絵画的又は感覚的の味わひに喜悦を感じるのです

スコットピルグリムVS.邪悪な元カレ軍団(2日。シネマライズ)→ミスターノーバディ(ヒューマントラストシネマ渋谷)→包む 日本の伝統パッケージ(3日。目黒区美術館)→芸術写真の精華―日本のピクトリアリズム→ベッティナランス写真展 女神たちの楽園(東京都写真美術館)→ザ・ホークス ハワードヒューズを売った男(シアターN)→塔の上のラプンツェル(新宿ピカデリー)→ナチス、偽りの楽園(K’s cinema)とみまして、つつむ展は日本でむかしからある藁を使った食品梱包を美的観点からみてみる展。ぜんぶ岡さんとゆうデザイナーさんが集めたブツだそうです。笹の葉に飴折り包んだり柏の葉で餅巻いたりしたのとか、いくつかの玉子を藁で縦に編んだのとか、これってみのむしじゃね?て思った。基本的に虫がくるまるところを参考にしてるような。虫が葉っぱにくるまるときってうまれたての体がやわらかいときで、葉っぱでぐるぐる巻けばそのやわらかい体を守ることができる…ということは虫様とおなじくらいやわらかい食べ物もそうやっておけば、的な発想だったかどうかはしらんけど、まんま自然の知恵を拝借したと思しき形のモノが多い。福島と山形のちまきと長野の朴葉巻なんて折り取ってきた木の枝についてる葉っぱの内側に具をそのまま巻き込んだだけみたいな風情だし。はもずしは竹の節を切り取ってつめこんだやつだし、新潟のささらあめは野の花をまま模したような棒のさきっちょに花が咲いたふうな風情。藁包みのは納豆で定番だけど、地方のかわりだね藁包みでは大きめの魚だの八ツ目うなぎだのまんま包んでて、なんかエジプトのぐるぐるになったミイラ思い出した。藁包みのコーナーは立ち入るとふぅっ…て藁のよいかおりがしてきもちいい。あのかおりも含めて贈り物なのね。ねこちぐらもあったけど、藁って風通しのよさと保温性の両方を兼ね備えてる?のかな。藁包みコーナーのよこに「結納目録一式」てコーナーがあって神様に備える的な風情のゴージャスな水引が家族&親戚一同分取り揃えて置いてあったけど、あんなのいまの日本じゃ数十代レベルで伝統が続いてるようなそうとうな金持ちでないかぎりできないしやらないすよね。あの水準になるとちょっとそこらの庶民はあまり関係のないレベルです。仮に外人さんがみてそれが日本であたりまえなのかとか思われてもアレなので。ゴージャス結納品についてる水引が鯛とか亀とか象ってましたけど、あれって生贄の一種なのかな?ちがうか。御祝儀袋の水引じゃないけど、こういうのひとむかし前はあたりまえっつーか、なんかちょっとしたもんが庶民の手から離れていってるような。納豆だって本来的には藁で包んであったのに、いまじゃプラスチック容器ばっかで藁包みつったら高級品の代名詞だもんな。ほんとは庶民の知恵だったのにさ。高級品の代名詞といえば「伝統的包装紙」として出品されてるのがほとんど京都にある老舗ばっかしで、伝統保持できるってのはそれなりに強みがなけりゃできないことなんだよなあとしみじみしました。包装紙はともかく昔からおなじみの味で飽きられることなく一定の売り上げを続けてくってかなり大変だと思う。特に現代のヒトはいろんなおいしいもんを食べつけてるからむかしのなんてことない味に大枚はたく意義がわからないし、仮にその味がすきでもフトコロがついていかない→結果的に金持ちのお得意様をいかに抱えるかってやりかたしかなくなる。商品が庶民レベルのままで生き残るってのはたいへんむずかしい。特に梱包で手仕事的なのは高級品の部類にならざるをえない。ぜんたい伝統には贅沢の根源があるとゆうか。30分もありゃみてまわれる小規模展なわりに監視がやたらいて、あれは地方名産の徳利とかちまちましたモノを置いてるから盗まれないよう警戒してのことなのかな。しかも監視係の方が全員初老の方ばかりで、あれは出展品の関係者の方なのかしら。たびたび場所かえて交代してましたけど、交代のしかたがいちいち礼儀正しくてなんだろうと思った。展グッツ販売コーナーでは水引付の御祝儀袋いくつか売ってました。蝶を模したやつがちょっとかわいいかった。この展自体はおとなしめですけど展目録はなぜか充実したつくりで。デザイナーやってる外人さんとかにおみやげであげたりするといいかも。あと出展されてた酒の徳利でいくつかおもしろい形のがあって、ネッツにあるみたいなんでちょこっとリンク&画像貼ろうとしたけど実家の無線だとつながりづらいんで近日中に貼っておきます。

