そこにあるのに気づかないモノの件 2

   
 

「霊をみる」素質を持っている作者が描く体験語り漫画でちょっと前ので有名なのはこの作者さんのですけど、90年代前後までの霊感体質作者漫画の傾向って、玄人間での常識がひたすらやりとりされる光景を好事家だけが覗き見する的なところが売りだったように思うんですけど、でもそのテの作品て、作者さんはそんなつもりでなくても「お前ら(=読者)みえない連中には何いってもムダ」みたいな「霊がみえない人」をあらかじめ閉め出して進行してるふうな雰囲気に包まれてるとゆうか、こう作者側と読者側の間に超えられない壁のようなもんが「あってあたりまえ」がまるでマナーかのように霊体験語りジャンルを覆い尽くしてたふうに思う。でも三巳華さんの霊体験漫画は前提として「妄想なのかなんなのかわからないけれど」わたしはこんなモノがみえます、という態度を表明していて、これってなんてことないように思うだろうけどこのジャンルではすごいことだと思う。生まれついて霊がみえてしまう体質の人からすると、霊がみえることが当たり前だからこそ「みえているモノ」について語らずにはいられないだろうし、むしろ語らずにいるほうが自分を欺くことにもなりかねないから誇り高いヒトほど他人からなにを言われようと「みえているモノ」についての語りをやめたりせず、むしろ否定する向きを説き伏せようとすらしてしまうだろうと思う。でも、誰かの「みえているモノ」が「霊」かどうかはほんとうは誰にも、当人であろうと断定することはできない。ただの妄想かもしれない。面識のない不特定多数の「霊がみえる」人がみたときに、その全員が「みえているモノ」についてまったく同じ感想を抱いたりすれば限りなく「霊」と呼ばれるモノに近いってことになるのかもしれないけど。先に出した「ちょっと前によくあった」霊体験語り漫画は「みえるモノ」が「霊」断定で迷いもなく進む作風なんで、疑り深い人や一見さんなんかは門前払いされちゃうんですよね。そうゆう人は読まなくていいですから、てさ。なんつーか…「霊がみえる」人というのは世間的にはただでさえ詐欺師ゲテモノ扱いなのに、そのうえで当の自分までが自身に疑いを抱いたりしてたら何に拠ればいいのやらわからなくなってしまう不安感があってかたくなになってしまいがちだったのかなーとも思う。でもそれって逆効果で、ほんとはなんの業界であろうと「自分を客観視」できることのほうが信用につながるんだよね。自分にはなんなのかわからんけどこんなもんがみえますよ、という三巳華さんの謙虚な作風は、霊について門外漢の読者と同じ目線でいて、どんな世界でもあくまで地続きであることを感じさせてとても親しみやすい。この霊体験漫画の過去と現代の違いって、80〜90年代のグルメ漫画と2000年代のグルメ漫画の構図となんか似てるんですよね。景気のいいころのグルメ漫画ってありえない高級食材や高級料理を選ばれた人間だけが堪能するのを平民(読者)が指くわえて眺めてる、みたいなのばっかなんですけど、最近のグルメ漫画って孤独のグルメめしばな刑事タチバナをはじめとして読者と同目線で地続きが売りだし。「下の者が上を見上げる」構図から「身近なことを自分のことのように考える」という作風推移が景気が原因してのことかはわからんけど、超えられない壁の前で思考停止するよりはずっといい傾向に思える。霊がみえるヒトの件にもどしますけど、上記画像じゃないけど霊関係の世界ってなんかこう弱ってるヒトが自分の抱えてる問題を第三者に丸投げ解決さそうとして頼ってくる場合が多いっぽくて、霊みえるヒトもよっぽどしっかりしてないとそうゆう輩にひきづられてアホの子になっちゃうことがわりにあるようなんですよね。裸の王様じゃないけど「特定の人間だけがみることができる」という側面は詐欺師におおいに利用されやすいネタだしな。詐欺師が数千年にわたって大活躍した結果「霊みえる人=善人」て無邪気に思い込んでる方(霊関係の知識がまったくない一般人)が大量に根づいてるんだろなー。ガチに霊がみえるからって善人とは限らないのにね。みえるかどうかと性質は関係ないっすよ。

