ピンクフロイドのも父と息子のおはなしでしたよ

ピザボーイ 史上最凶のご注文(4日。ヒューマントラストシネマ渋谷)→フェイククライム(ヒューマントラストシネマ渋谷)→ホーボーウィズショットガン(新宿武蔵野館)→瞳は静かに(11日。K’s cinema)→ふたつめの影(バウスシアター)→爆音ピンクフロイドザ・ウォール(バウスシアター)→リアルスティール(11日。上野東急)とみまして、瞳は静かには1970年代の軍事政権下のアルゼンチンで母を事故で亡くした少年が、父親と祖母の住む家に身を寄せて暮らしてくうちに根性が曲がってく話。パンフによると監督さんは主人公の少年の視点を観客にもまんま体験させるふうなつくりにしたかったとかで、子供が把握できる範囲的なごく限定された光景だけ映されてどんどんスルーしてく展開で映画中で登場人物同士の関係やら設定やらの説明描写がいっさいないのでいろいろわからんまま終わちゃって、トークショー(いったら偶然やりだしたんよ)の星野さんの説明とパンフ説明よんでなんとなく把握できたかんじ。主人公の母ちゃんは快活でとてもすてきな女性なんですけど、あれは夫と別居してたのかな…?息子ふたりと新しい彼氏かなんかと貧しいながらも暮らしてるんですけど(主人公を元夫のとこへいかせて生活費をせびってた…?冒頭のあのシーンよくわからない)、母ちゃんが付き合ってる彼氏がなんか反政府組織の男かなんかなのかな?まあたぶんいっしょに反政府活動をひそかに行ってたんだろうと思う。ある日母ちゃんの勤め先の病院に反政府活動の仲間の女性かなんかが傷の治療(彼女に付き添ってる男が秘密警察の人間で、彼女に暴行して傷を負わせた当人らしいviaパンフの星野さん文)に運ばれてきてて、動揺した母ちゃんが彼氏に連絡しようとして道路を右往左往してた際に車に轢かれちゃって死んでしまう。彼女の子供ふたり(主人公と兄)は元夫とその母親の元に引き取られるわけですが、死んだ母ちゃんの件に触れようとすると父親はみょうにビクつくし、ばあちゃんはこれみよがしにシラをきるしとみょうによそよそしいふるまいをする。パンフによると当時のアルゼンチンの軍事政権は逆らう者がいると即ブッ殺して早急に処分してく体制だったらしいので、父親もおばあちゃんもそれがこわくて反体制活動に関わってた元妻について触れるのがイヤなのだろうけど、でもチビッコはそうゆう大人の事情などしらんので「大好きだった母ちゃんの思い出の品を消し去ろうとする血も涙もない外道」的な視点が優先してしまっていたことでしょう。母親のことだけならまだしも、家の真ん前で暴力沙汰(秘密警察が逮捕者を暴行)がおきてその時主人公とばあちゃんがいっしょにみてたとゆうのに、翌日その暴行事件について話しかけると「なにそれ。知らないねえ」とかいって事実を頭ごなしに全否定するおばあちゃん。パンフによるとこのおばあちゃんは町内会の井戸端会議網におけるボス的な存在らしくて、この界隈には反体制派の根絶やしをもくろむ秘密警察の拠点があるもんでそいつらに目をつけられないようにそこら一帯の人間が反体制派に関わらないように常に目を光らせてるっていうことらしい。命惜しさと身近な人間の防衛のためっていうのがそもそもの動機ではあるんでしょうけど、結果的に秘密警察の手先のような役割を果たしてしまってるんですね。生きていたければ黙って従順にしていろ、自分の心を欺き偽りの顔のまま生きてゆけと。おとなたちはその生き様をさも立派なことのように捉えてるふうなんだけど、単なるいくじなしでしかないんだよね。生きていたければ秘密警察様の靴をなめまわしなさい!てゆってるのも同然ですので。そんな気色悪いことを推奨する卑しい人間にすてきな母ちゃんの思い出を蹂躙されるのかと思うとくやしくてたまらんかったことでしょう。それまではなんでも家族に話す快活な男の子だった主人公が、父親からの頭ごなしの叱責やおばあちゃんの事なかれ主義によって無口で仏頂面になってゆく。そんで鬱屈のたまりきった主人公はあるときおばあちゃんと同じ態度にでることで復讐じみたことをなしとげるわけです。トーク後に星野さんから伺った話ではあの結末は完全に主人公がばあちゃんを見殺しにした(映画の最初のほうで主人公が捨てられてた汚い注射器で豚肉になんかを注入して遊ぶ[お医者さんゴッコ?]シーンがあったんで、それと同じ手法で一杯盛ったのかと思ったんですがそうではなくて体質的な誘導ということらしい)ということですが、でもだよ?母さんが死んでのこりすくない養育者をあの年齢の子が見殺しにするかなあ?いくらおばあちゃんが理不尽な態度だったからって、それは自分と家族の命を守るためでしょ。