風景画描きがひんぱんに行ったニューイングランドて魔女狩りがあったとこだっけ

キャリー(10日。ギロッポンヒルズ)→ラストエクソシズム→モーリスドニ(16日。東郷青児美術館)→モダン・アート, アメリカン 珠玉のフィリップス・コレクション(国立新美術館)とみまして、モダン・アート, アメリカンはアメリカ人画家が描いた絵に価値がさしてつかなかったころ、アメリカの画家たちはフランスあたりの印象派の手法で郊外の風景画ばかり描いてたんだけど、戦争がきっかけの愛国がらみで自国内に目を向けはじめたことから「アメリカ人がアメリカを描いた絵画」が評価されはじめるまでの過程を年代ごとの絵でたどってゆく展。これ集めたフィリップスさんはやっぱしそうゆう流れ前提であつめてたのかしら。アメリカ絵画の原初としてしょっぱな展示の「ロマン主義とリアリズム」コーナーにウィンズロー・ホーマーの「救助に向かう」て絵がありましたけど、ここらへんの「あるドラマの1場面」を切り取ったふうな劇画ちっくな流れ(*)って一過性のもんじゃなく、その後も連綿と続いてくよね。展示にもでてたロックウェルケントに顕著だけど、これは絵画界と同時進行で挿絵の世界が別個に続いてってることと切り離せないよね。ホーマーあたりからベロウズとかのアシュカン派経てアンドリューワイエスにつながってくあたりで絵画界から枝分かれして挿絵界を経て現代までつづくアメコミまでの流れに続くっつー(その間にパルプ小説の表紙画も含む)。それ考えるとロマン主義ていまもわりと続いてる気がする。現代でロマン主義つーと厳密にはハーレクイン小説みたいなもんにあたるのかな。「あるドラマの1場面」をリアルに描く手法では挿絵寄りのヒトが画面内の人物の動きをドラマチックに描くのに対して、絵画寄りのヒトは表情を重視して描いてたようで、展示にあったトマス・エイキンズ(全裸性癖)の描いた「アメリア・ヴァン・ビューレン」て女性の肖像画は物憂げな雰囲気でソッポむいてる系譜はおそらくホッパーあたりの空虚さ描写に続いてくのかなーと思った。「近代生活」コーナーにアシュカン派とホッパーの絵が展示されてるんですけど、そのなかにウォルト・クーンてヒトの描いたでっかい羽飾りつけていかにも華やかないでたちの踊り子とおぼしき女性の腹から上を正面きって描いた絵があるんですが、その女性が死んだ魚みたいな暗い目で「もうこんな仕事やってらんね…」的な疲れきった顔つきしてて、きらびやかな衣裳と暗澹とした表情の落差かげんが「アメリカンドリームの頂にはなにもない」もしくは「アメリカンドリームの頂では転落が待っている」的な不穏さを醸し出しててたまらんのですけど、ここらへんみてるとホッパーがなにも唐突に生まれたんじゃなくそれまでのいろんな積み重ねがあっての産物なのだなーとしみじみした。んでエドワードホッパーの「日曜日」があるわけですが、閑散とした木造家屋(店舗?)に背を向けて、ひとりの中年男が口を半開きにしたまま両肘を抱きかかえるようにぽつんと座ってる絵なんですけど、題名が「日曜日」なのにすこしも安らがない雰囲気の絵な。まるで氷の壁にでも囲まれてるかのように男の背後に屹立する家屋の冷たく乾いた色。半開きの口の中と開いた両目が同じく闇に閉ざされている。氷漬けにされてるサタンはきっとあんなかんじなんじゃなかろうか。たくさんの人がいるのにいつも自分以外だれもいないアメリカの地獄。人間であればだれもが経験したことのある孤独に根ざした恐怖を描いているのだけど、欧州でもアジアでもない、まごうことなくアメリカの絵なんだよな。アメリカ人が自分が何者であるかに気づくまで、あるいは気づけばそこにはだれもいず、闇がただ口を開けていた。この「日曜日」て絵だけなんとなくストーンハムさんの呪い絵に似てる気もする。どうしてかわからないんだけど、あの正面向いてる少年は両目から涙流してる気がするんよね。展示されてるホッパーの絵ではほかに「都会に近づく」て題した絵でまちがってシャッター押しちゃった的に線路とコンクリの遮蔽癖と建物だけの絵があるんですけど、これもまちがいなくアメリカなんだよなー。鉄道がアメリカ発展の象徴って情報がそう思わせるんだろうか?線路の向こう側に建ってるコンクリ建造物の窓の形状がそう思わせるんだろうか?つーかこのあられもない無情なむきだし感こそがアメリカを感じさすんだろうな。ホッパー以前にはまだのどかで、柔らかな宵闇に包まれて帰途につく市民と列車のようすを描いたスローンの「冬の6時」がレトロフューチャーを感じさせてよいですし、1日の終わりの心地よい疲れに包まれるアールデコの黄昏とでもいうようなエルシミアスの「ニューヨークの屋根」(←この絵のタッチさー展示の最初のほうにあったジョージイネスの「月明かり、ターポン・スプリングス」にすごい似てる。どっちもとけこむ夜のようすを描いてるし)なんかも騒然としているアメリカの都市をようすを牧歌的に描いていて美しい。アシュカン派は冷たいにしろ暖かいにしろ、ひとの息吹を感じさすとこがいいですね。この2作のあるコーナーでは都市を描いた絵が展示されてるんですけど、チャールズ・シーラーの「摩天楼」なんかはおろしたて新品のアールデコみたいな調子で高層ビルを描いてていいですね。これはレンピカの系譜なのかな。遠景から描いた建造物と人の絵ではドリス・リーとかアンドレ・エルランの絵が箱庭人形ちっくで微笑ましいかった。玩具の家みたいなビルとミニチュアくさい人々の可愛らしさ。玩具くさいといえば異色なもんとして国吉康雄の「メイン州の家族」つー移民を民芸品の人形的に描いた絵がなんかちょっとおもしろかった。アメリカの中の異国感がブキミ人形的な雰囲気でよりわかりやすい。その後は印象派的な手法で満足できないヒトたちの抽象方面の絵の展示が続いてくんですけど、キュビズムの遺産コーナーにあるカールクノスとナイルズスペンサーあたりの「形と色が崩れる直前の一般に認識されうる形状をかろうじて保ってる」くらいでとどめとくのがちょうどいいかなーとか思ったりした。でもあすこらへんに目覚めちゃうと先進めずにいられないみたいすね。好き放題叩き付ける抽象画て共感要素がすくないぶん、自分とこのみのあうのをみつけるのがけっこうたいへんなんよね。まあ画家がやりたい放題やってんだから当たり前なんだけど。このコーナー内にあるジョングレアムの「ブレア通り」がキュビズムちっくなふしぎの街角を描いてるんですけど、これアメリカじゃないよね?この絵はどうみてもフランスとか欧州の雰囲気なんすけど。その後はポロックみたいなバリバリの抽象画が展示されてるわけですが、そのなかにひとつだけマースデンハートレーの「野ばら」つう印象派ちっくな静物画があるんですけど、色合いのコントラストのせいかみょうにきれいで、抽象画をスルーしてるお客さんもその絵の前でだけたびたび足止めてまじまじと観てました。「〜派」のスレスレでとどまるってたいへんだろうけど、よいと思うよ。そうゆう絵ってどれもふつうにきれいだし。ギリギリで極めないって色気からなんですかね。そこらへんのニオイがするのはいちばん最後のコーナーにあった、102〜106あたりのリチャードディーベンコーンとかにわりと顕著なかんじ。抽象的な印象派とでもいうのかな。リンチもちょっとそんなかんじ。リンチは指先から味わう塗りの恍惚も含んでるのでいろいろちょっと異質。アウトサイダーアート入ってる雰囲気もするし。展示はさいごにロスコがぽつんとあったけど、なんかちっさいすね。追記(10/24)。このロスコと隣にあったアルバースの四角画は「近代生活」らへんの高層ビル画とセットで展示したほうがより「アメリカらしさ」が感じられるような気がする。そっちと切り離されて四角ペインティング単体でみせられてもいまいちわかりづらいよ。せっかく同じ場にあるのになー。