三巳華さん漫画の2巻め内容についてですが、巻末に「お祓いは日々鍛錬してるプロの人にまかせないと危ないですよー」みたいに書いてあったけど、鍛錬してるプロ霊浄化の人って要するにドロ沼不倫中のおばさんとか妄執抱いてるオヤジとかと対峙するために日々鍛錬してるってことなんすね…。なんか三巳華さん漫画に描かれてる霊のヒトたちってどの人もただ想いをこじらせただけのふつうのヒトっぽいんですよね。生きてるときにはフツーでも、死んで霊になってもまだ問題を抱えてると化け物のようになってプロ浄化師に脂汗を流させてしまうものなんですね…。三巳華さんが「霊はスルーがいちばん」て描いてますけど、それっていちど関わるとイチ家族の問題に首つっこむようなもんで、その霊の人がなににつまづいてるのかいちいち掘り出してあーだこーだやってあげなきゃずっと絡んできてこっちの体調まで狂ってきかねないからなんですね。働かなきゃ食ってけないイイおとながそうゆう件にかまけてるわけにいかんもんなあ。ボランティアでどんどん浄化してけばそのうちなくなったりするのかな?三巳華さん漫画に描かれてる巷でウロウロしてる霊ってみえるヒトに対して色々かましてくるみたいだけど、なんか人間の怖がらせ方とかよくわかってるよね。あの世でホラー映画でも上映してて霊たちに怖がらせかた指南したりしてんのか。あと三巳華さんが徐霊チャレンジした件の錠剤自殺した女の子の話とかみると、自殺が救いでもなんでもなくて、たまたま三巳華さんのようなヒトに巡り会う幸運がないかぎりは怪物化して不特定多数の人に迷惑かけまくるエンドレス通り魔状態に陥るもよう。自殺を考えてるヒトはこの三巳華さん漫画をじっくりよむように。その自殺した女の子の話で三巳華さん談として「正直”神様”が人を助けてくれるなんて半信半疑だったので」て書いてありますけど、ああいう祀られてる存在てのは本来的に人間を助けるモノではないんでしょうかね。そもそも神社は神の前で誓いをたてるための場所であって、お願いごとをするところではないってのは聞きますけども。あそうそう、神様についての疑問なんですけど前巻のド派手狐さんが授けた子が「最後の輪廻」だと言ってたけど、人間への輪廻が終わると次は何になるのかしら。ああいう神社とかに据えられるもんとか空気や水になるのかしら。人間に生まれるのがいちばん醍醐味なんだけどな。ヒトによっちゃお勤め終わっちゃうのか。前巻の謎といえば三巳華さんが割れた数珠をそのへんの道端に捨ててるけど、あれは拾われて当たり前だと思った。目線の低い子供なんかぜったい拾っちゃうよあんなの。なんでみえないように包んだりしてゴミばこに捨てないかね。ちょっとガサツなヒトに思いました。霊の世界に淫する人ってちょっと常識はずれな傾向がちな気が前々からしてる。
2巻めの件にもどしますけど、三巳華さんが地元調査してる中に教授の方と出くわした話じゃないけど、霊がみえるヒトは霊の形がみえたり声が聞こえるだけであって、その背景やら事情やらまでみえるわけじゃないんですよね。霊がみえるくせになんなのかわからないんじゃねーか!て頭ごなしに嘲笑する霊否定の人がいますけど、霊がみえるヒトや霊のしくみについて知ろうともしないのにそりゃねーと思うよ。なにしろ霊は人間であるかぎり誰でも関わるってことで。簡単にしぬなってことに思う。

余談ですけど、たまに昔ながらの定食屋的なとこで出てきた料理をケータイで撮影すると料理にちっさい顔らしきもんがいくつか写ってて、それたべるとなんか胃腸の調子が悪くなるんですけど、写メ撮ってああいうのついてたときどう食べれば胃腸の調子が悪くならずにすむのだろうか。今までで2回あって、中華街のは行かないからまあいいとして、もういっこは日本橋のレトロ店でできれば何回でも行きたいんだよなー…。いろいろな意味でうれしくなる店でさ。すきなんだよ。でもうけつけない。