「耐性をつけない」て無垢至上の考えが生きる上でクソの役にも立たない件

パウル・クレー おわらないアトリエ(1日。国立近代美術館)→ヴィオレット・ノジエール(ユーロスペース)→アンフォルメルとは何か?(ブリヂストン美術館)→127時間(3日。新宿武蔵野館)→赤ずきん(新ピカ)→スカイライン 征服(バルト9)→スペイン一家監禁事件(シアターN)→爆音エレメントオブクライム(4日。バウスシアター)とみまして、127時間はチョーシこいて大自然遊びしてたら岩の間に手を挟まれちゃった男性が、脱出のために腕を切断する決意をするまでの話。その切断するにもかなりちっさい小型ナイフしかないうえ刃もろくについてないようなシロモノで「切る」ってよりもう肉をチビチビえぐってくふうなありさまなのでウワァアァとなります。骨切るのもひと苦労ですけど、神経腺みたいのを切ろうとして痛くて切れずに苦しむとこは生理的にキました。やはりスプラッタシーンはリアルが命だなあとしみじみと。こまかい痛み演出がいちいち刺さりますね。この腕チビチビ切断に至るまでには自分がチョーシこいてた(旅立ち前に誰にも行き先を告げなかったり、持ち物もいいかげんだったり)ことを悔やんだり、それまでの人間関係軽視してる中の人生模様が走馬灯のように心をよぎるシーンが畳み掛けてきたりと心象風景が画ヅラの大部分を占めるわけですが、その間も刻一刻と生存時間が減ってるせいもあってかわりにスリリング。こういう言い方すると紋切り型にみえちゃうけど、腕切断は「生まれ変わる(生き延びる決意をする=それまでの生き方と決別する)」という通過儀礼の上で必要な生贄みたいなもんだったのかなーと思った。切断しなければ生きられなかったわけですし。

スペイン一家監禁事件は裕福なご家族の引っ越し先に強盗が押し込んで来てご家族がひたすら取り乱す話ですが、ご家族は特になんらかの訓練を受けてるわけでもなくマジにふつうの方々なので、イザというときにも延々と泣き叫んでたり、トハンパに逃げ出しては強盗たちを逆上させたりと「非常時のふつうの人」感のリアルさがすごかった。ふだんみてるアクション映画の段取りの良さがいかにありえないかがアリアリと。せっかく逃げ出すチャンスができてもモタついてすぐ捕まっちゃうし、武器を手にしてせっかく反撃のチャンスができてもとどめを刺さないもんだから逆にやられてしまったりと異常事態時に於ける「ふつうの人」の詰めの甘さにイライラハラハラさせられる。こういう異常時って襲ってきた奴を上回る機転とかで出し抜かないかぎりは切り抜けられないのに、根っから「ふつう」なので何をやるにも非情になれないんですよね。セイフライド主演の赤ずきんがなんか微妙に血なまぐさい展開(刺されたり噛まれたりする場面とか)があるにも関わらずそうゆう童話のキモ部分であるえぐる場面をキチッと映さずそれらしくごまかすボヤケたつくりの映画だったんですけど、なんか客がファッションに気を使ったオサレ女で満杯でさー、映画やおとぎ話は子供だまし程度でいいとか思ってきれいぶってる連中がスペイン一家監禁事件のようなシチュに遭遇して泣き叫ぶしかできなかったりモタモタしっぱなしだったりすんだろうなーそうなってから存分に思い知ればいいのになーと思いました。スペイン一家監禁事件のパンフは深町さん評とうぐいす祥子さん漫画がのってます。安心のNクオリティ。

赤ずきんは「主人公の女がいろんな男から好意持たれる」系列の少女漫画に元ネタの設定だけを散りばめたハーレクインだった。おとぎ話を軽んじていたり「残虐さ」を抜いてしまう映画監督の腹に火口ちかくの岩をタップシ詰めこんでナイアガラに放り込みたい気持ちになる映画。残酷のないおとぎ話はもはやおとぎ話ではない。魂を語り継ぐという本懐を失った残りカスを形だけ綺麗風に並べた的な物体。エロさのないエロ本。掘り下げて細かく描くホドにドラマが湧き出てくる「セックス」や「暴力」要素に関して省略して済ましたり説明的にスルーする輩は信用できない。127時間の腕切断シーンを映さずに省略したりしたら興ざめだろ。なんでドラマの素を軽んじることを許すんだろうか。プロのくせに。