文ではもれたけど雑感。
ジョージベロウズは黒のドレスがやたらうまいけど、なんであの絵。ベロウズだったらボクシングの絵もってこなきゃ。あ、フィリップスコレクションにはねーのか。
・アーサー・G・ダヴって何者?なんか…にっぽん昔ばなしっぽい画ヅラの絵がほのぼのした。電気を帯びた桃園とかおじいさんの畑っぽい。赤い太陽なんかど真ん中で赤い丸がぐるぐるしててよけいにちいさい子むけアニメっぽい。アーサー・G・ダヴかわいい。
・ロックウェルケントの油絵はじめてみた。やっぱし画面内の風景や人物すべてが分離派的な様式美キメ配置で描かれてるなー、骨の髄から挿絵画家だなーと思った。
ジョージアオキーフの絵はじめてみた。構図の大胆な豊満さと形状線のやわらかな色気にくすんだ鈍い輝きが滲みていてとてもきれいですね。このヒトはひとつのモノの質感をていねいに描きたいみたいなので、画面のなかに描くべき要素がゴチャゴチャたくさんある絵(展示の「私の小屋、ジョージ湖」)を描くとなんだかちっさい子供がいっしょうけんめい描いた稚拙な絵みたいになっちゃうのな。枯れ葉や花の絵もいいけど、展示にあったランチョス教会の絵がういろうみたいできれいだったなー。
ヘンライの絵が1枚だけある。背景黒でキラキラ輝く女の子の笑顔をささっと描いています。コントラスト効果で輝いてるふうにみえるように描いたのね。そういえばモーリスドニは雑多な展で1枚だけみるぶんにはパステル調の淡い色合いがすごくきれいにみえるんだけど、東郷青児の展のは子供の絵ばっかしでなんだか…年賀状でみる他人の家族写真を延々とみせられてるようなかんじで辟易した。もうね、ひたすら自分の身内の絵ばっかりなんよ。技法でも構図でもそれ以上のなにかをみせてやろうみたいなのがビタ1文ねーの。なんなのあの精神的に閉じこもりきった展は。風通しが極端に悪い。あれに比べたらひきこもりだったヘンリーダーガーの絵のがよっぽど自由だよ。ダーガーもドニと同様に強烈なキリスト信仰のヒトなんだけどね。なんだろうドニのあの見世物精神のなさは。オエェて思った。自分の心に忠実に、つーても「家族への愛を他人に見せびらかしたい」てのはなぁ…。そんなんどうでもいいよマジで。鑑賞者とサシの勝負しようとしてねーだろ。ガキなんかどうだっていいからてめえの性癖みせてみろよ。ヘンライもアジるときは正しいんだけど、実際に絵を描く段になるとちょっとそうゆう傾向にある気がする。忠実になるべき「欲求」を勘違いしてるっつーか。ヘンライは出自が原因で恥ずかしい部分をむきだしにできないからそうならざるをえなかったのやもしらんけど。


 
*…そもそも欧州のキリスト画がもろそれですね。