それは君のセルプホフ通りなのだ


タルコフスキー 鏡の中の父と子(8日。馬喰町ART+EAT)→緑子/MIDORI-KO(アップリンクX)→レア・エクスポーツ 囚われのサンタクロース(ヒューマントラストシネマ渋谷)とみまして、馬喰町のはアンドレタルコフスキーのお父さんの詩についての話や原語での朗読をきく会でしたが、日本ではさっぱりなじみのないロシアの詩世界事情についての前田先生のおはなしがすごく面白かった。なんかロシアでは詩人の地位は小説家よりも高いらしくて、人気のある詩人の朗読会ともなるとスタジアムに客が満杯になるレベルで開催されるんですって。ロシア市民間にそうまで詩が浸透してるのには義務教育の授業で叩き込まれるって理由もあるみたいなんですが、それ以上におそらく反権力的なイメージが強いんでしょうな。スタジアムライブつーたらロックバンドだし。詩に関して腹にイチモツある身としては詩から快楽を得ようとする国民がひしめいてるつーのはなんとなく羨ましくもあるよ。そういやレアエクスポーツのなかで登場人物が「ここら(フィンランドの深田舎)の普及品はロシアじゃ最新鋭器だ」てこぼすシーンがあるんですけど、わりとのんびりとした風土てことなのかな。質問の時間のときにロシアで知られてる日本の詩人ていますかーて前田先生に聞いたら、なんか松尾芭蕉だの清少納言だの古典のもんがやたらに好まれてるそうで、現代詩人はまったくといっていいほど知られてないらしい。詩で生計をたてたい野望のある詩人の方はロシア語習得してロシアで詩人やったほうがくってけるかもよ!!肝心のアルセーニイさんの詩はロシアでは既に古典として認識されるほどの重鎮扱いらしい。そのアルセーニイさんの息子であるアンドレタルコフスキーの撮った「鏡」て映画は父であるアルセーニイさんとの関係が深く絡んでるらしくて、そこらへんの事情をしらないと理解はむつかしいみたいすね。かえって未見でよかった気もした。「鏡」に関してアンドレイはなぜか父親と同じような人生を歩んでしまうことを考えずにいられなかったみたいで、それと父親の詩の「すべての事物に過去の記憶が溶け込んでいる(それに加えて詩集のp.44にはすべての光景は新たに生まれた者のモノなのだという意味の詩も書いている)」ふうな描写を盛り込んで撮ったってことなのかなーと思った。鏡がらみだとクローン的なもんが生み出されるソラリスも似てる気がする。ソラリスは最後に主人公がお父さんの幻にすがっちゃうんだよね。前田先生にロシアでの森についての認識について質問したら「とりあえず森に行きゃ生きていけるって場所です」「父なる森」て答えをいただいたんですけど、森といえば「母なる森」だよね?ロシアでは森が父性をあらわすんですね。なんか意外だった。社会主義のなごりかなんかなのかな。恵みをもたらす強い権力者的な。そもそも「森=父」つーと林立する木々がなんとなく屹立したブツを思わせるんすけど。ART+EATでの対談は前田先生と滝本さんだったんすけど、いつもとちがう客層(ロシア語翻訳教室の生徒さん?いつもとはあまりに異質なんで一瞬韓国映画目当てのおばさんが流れてきちゃったのかと思った)のせいか滝本さんの良さがあまり出なくて残念だったな…。タルコフスキー映画に関しても詩に関してもかなりいいたいことはあったろうに。それに関してはタルコフスキーの映画に関するイベントで詩とアンドレイ映画について造形の深い方が相手じゃないとムリなのかもしらん。朗読はニキータ山下さんとゆう朗読のプロの方が披露してましたが、ロシア語なんで意味はわからんかったけどあのヒトは朗読のプロの方ですな。すごくよく通る声の出し方が演劇がかってた。あとあのイベントスペースらへんてなんかオサレーな店だのギャラリーだのがけっこうあるんですね。海渡あたりは実母とよく買い出しにいく場所なんでなじみでしたけど、反対側があんなふうに栄えてるのってさっぱりしらなかった。問屋街の場所柄いろいろ便利なんだろうか?それとも家賃がわりと安めとか?

