権威になることは死も同然だった

ウィ・キャント・ゴー・ホーム・アゲイン(26日。有楽町朝日ホール)→あまり期待するな(日劇)→奪命金(27日。日劇)とみまして、ウィキャントゴーホームアゲインはニコラスレイつー大御所監督さんが映画づくりをビタ1文しらない大学生たちにいろいろ吹き込みつつ撮りためていったモノを劇映画ふうにつなげた実験作品で、なんか明確な筋書きはないらしくて、ひたすらカメラに映る演じ手の学生さんのもつ「いいところ」をあぶりだせた(というかニコラスレイの琴線に触れた)シーンのみで構成されてるふうなつくりなのでまっとうな物語を期待して観てしまうと肩すかしというかマジわけわからんのですが、この作品のなりたちを追った「あまり期待するな」をみてからならばたのしめるやも。「あまり期待するな」はニコラスレイという監督さんがどんなヒトなのかがよくわかるし、単発でみて十分たのしめるドキュメンタリー映画なので、まずはこっちをみて興味がわけばウィキャントゴーホームアゲインも、とゆう順番がしぜんな気がする。おいらは逆だったんでウィキャントゴーホームアゲイン鑑賞がちょっと苦行だった。事情しってりゃたのしめたのになー。ちょっと寝ちゃったこともあって細部うろおぼえなんですけど、ウィキャントゴーホームアゲインは男女が痴話ゲンカみたいなことを終始くりひろげてるふうなんですけど、演じてるヒトのゆってることが会話になってないっつーかつじつまが合わないっつーか…なんかこう…感情が爆発してるときの女性がドラマ中でよくいうセリフテンプレをぜんぶつめこんだみたいなふうなんですよね。下半身はだかの女子大生がベソかきながら性病感染して膣が炎症を起してるの…皆があたしを蔑む!冷たいトマト食べたいぃ!!あんたパンツはきなさーい。晩ご飯はカリフラワーね。みたいな。やりとりされるセリフはまるで意味をなしてないんだけど、そのセリフ吐きだしながら演じてるヒトが映ってるシーンにやたら異様な迫力があんの。あれは「セリフの内容」と「演じ手の本性がでる際の生々しさ」とはいっさい関係がないっていいたいのかな?演じてる大学生たち各々の味わいをニコラスレイが逐一あぶりだした標本的なモノとしてみれば面白いのかも。ベトナム戦争について怒ってる男女のやりとりについて学生に演じさそうとしたニコラスレイが「ベトナム戦争にマジギレすんのってちょっとムリだろうから君の飼ってる犬を殺すかどうかで言い合いしてるふうに考えてみたら」とか投げかけたりしてて、どうすれば演じ手のいいとこをあぶりだせるのかを常に考えてたヒトだったんだなーと思った。大砂塵つう映画撮った際、なんかクライマックスで女優が激怒するシーンがあるらしいんですけど、どうもその女優さんが激怒する演技に集中できないでいたらニコラスレイがその女優さんの衣裳をぜんぶもってきて水たまりにぶちまけてトラックで轢いたらうまいこと激怒シーンが撮れたとか「あまり期待するな」でやってたし。女優つーたら普段外見に気使ってる女ナンバーワンだし、そうゆう人の目前で服やら宝飾品やら高級化粧品やらをブチ壊したら確実に鬼がみれますよ。ジェームズディーンの映画を撮る際も、ディーンがどういうヒトなのかをしるために撮影前にディーンと2人で車でアメリカ横断したらしい。演じ手のいちばんいいとこを見極めるのがニコラスレイ映画の大前提でそのためには手段問わなかったんだなー。演じ手のいいとこを引き出すがらみでは「あまり期待するな」でニコラスレイのことを「魔法をつくりだす人じゃなく霊媒」だとゆってたな。あとちょうど映画進行と合致した精神状態にあるヒトをすかさず使ったりもしてたらしい。ウィキャントゴーホームアゲインでひげが生え放題の学生さんがベソかきながらハサミでちからまかせにヒゲをブチブチ切ってくシーンがあって、なんだかやたら鬼気迫るシーンだった。いまにもヒゲといっしょに皮膚も切っちゃいそうな危うさと爆発しそうな感情切迫感が充満してた。例によってスジはさっぱりなんですが、こうゆうわけわからんけど迫力のある画ヅラが脈絡無くつづいてくわけです。そんでウィキャントゴーホームアゲインのさいごのほうで痴話ゲンカ繰り広げてた男女のいる家の前にニコラスレイが早朝フラフラやってきて、なぜか納屋で縄かけて首吊ろうとするんであわてて男女が止めにやってきたところを縄にぶら下がって勢いつけてきたニコラスレイが蹴散らして、着地するとへたりこんで「また邪魔されたッ…」とか自分から積極的に仕掛けたくせにしおらしくうなだれるニコラスレイ。