ピクトリアリズム展の出品作はすべて1910〜30年代の白黒写真なんですけど、風景・静物・人物を描いた絵画で定番の「決め」―画面上に存在するモノの比重バランス配置の均整がとれている―構図を写真撮影時にも同じく適用して、なおかつ写真ならではの技法でぼやけさしたり上から書いたり削ったりしてより絵画に近づけてみた的な写真群。そんなに絵がスキならもう最初から絵描いちゃえよ!て思わずにいれませんが、あくまで「写真をいかに絵画に肉迫さすか」がこの流れの醍醐味なんでしょうからだまって見た。これって「芸術写真」の原点かな。写実とは対極ですしね。ジャコメリみたいなあきらかなシュルレアリスム構図を狙って撮った系統と同じか?「偶然」撮れちゃった(自然)のと「仕込み・やらせ」で撮った(作為)のとの写実・芸術の線引きてむつかしいすね。どちらにしろ撮り手の感性を伝える点では同じだけど。ピクトリアリズム展の出品作は全体的にぼんやりカスミがかったモノが多くて、映像では「夢のなかの情景」的な表現として使われるノスタルジックな味わいをかもしだすのがなんか流行ってたのかなーと思ったのと、目立たせたい被写体の背後を白っぽくのっぺりさす方法を使ってるのはメリハリがきいてシャープでかっこいいのが多かった。それ系では62の小川月舟さんと108の河野龍太郎さん作品なんかがよくて、両方とも当時になんとかいう賞をとったらしいんですが、この時代は「わかりやすい形状美」が評価点だったんだなーとぼんやり思いました。浮世絵とかぜんぜんしらねーけど写楽的なかんじの?69の河野さんの撮ったハスの花写真の説明に河野さん談として「写真的な遠近感を失わせ」ることが重要だ、みたいに書いてありましたが、写真という題材を取りながらいかに写真から離れるか、ということがこの流れの理念だったのかな。ほかでは静物撮りでシュルレアリスム臭構図の39(竹田梅汀)、51(高山正隆)、60(錦古里孝治)がこのみ。ちなみに本日題はピクトリアリズム展出品作71番についてた島村紫陽さん談のモノ。
写真美術館展示では創成期のやつもみたんですけど、サッパリ興味ないのでいうことはなんもねえ。出島時代に外人さんが撮ったヤラセ写真(着色したやつ)の原板とかあったよ。写真美術館展示の3つの内この展示がいちばん客多くて年齢層もやたら高かった。ツアーの回り場所にでもなってんのかね?
ランス写真展は有名女優だの有名モデルだのが半裸&カメラ目線で挑発的なポーズをとってる極彩色巨大写真のオンパレードなんですが、女で裸のエロというと「食われる側の被虐」をどことなくまとうものですけど、ランスの写真はすべて「快楽を食い物にしながら生きるあけすけでしたたかなあばずれ」が基本線のジューシーな色を武器に世界を攻撃する豊満な外人女がむきだしの牙で喰いつくぞ系なので、鑑賞者は獲物となります。多くはビッチ撮りなんですけど、ふだんビッチで売ってる人(マドンナ)はちょっと可愛い女っぽく写されてたりもしますし、今展の宣伝写真になった道端さんは勝負下着バッチリ着用していながら人形のような真面目顔(身につけてる物[下品]となりふり[上品]との落差の面白さなんだろうけど、もしかして道端さん側が「下品なポーズはいやだ」て拒否しての結果なんじゃないのか?てちょっと思った)。シャーロットランプリングだけは普段よりもより男らしく凛々しいです。極彩色でおんなのあられもなさをデカデカとみせられると下品通り越して魔女的というか、なんか地母神みたいな力強さを感じますな。現代の土俗ってああなんだな。撮影時の指示としてはやっぱ「陽気な娼婦になれ」とかなのかな?