ヴィオレットノジエールは実在の親殺し少女が親を殺すにいたるまでを追ったシャブロル作品で、親の前では品行方正な優等生風にふるまってる女子高生が、1歩家を出るや派手な化粧&黒い毛皮のコートに身を包んだいでたちで街を練り歩き、目についた男のいるテーブルに足を投げ出して露骨に誘惑したりしてるうちに性病もらったりしてる。あるとき燃え上がるような恋がしたいー!!とばかりにさして好きでもない馬の骨に欲しがるままカネを貢ぎはじめて、当然稼いでるわけじゃないので隙をみて親のカネをくすねまくっては馬の骨に突っ込むを繰り返すうちにとうとう両親にバレて貢ぎ相手を夕飯に招待することになってしまい…てスジ。馬の骨との関係がうしろめたくないのならふつうに夕飯食いに来させときゃいいものを、ノジエールはその男自身に心底惚れ抜いて将来がどうこうとか考えてるわけじゃなくただの恋愛ゴッコをしつづけるためだけに親の金を突っ込んでただけなようで、テンパッたあまりに両親を毒殺しにかかる。その方法がまた子供じみたちゃちなやりくちで、ふつうだったら怪しまれて失敗するところを父親が娘を溺愛してるかなんかで勢いよくイッキ飲みして死ぬ。母親はなんかヘンなことに気づいて途中で吐き出したので助かるんですけど、最初からノジエールは母親に盛る分の毒は少なめに調合してたようで、どういうわけか母親には死んでもらいたくなかったっぽい。ノジエールがお縄頂戴後の裁判で「父親から性的虐待を受けてた(から殺した)」て言い出して、なんかちょっとそうゆうことをニオわせる的な過去映像とかも差し挟まれるんですけど、だからってカネ盗んで殺していい理由にはならんしな。しかしその理由が功を奏してかなんかしらんけど、このヒトはどうしてか恩赦を数回にわたって受けて自由の身になってしまうんですね。牢から出たあともふつうに結婚してわりと子供も儲けて天寿を全うしたらしい。これにノジエールの子供がシャブロル映画をどんなもんかみせろってたずねてきた件が書いてありますけど、この作品で描かれてる「ヴィオレット・ノジエール」という少女が自分の母親とはキャラ的にあまりにかけ離れすぎてて同一人物だとはどうしても思えなかったらしい。結局なんの遜色も無く公開となったそうですけど。ノジエールが裁判で出した「動機」も保身のために出したもんなのか事実なのかが判別がつかないのでにんともかんとも。手記でものこしといてくれたらよかったのにな。親殺した身で自分への同情や哀れみを乞うてしまうあたり冷血でしたたかってのはたしかみたいだけど。リアルタイムにはこのシチュに骨抜きにされたオヤジたちが続出したらしいすけどね。シュルレアリスト含めて。オヤジたちはノジエールに大虐殺されてしまえばいい。

あとノジエールとは関係ないけど、リンクしたシャブロルインタビュー本の134頁にシャブロル作品を貫いてる概念が書いてあって、それは「傑作をつくらない」ということなんですけど、徹底しないという品の良さが前提なんだなーと思いました。登場人物の会話がたとえ危機時だろうと常に上滑りしてて軽いかんじなのはそれが原因なんすね。要するにカッコつけですけど、下品にはしない(=美を保つ)という矜持のもとに「物事を映さない」というのはそれはそれでストイックなことなので納得する。赤ずきんの「映さない」はヘタレがいろいろな目を怖がって妥協を重ねたすえのご機嫌伺いDMなのでバカでどうしようもない。

 

ほかのについては順次かいてゆきます。