無視されている「マンガ」を巧みに取り入れて土器的な感覚とごたまぜにして「これが日本なのだ」とみせつけてるような気もする。原始と漫画の間にあるもんはぜんぶすっとばすっつー乱暴さ。美術に関わるヒトはだれしも独自の「日本の美術史」を見出してはじめてナンボなんだよ!とゆう主張はよくよくわかりました。この展とこの前やってた美の巨人たちみるまで、太郎ってちょっとミーハーちっくつーか(ピカソ好きなとことか)追従者ぽいよねーとか漠然と思ってたんですけど、万博の理念である文明の進歩だの科学技術発展だのを完全否定したうえ「むしろ原点回帰すべき」て言いはって国のカネ使って堂々と原始に遡り始めた件とか知ってじーんとした。信頼できる。とりあえず上記画像はここここここここのです。
海洋堂フィギュアガチャガチャは1回買ってはまた並びしてるマニアらしき人がいたりして噂に違わず大盛況でしたが、列みた若いお父さんが「ほしい」てつぶやいたら即座に小さいお子さんが「いらない!」て叫んでた。