ディズニーアニメは熟女によって個室に閉じ込められてる若い娘のところへイケメンがやってきてさあ云々つー例のアレですが、ラプンツェルの「わたしはもう18歳なのよ!」「もう18歳なのに!」て発言からして「18歳という年齢が人生にとって重要である」という概念をあの黒髪のおばさんが情報として(間接的にしろ)教えてるってことだよな。マジに箱入りだったらそんな発言すら思いつかないはずなんだよなー。あのおばさんはラプンツェルをマジに閉じ込めておきたいと思ってるわりにハンパに世俗情報を与えてるっぽいので、ラプンツェルが自立心を燃え上がらせたのも出て行かせたのもなにもかもおばさんの自業自得だと思う。室内犬にしたいなら与える情報は精査しないとすぐに外の魅力を嗅ぎ分けて出てっちゃうよ。そもそもだ。あのラプンツェルが閉じ込められてる塔の形状、どこかでみたような気がしませんか?塔がどうっつーよりこの作品そのものが宮崎作品へのオマージュになってる気がしてならんのですけど…。特にカリオストロ紅の豚ラピュタあたりの道具立てを巧妙に仕込んであるっつーか。冒頭のイケメン強盗と馬の追いかけっこで崖の枝が折れるとこはカリオストロの冒頭だし、ラプンツェルとイケメン強盗がダムのヘリまで逃げてきて木製の細い水路をすべって逃げるとこはラピュタでドーラたちから逃げる線路でのシーン、ラプンツェルの髪が光って助かるとこもラピュタくさいし、強盗稼業の屈強な男たちがラプンツェルの説得に諭されちゃうとこは紅の豚でフィオが空賊を説得するシーン。おまけに日本向けタイトルがジブリの験かつぎにのっとった「の」を多く入れるという念の入れっぷり。天下のディズニー数十周年記念みたいな節目の作品が宮崎駿先生にひれふす会になり下がってていいのかね。でもまーカリオストロ的な設定を使いながらヒロインがむちゃくちゃ自立心旺盛なアメリカンガール&絵に描いたような大団円、という部分だけがオリジナル(て言えるんだろうか…)っつー。ヒロインとくっつくヒーローは紅の豚でポルコとライバル関係のアメリカ人男っぽかったですね。観客のチビッこたちは忍び込んできたイケメン盗賊をラプンツェルが気絶さしてからどうかしてタンスにしまおうとしてしまえないシーンで大ウケしてた。バックスバニーとかトムとジェリー的なシンプルなギャグに反応すんだなやっぱ。
ナチス、偽りの楽園は北朝鮮にもある「部外者にみせるための一見キレイな部分」のナチスドイツ版つーことでつくられた「理想郷」という名の目くらまし村での暮らしを強いられたユダヤのヒトの証言を中心に撮られたドキュメンタリーで、ドイツからユダヤ人が消え去ったことをいぶかしんだ赤十字が視察に来るってんで急ごしらえでつくったいかにもキレーな建物にユダヤ人を押し込んで幸せ発言を強要させて、視察にきた赤十字の人間をまんまとだましてやりすごしてたらしい。実際には老人がどんどん死ぬほど食べ物もろくに与えられないような劣悪な環境だったらしいんですけど、逆らうと殺されるので言われるまま従わざるをえなかったそう。収容者のなかにクルトゲロンという当時は有名だったらしい舞台俳優さんがいて、他から収容されてきた芸能関係のヒトたちといっしょにその嘘の理想郷で歌えや踊れの舞台を続けた結果ナチの高官にも名を知られて、ユダヤ人たちが押し込められているところがいかにすばらしいものかを世界に向けて喧伝するためのプロパガンダ映画の監督をするまでに至ったらしい。監督をするか死かの選択しかなくてやったんだろうけど、結局その仕事が実ることもなく命とりの原因になってしまうラストは物悲しかった。