スローン伝もいいけどその前にアシュカン派の本なり画集なりがよみたいですよ

『日常生活の中で見慣れた物でも、見れば見る程、その本来の用途や目的を忘れさせ、初めて接する物の様に思えてくる事もある。その時の視覚や感覚が、先入観や観念を追いはらい、新たに個人的な関わりを持ち始めてしまうからかもしれない。当り前の物でも、あえてこだわれば、もう当り前でなくなってしまう。そこで初めてリアリティに触れたと言えるのではないだろうか。』

磯江毅=グスタボ・イソエ マドリードリアリズムの異才(23日。練馬区立美術館)→マイブリッジの糸(東京都写真美術館)→サヴァイビングライフ 夢は第二の人生(イメージフォーラム)→アートスピリット刊行記念 野中邦子×滝本誠(2日。オリオン書房ノルテ店)とみまして、上記『』内は展示内にあった磯江さん談から抜粋したモノ。白いまるい皿に食べ荒らしたふうな魚の残骸が1つのってるチラシみて写真だとばかり思ってたんですけど、これ全部絵なんですね。超リアルなタッチの。写真と区別がつかないほどの筆致なら写真でやったほうが早くね?とも思いますけど、磯江さんは絵でしかできないことをちゃんと仕込んでますな。遠目からみるとわからないんですけど、近寄ってよくよくみると描かれている構図ではありえないような「描き手」側のつけたと思しき液ダレとか瓶底汚れのような痕跡がぜったいに付けてあって、この作品は写真ではなく絵画だし、その描き手が絵の内側でなく鑑賞者と同じ側にいるんだぞ、という画家の存在主張が濃厚にニオってきます(28の絵に描かれた割れガラスにはうっすらと画家の顔が描かれてるくらいだしね)。写真は作品の内側に撮り手自身とその記憶の両方がおさまっているモノですけど、絵はたとえ人間が描かれていても写真とちがって絵の内側にはだれもいない(絵空事)ですからね。磯江さんは写真かとみまごうばかりの超リアルタッチを用いながら「この中にはだれもいない(=この作品がすべて絵画であるという証左)」をも同時に描いてるとゆう、なんとゆうか写真に対する挑戦のような作風ですね。おもに静物画が中心で皿の上にのった朽ちかけの食物と汚れた瓶とか、横たわる裸の女性の絵なんかが多いんですけど、基本的に画面は白や灰色といったモノクロ調の比率がかなり占めていて、その中心に野菜や果物がひとつふたつ置いてある傾向。数少ない彩りを放つ食物もよくみれば微妙に枯れかかっていたり萎びていたりとあまり新鮮さのない雰囲気。脇に置かれた瓶や缶も錆に覆われて茶ばんだり土汚れがついてくすんでいる…。なのにこれらがとても美しくみえる。「収穫」と題された絵のような、黒っぽい背景の真ん中に鮮やかな植物を置いたようなコントラストのきいた絵ならばわかりやすいんですけど、汚れや傷みのある白い石壁じみた寒々しい色が画面を支配しているときに美しさを感じるのはなぜか?それは絵画やデザインに於いてモノクロを美の方向に配するとき、おもに人工物が照り返す輝きをあらわしているからじゃないかなと思う。アルミや陶器といった光を反射する物の。「光」には色はないのだけど、モノクロに美を見出すときにその輝きへの恍惚を思わせるなにかがあるように思わせられるんじゃねーかとなんとなく思う。黒っぽい背景の中央に色のついたモノが置かれてる系の絵で白い器が描かれてる作品があるんですけど、その白い杯(56)や器(15)のやわらかい輝きのとろりときれいなこと。淡茶色の同系色が画面ほとんどを占めている絵(19)なんかはその描かれているモノすべてが輝きの恍惚をたたえているといわんばかり。静物画で描かれる人工物はどれも汚れや朽ち果てた腐食ぐあいがかなり描き込まれてるんですけど、あれは時間の経過を表してるのかな。絵の中央でかろうじて朽ちずに彩りを放つ食物よりもずっと長い時間を過ごしてきたとでもいうように。気の遠くなるような時間を保てるモノ(命をもたぬもの=人工物=秩序)とごく短い時間で頽れてしまうモノ(命をもつもの=自然物=混沌)。描き手の厳然たる意志によって配置されたにも関わらず自然現象によってしか現れない捉えがたいなにかを描いているあたりがちょっとハンマースホイに似てるかんじもする。あの人もモノクロでもって恍惚を捉えようとしてたし。時間の経過の落差感が描かれてる系では39の蘭の絵に顕著で、きれいな蘭の花の半分が薄汚れたガラス板に覆われてる。磯江さん絵でたまーにガラス板が描かれてるのがあるんですけど、あれは時間というフィルタの役目なのかなとちょっと思ったり。代表作といわれる37の「深い眠り」て裸体女性画は近寄って女性の体部分をよくみると全身にかなり汚れのようなモノが描きこまれてて、あの絵自体が「朽ち果てようとする記憶」ということなのかなーとか思った。ほかにも横たわる女性画があるんですけど、新聞紙の上で目を閉じてたりするんでなんとなく死体くさい雰囲気。あと全部とおしてなんとなく四角と丸が多かったような。

シュヴァンクマイエル映画は冒頭でお金がなくてこんなつくりになっちゃったんですーてゆうけどあれは単なる誘導で「エルンストのコラージュがすきすぎてほんとは慈善週間を映像化したかったんですけどさすがにいっぱしのアーチストとしてそれはどうかと思ってこうなりました」て含みなんだと思う。首から上がニワトリの人間とか意味なくでてきますよ。話はまあなんか夢で求めてた女がママンだったっつー夢モノではど真ん中なネタだった。シュルレアリストは基本的に男女間の痴情のもつれ(feat.殺人)ネタを扱わずにいれないよね(シュルレアリストではないんだろうけど、最近買ったストルガツキイ小説がその基本に忠実な作風でうれしくなった。こんな作家がいたとは!!)。つーかシュヴァンクマイエルはふつうに慈善週間を映像化すればいいのに。すればいいよ。

マイブリッジの糸は咀嚼する間もないほど短かったんでよくわからんすけど、あのマイブリッジの写真は被写体が並んだカメラのシャッターにくっついてる糸をブチブチ切りながら前進してんですね。そこらへんと親子や夫婦のつながりと切れ目を描いたふうな作品だった。もっと長ければなあ。

アートスピリット対談は滝本さんの印税配分とか野中さんの分厚い翻訳の今月〆切とかなにげなくえげつない話がしずかに語られて柳下さんがすやすや寝てた。ヘンライの焚き付け(貧しくとも魂は失うな)と村上隆の論理(金持ちに跪け)が真逆なのはデュシャン前と後とで美術市場の事情がまるでちがくなっちゃったからなのかな。対談では朝日にのった横尾さん文が引き合いに出されて何度も何度も同じようなことが暑苦しく繰り返されるから読みづらい、みたいなことがやっぱ言われてましたけど、そこらへんは構成(だれかへの批評や手紙並べ)上しかたないのかなーと思いましたけどね。まあ野中さんのゆってたとうりたしかに通しでは読みづらいんですけど、基本的にすごく紳士で常識的な考えがブレることなく語られてるので一貫してさわやかな雰囲気だし。それにしては自分の恥ずかしい部分とかにあんま触れてなさすぎなとこに次第に疑問符がついてってしまうんですけどそのへんは滝本さんが解説で補っているしね。赤毛の奥さんとの夫婦喧嘩的なエピソードくらい自分で語ったらアジりにも説得力が増したろうに。増さないか。