レアエクスポーツはふつうのファミリー映画です。題から勝手にエクストリームスポーツ的な「狩る」系の血みどろ映画とばかり思ってたんですけど、そもそもスポーツじゃないし。英語の堪能な方は題みて即ネタが割れる。あの題すごいネタバレだよな。レアエクスポーツのチラシに檻に入れられたサンタらしき人が入ってる絵が描いてありますけど、そもそもあれサンタじゃないんすよ。妖精なんです。ふつう妖精つーとフィギュア大の少女に羽が生えてる的なの想像するじゃん?フィンランドで妖精つーと全裸のおじいさんで、雪原を徒歩でやってきて子供をさらうモノらしい。変質者とどう違うのかわからん。その全裸のおじいさん妖精がなんで子供さらうのかっつーとサンタに操られてるからだとかで、そのサンタは氷漬けで全体像はみれないんですけど、なんか山羊の角くさいもんを生やしててラスボス的に巨大だし、どうみても悪魔なんですね。原初のサンタつーのは実は「悪い子におしおきしにくる」なまはげ的な存在だったらしくて、大昔に地元住民によって封印されてたサンタをアメリカの企業が掘り出してどっかに持ってく最中に妖精に狩られはじめて云々…みたいなスジ。そもそもアメリカの企業はサンタ持ち出してどうする気だったのかとかなにげに放りっぱなしだな。ぜんたいスラッシャー映画好き的に「そこ映しとかないと!」て場面が予算の都合上さっぱり映されない進行すぎて客席がまったりと苦笑に満ち満ちていた。親子でみるのがちょうどよいかんじのヌルいやすい映画です。主人公の男の子んちは父子家庭で、お父さんがちょっと苦労してるふうな描写があるんですけどそこがなんとなくよかったかな。あんなだだっぴろい北欧の深田舎で父子ふたりきりでポツンと暮らしてるって自体がちょっとこわいかんじがしなくもない。主人公のコもちいさいけど自衛できるようにちゃんと散弾銃携帯してるしね。ああいう北欧の深田舎ならではの厳しいながらものんびりした雰囲気の生活描写はアメリカの映画ではぜったいできないだろうなーとぼんやり思った。深田舎ならではの厳しさじゃないけど、レアエクスポーツの結末がトナカイの損失の穴埋めのために妖精を売り飛ばすってオチでミもフタもなかった。前半と後半がやたらに現実的で真ん中だけファンタジーつう。なんだか北欧はファンタジーも心地のよい夢見がちなもんではないんだねえ。子供をさらいにくる全裸のおじいさんだもんな。チビッコだけは少年でもおんなのこみたいな風貌したりしてるけど。そういえば妖精たちは全裸なので局部がボカされてましたけど、人間じゃないのでボカシは必要ないのでは。

緑子はなんか宮崎駿ソープランドアニメをおとな向けにグロくつくりなおしたかんじの作品。完成まで10年以上かけて全編えんぴつ画で描きとおしたそうで、質感の点では間違いなく芸術映画ですけど、キャラクタの声を涼木なんとか?いうプロのアニメ声の方が担当してるせいか芸術映画と商業アニメの間の子みたいなふうに感じた。基本的に妖怪じみたモノが跋扈する異世界で、野菜売りをして暮らす少女の部屋に緑色のドッジボールみたいのが飛び込んできて、そのドッジボールが成長すると人間の子供のような風体になってくんですけど、異形の住人たちがその子をみるとどうにも食欲を掻き立てられるらしくて、喰いつこうと襲いかかってくるのをちぎっては投げしながら暮らしていたある日にとうとうその子が住人たちに拉致されてしまい…みたいなスジなんですけど、キャラクタや展開についての説明がいっさいないので話がどうとゆうより異形のありさまをたのしむ作品なんだと思う。主人公のコがなぜ野菜開発してるのかとか、緑色のドッジボールをつかまえようとするおっさんたちがなんなのかとか徹頭徹尾わからないままなんすよね。緑色のドッジボールが変遷する転換点にかならず太陽が絡むので植物の光合成的なモノについて描いてるのかもしらんけど、どれについても理由がよくわからない。お客さんにちいさいお子さん連れの方がいたみたいで、要所要所でその子の笑い声が聞こえてましたので大人からするとただのグロでも子供からするととてもたのしいモノなのやもしらん。最初に緑のドッジボールの誕生を阻止しようと飛びかかってくかぶりものした5人のおっさんたちがいるんですけど、後半でまたでてきて戦隊モノよろしく「マンテーニャの星」のテーマを歌いながら全裸で星形になったりしだすのがなぜか心に残ってる。マンテーニャの星の歌詞とメロディを覚えて口ずさみたいのでアルバム化して販売してくれたまえ。