ゲロンさんの写真がパンフにでてますけど、口を真一文字に結んだままうるんだ目を真正面に見据えて、言い尽くせぬ無念さや怒りを押し込めているような表情すぎていたたまれない。この嘘の理想郷にいるときに芸能系の仕事にずっと従事してたらしいんですけど、どんなに優れた仕事をしてもナチの兵からはいつも「薄汚いユダヤの豚野郎」とかののしられて人間扱いされなかったらしくて、くやしさはいかばかりだったろうと思う。ゲロンさんは収容される前にハリウッドからお呼びがかかったんですけど、船室にファーストクラスを用意しなかったから、とかいう理由で蹴ったらしいんですね。ここで謙虚に招聘に応じてたらこんなひどい末路をたどることもなかったろうに…。幸運が手を差し伸べたときに傲慢が突き放してしまった。たぶん当時から国内でけっこう評価が高くて、プライドが無用に高くなっちゃってたんでしょうね。そのプライドの高さを収容後もまだ保ってたとしたら、ナチ兵から毎日のように踏みにじられるのは相当こたえただろうな。生き残ったユダヤのヒトの証言でゲロンさんが収容所内でもいつもオサレにして偉そうにしてたって部分がありましたけど、そうでもしてないと自分を保てなかったんじゃなかろうかと思う。生き残るために姑息なことをやってしまうヒトも被害者なんだよな…。
ザ・ホークスはうだつのあがらない小説家がでっちあげた富豪自伝で大出版社から億ふんだくる寸前までいった実話をもとにしたおはなしですけど、用心深く調べさえすれば嘘だってわかるはずなのに、三流作家のでまかせにまんまとノせられるマッグローヒルの編集首脳陣わろた。儲け話に目が曇りまくって真贋すら見抜けないでやんの。ギア扮するクリフォードのくりだす大嘘に耳傾けてるうちにマッグローヒルのお偉いさんたちの眼がドルの形になっちゃってるかんじでした。ちょっとしたウソよかデカすぎる大嘘を信じてしまうときって、自分のフトコロにおさまるであろう額がパネェときなんでしょうね。クリフォードのでまかせに踊らされたマッグローヒルの首脳たちはもうあの自伝の売り上げでアレ買ってコレ買ってー!!みたいなことに完全に頭がいっちゃってたんだと思う。その夢物語を実現したいがために疑る心がどっかいってしまった的な。たまに配当がめちゃくちゃ高いことを謳った投資詐欺とかでますけど、そうゆう「おいしい話」に浮かされてるヒトたちと似たような精神状態なんでしょうな…。そもそも出版社も作家も「当たり」を夢見てるってあたりがギャンブル臭が漂っていますね。デカい出版社はそうゆう当たりをいつもだし続けられるってことなんだろうなあ。クリフォードさんのでっちあげた自伝の富豪ハワードヒューズさんは当時ちょっと精神的におかしくなってひきこもりになってたらしくて、どういう状態になってるのか知ってる人がぜんぜんいないふうなかんじだったらしい。知ってる人間がいなくて出てこねーなら勝手に書いちゃえばバレなくね?みたいな結論になってクリフォードさんがダチの小児小説家と共謀して元ネタをでっちあげてって、ハワードヒューズはいまんとこオレにしか心ゆるしてねーから!とりあえずなんでも知ってるから!みたいにして着々と信頼を得ていってしまう。最終的にハワードヒューズが電話で答弁してクリフォードの積み上げたでっちあげがきれいさっぱり崩れちゃうんですけど、もしもあの時点でハワードヒューズがこの世にいなかったら今の今までぜんぶリアルつーことでふつうに通ってたと思うよ。まあでもいちばんヤバいニクソン闇金ネタをクリフォードにもたらしたのも(ある日突然クリフォードのとこに情報がギッシリ詰まった届け物が送られてくるんですけど、えっ…?