ウィキャントゴーホームアゲインでニコラスレイがでるシーンはなぜかコミカルです。アイパッチを両目につけだしたりして。なぜかトボけた爺さん風な謎キャラ。こんなかんじで意味不明場面の連続でなんとなく終わるわけですが、要所要所で小さい画面がふたつくらい同時に映ったり、当時ニコラスレイが衝撃を受けたというモホイナジの手法(プレデター目線をサイケ風にしたような映像)を使ったりとニコラスレイがやってみたいことだけを詰め込んだ映像となっています。「あまり期待するな」でやってましたけど、とにかく新たな映像手法に貪欲なヒトだったらしくて昔の栄華にちっともとらわれず見たことのないもんにどんどん喰いついていくところがすげえヒトだなあと思いました。でも金銭面はド素人くさかったみたいで、晩年は映画のためのカネあつめがあまりにうまくいかない鬱屈をまぎらわすために酒や麻薬漬けになって体こわしちゃったらしい。ジェームスディーンの映画とかばんばん撮ってたころは委託での監督業だったらしくて、監督以外の業務についてはきっとなにひとつ心配がなかったのだろうな。「あまり心配するな」のようすからしてニコラスレイてもろ芸術家肌のヒトみたいだし。芸術的な霊感に長けた繊細な感性をもつヒトには金策だの交渉事務だのやりつづけんのはちょっとツラかったろうな…。安心して才能発揮させてくれるような後ろ盾がいたらもっといろいろできてたろうにな。もったいない。あとニコラスレイは賭け事がかなり好きだったらしくて、でも強いわけでもないからいきなりすごい額賭けてイッキにすっちゃうことがわりにあったとかやってたから繊細なのかどうかよくわかんない。学生に映画撮らすことになったのもあまりにカネがないときにたまたま大学が教授職打診してくれたことがきっかけだったそうなんですけど、カネ目当てのわりにド素人の学生さんたちにつきっきりの同目線で指南しつづける紳士指導者っぷりをフル発揮したり。学生たちへの映画指南にしてもニコラスレイの気分次第で撮影がまったく始まらなかったり、ほんの数分のシーンを繰り返し撮りつづけて数日かかったりと理不尽な体験をイヤというほどさせられるんだけど、それでも学生たちはニコラスレイに絶大な信頼を寄せてたそう。現場の学生たちに怒りや苛立ちはあったけど敵愾心はまったくなかったって元教え子のヒトがゆってた。あと参加希望者や教えを乞うてきたヒトをまったく拒まずにだれでも受け入れてどんどん使ってたとかで、心理的な垣根のとっぱらいっぷりがすごいなーと思った。ニコラスレイの指導姿勢についてはそもそもフランクロイドライトから教わったことに根ざしてるそうなんですが、かっこいい指導姿勢が受け継がれるってのはよいことですなー。TWS本郷で会田誠が女子たちに指示だすところを観察してても思いましたけど、指示される側の作業手から信頼される指導者はかならず穏やかで克つ作業手と同目線を貫いてますね。父親のような安定感がありつつ上から目線でものいったり怒ったりしない。だれもが理解するようなわかりやすい言い回しで指示をする。ウィキャントゴーホームアゲインの撮影グループの1員だったヒトが語ってたけど、ニコラスレイはリアルタイムの若者が何に怒ってどういう状態なのかいつも知りたがってたらしい(そういう意味ではウィキャントゴーホームアゲインはニコラスレイが知り得た「ベトナム戦争当時の若者」の心模様を加工せずまんま描き出したもんでもあるのかも)。今の若者はけしからん的にプンスカして済ます高齢者とは真逆ですわね。そうゆう高齢者がいまの世の中をつくったんだろ!!みたいなスレ書き込みとかみかけるしわからんくはないけど、そうゆってるワシらが今どうかしとかないとこれから生まれてくるヒトたちにおなしことぶつけられるんですよ。過ぎ去ったヒトをどうかするよりも反面教師にして襟正さないと二の舞ですよ。ニコラスレイのように「これから」のただなかにまざるくらいしてかないと世代断絶が後続にも受け継がれてしまう。そういえば本日題は「あまり期待するな」中での奥さん談からの抜粋ですが、ほんとは「権威とは彼にとって限界を意味していた」て前置きがつきます。反骨モノが権威になったら終わりだもんね。ニコラスレイは最後まで死ななかった。ニコラスレイは父上を薬物の過剰摂取で亡くしてるそうで、晩年にそこに淫したのはなんかそうゆう意味も含んでるんですかね。ふつうだと若気の至りで麻薬なんかに手をだして身を持ち崩す→復活して成功おさめて大御所化、てのがありがちですけど、ニコラスレイとかそれ逆行してますもんね。ちなみにウィキャントゴーホームアゲインは当時のカンヌにだしたらなんとかいう人が激怒して「カネ払うのぜったいやなうんこ」とか酷評されたらしい。「あまり期待するな」の併映なら評価されたにちがいないのに。むつかしいな。そういえば上映会場にニコラスレイの奥さんがいらして色々質問に答えてまして(穏やかで克つしっかりした感じのゆっくりめにわかりやすいしゃべりかたをするおばさんだった)、レイ作品では「苦い勝利」つーのとあともうひとつ好きだっつってたけど聞き取れなかった。

優れたもんをつくる芸術家はみんなほぼ同じことをゆってるのな。ニコラスレイもロバートヘンライも心ふるわせたものだけつくれっていうふうに。

奪命金は家庭内のことでいまいち決断しきれないでいる優柔不断な刑事と、マフィアからこづかいを差し出されても遠慮しちゃうようなお人好しっぷりから信頼されつつも都合よく利用されていつも駆けずり回ってる半チンピラじみた人情至上なひょうきん男と、勤務先での資産運用業務の営業成績がなかなか上がらずに解雇させられそうで青くなってる女性銀行員の3者がギリギリの接点で生きながらえてるさまを追った物語。刑事以外のふたりは本来的にたいせつでもなんでもないモノになぜか必死でしがみつこうとして、自分のなかのあたたかな部分をどんどんすりへらしてるんですね。どんな仕事だって多かれ少なかれそうゆう部分はあるし、おとなの汚い部分でもなんなくこなせるようなたくましい性質してるなら何の問題もないんですが、このふたりについてはどう考えてもそのテの仕事に向いてなくて、にも関わらず「そういう仕事がうまくできない自分が悪い」みたいなふうに考えてなおさら疲弊しつつ事態を悪化させていってしまうさまがじっくり描かれます。君らは自分の素敵な部分を投げ打ってまでしてなぜいやらしいもんにすがりつくんだい?みたいなトーさんの静かで熱いメッセージが伝わってきてしみた。人情至上なひょうきん男は微罪でたびたび逮捕されるマフィア内の兄貴分(弟分だっけ)の保釈金集めに身をやつして年中走り回ってるし、女性銀行員は口べたで営業成績がまったく上がらないんですけど、営業成績がいい同僚の仕事っぷりをみてると「欠陥商品だとわかっているモノを口八丁手八丁で優良商品だと思わせて売りつける」ことに優れてるだけで、詐欺と変わらないんですね。主人公の女性銀行員はおそらく根が正直で、欠陥のわかりきってるもんをどう人に勧めたらいいかなんて本音ではさっぱりわからないし、そんなことはしたくないと思ってるんだけど、どういうわけか「詐欺行為と思われずに詐欺商法で儲けてく」職場に入ってしまって困惑しつつも「できない自分が悪い」みたいに考えて悪循環に陥ってる。そんなときに以前からの大口預金者で主人公が担当する顧客であるバーコードハゲのセクハラガハハ親父がやってきて微妙にきな臭い展開に入りはじめるっつー。優柔不断な刑事に関しては人情至上のひょうきん男の兄貴分を微罪でしょっぴく際(あれってマンション購入資金にあてるための保釈金目当てなのかな…?)とかにでてくるんですけど、上記ふたりとは逆で「家族のためなら多少のことはなんでもやるべき」てことなのかな?ラストちかくで「あんま優柔不断でいるとあとで取り返しがつかなくなるよ」みたいな展開にはいちおうなりますけども。なにしろ今回のトーさん映画は死に突っ込んでゆく男エロい血しぶきシリーズではなくて、大切な何かを犠牲にしながら働くひとを気づかうトーさんのあたたかな心意気が伝わってくる、いぶし銀なよい映画でしたよ。英語題が「Life without Principle」とかついてたけど、原理なき生き様とでもゆうのかな。フィルメックスで上映するトーさん映画はいぶし銀なのが多いな。
あとスジとは直接関係ないけど、トーさんて古紙とか廃紙みたいのがすきなのかね?復仇で圧縮されたふうな四角い廃紙みたいのころがしてたし、今回も古紙回収業者がでてきてダンボールの束を投げつけたりしてた。