それはどこからの…?て思ってたら)ヒューズ当人の指示だったんだからどのみちヒューズが存命だったからこそできたことか。うまく利用してやってると思ってたのはクリフォードだけで、実際には姿すらみせないハワードヒューズにクリフォードが踊らされてしまってたんだな。ハワードヒューズはただひきこもってるんじゃなくて、クリフォードの行状をぜんぶ知ってていつばらすかをちゃんと心得てたっぽいオチなんだよね。ああいう絵が描けるから大富豪なんだなーとしみじみしてしまった。 ニクソン失脚のも本当はハワードヒューズが仕組んで火がついたことなのに、三流作家が偶然掘り当てたネタだってことにしちゃった上でなんか賠償金みたいのも払わずにすんだんでしょ。最終的にすべて自分の利益にしてしまう絵を描いて実行しちまう度胸と頭がすげえよ。しかも最後の最後まで姿あらわさないで、電話1本だけで全部済ましちまうの。あれ頭おかしいわけないよ。巷には頭おかしいって思わせといたほうが有利なこともあるもんな。なんつーか…仕事っぷりにしても三流作家さんはちっちぇとこでオタオタしてるのに対して、富豪は超でっかい絵描いて悠々としてるふうな落差構図的な作品でちょっと刺さった。小金で有頂天なってちゃでかい絵は描けないよ、みたいなふうだった。ミリオンセラー本で踊らされたり踊ったりするのも実情は詐欺とさしてかわんねえのかも。なにしろ売れない作家さんが大出版社を相手に一世一代のだましにかけるガッツにグッとしました。あとクリフォードのダチであるサスキンドさんという小児向け作家さんが妙に身持ちのカタい男で、詐欺の片棒かつぐ気が失せかかったときにクリフォードが一計を案じてサスキンドさんを前後不覚状態にしてから娼婦とテキトーにヤらせちゃうんですけど、翌日正気に戻って「ぼくは妻としかエッチしないのに…!」てしくしく泣いててわろた。もっさりした中年男が貞操のことでしおらしくしてる光景ってなんかイイですね。それとクリフォードの奥さん役の女優さんがミストで群衆をヒステリー煽りする宗教女を演じた方です。へんな絵描いてた。
ミスターノーバディはご長寿老人がバッドエンドばっかなエロゲ的人生風景を語り倒す映画。若かりし頃…ワシは…妹とたいそうイチャイチャしておってのう…毎日が薔薇色ぢゃったが…あるとき残酷にも親によって引き離されてしまったんぢゃよ…それからクラスの気になる女子に片思いしてのう…強引にモノにしたんじゃが結婚したら頭がおかしくなってしもうて…そうそう、片思いをあきらめてアジア女と結婚してがむしゃらにがんばって成功はしたんじゃが…なんとも空虚でのう…うまくいかんものぢゃの…。「…で、どれが本当なんですかッ」て調査員ぽい人がいちいち困ってはジジイが煙にまくエンドレス展開。このジジイ童貞だろって思ったらマジにそうゆうかんじのオチだった。
スコピルは年下の女子高生としか付き合えないでいる青いバンドマンがおとなの女性に恋をして、一念発起してそのおとなの女性の過去の男性遍歴と自分の現状へのケジメをつけるべく奮闘する話。ホレた相手が過去に付き合った男がなぜか主人公に襲いかかってきてはいちいち倒さないとホレてる相手とお付き合いできないって設定で、その元カレとのバトルが格ゲー的なドット画ヅラになるわけです。ゲーム世代の青春メタファーをまんま可視化したふうな。同じ妄想バトル映画のエンジェルウォーズよかスコピルのがテンポがよかった。ハンパに現実と分けるよりも全編妄想で押し切るほうがいさぎいいよ。現実に引き戻されちゃうと妄想の重要さが失せる。