戦時中の日本の市井と似たような。それに対して死での制裁が必要か?たとえばおばあちゃんが主人公の母ちゃんを殺した犯人だった、とかならああいう結末でもまだわかるよ。そんなら感情的にも死でもって購えと考えるのはごくあたりまえだし。ばあちゃんは悪意でもってやってるわけじゃないのにさ。まあそこは積もり積もった疑念とチビッコならではの意識的な限界値によって虫をひきちぎるような無邪気破壊力が引き出されてしまったのやもしらんけどさ。なんかぜんぜん納得いかんのだよね。小学校中学年くらいでそれまですこやかに育った子が「親」とか「養育にあたる大人」(=自分が生きるための礎)の命を左右するってのはちょっとありえないくらいたいへんなことだと思うのよ。家庭内暴力にさらされてる子ですらその非道な親を殺すってのはなかなかできないんだよ?それどころか愛してほしがるんだよ?なのにあたかも突然サイコパス化したかのような冷たい目でサラッと見殺しにするか?作品的にはあのオチでなければ締まらなかったのはわかるけど、それにしても子供視点映画なのにチビッコの心理リアリティがちょっと欠けてて納得いかなかった。あの結末だとおばあちゃんの命よりも自分の本音のほうが大事ってことになるよね。どんだけプライド高い子供。あとこの映画で気になったのが年代的な関係で秘密警察要員がどのヒトもベルボトム履いてて体制側はそれ履いたらだめー!て思った。
チビッコがそんなにドライか?て疑問はリアルスティールでもあったので下記参照。展開のために都合よくつくられた子供キャラって親に対する態度が不自然なことがわりにあるんよね。思春期以上の子じゃなくてまだちいさいころの。
 
フェイククライムは勤め先の高速料金所と自宅を往復する以外なにもしなさすぎて妻に愛想を尽かされはじめてる生真面目男のキアヌんちにある日高校時代の知り合いが押しかけてきて、野球の試合の頭数揃えんのに誘われたものの、いざいってみたら強盗仕事の運転手をやらされてキアヌだけがお縄になってしまう。無実も同然なのに真相や犯人についていっさいクチを割らず強盗一味としておとなしく服役するキアヌ。濡れ衣で牢獄にぶちこまれようとも表情ひとつ変えず、まるで他人の人生模様を眺めてるかのように自分の人生についてまったく興味が持てないふうなぼんやり顔のまま収監された刑務所でキアヌと同室になったのが詐欺師の初老の男で、なに不自由ない刑務所生活を謳歌するために出所審査時に悪者まるだしの演技を毎回くりかえしては安穏とした刑務所生活を享受しつづけている。刑務所での暮らしも特に波風もたたず刑期を終えて出所したキアヌが自宅へもどってみると、妻が高校時代の知り合いに孕まされててまんま離婚&家を追い出されてしまう。当初と変わらずぼんやり顔のまま落ち着いた宿でつけたテレビでタレ流れてた宝くじのCMに感化されてなんとなく買いに出たところ、強盗仕事の運転手役として逮捕された現場である銀行のすぐそばだったことに気がついてしげしげと銀行を眺めまわしてたら突然車に轢かれたうえその車を運転してたおばさんが出てきて「なんでそんなとこでボーッと突っ立ってるのよ!」(←夫人にソックリすぎる)とか逆ギレされるキアヌ。キアヌは軽傷だし結果的に銀行の警備員のおっさんが一部始終をみてたことから事なきを得る…というかキアヌは病院にも連れていかれずなぜか近所のサ店(加害者のおばさんのなじみの店らしい)にてきとうに押し込まれたうえ放置されて、おばさんはどっかへいってしまう。人心地ついたキアヌがサ店のトイレで用を足してると壁に貼られた古い新聞記事が気になり、よくよくみてみると銀行と劇場がつながった古い地下通路が発見された件について掲載されている。ピーンとしたキアヌは大急ぎでム所の初老詐欺師に面会にいってその記事のことを打ち明けたうえ、強盗仕事のために出所するよう促す。初老詐欺師はずさんすぎる素人の思いつきを一蹴するものの、キアヌの熱意にほだされてだんだん出所を考えるようになり、出所審査時の悪人演技をひっこめてしまう(ここ映されなかったっけ)。なんだかんだ出所した詐欺師のおっさんはキアヌに連れられて半信半疑のまま銀行との地下通路があるという劇場あたりをうろついていたところ、キアヌを轢いたおばさんがきて劇場のなかに入れてもらってしまう。このおばさんがベラファーミガでこの劇場で興行する演劇の主演をつとめる女優さんなんですが、演技者としてはベテランらしいものの監督からダメ出しされ続けてうまくいってない。キアヌと同行して劇場内をさぐる詐欺師のおっさんは口八丁手八丁で劇場内の関係者だと思い込ませて地下通路の所在を確認する。キアヌはキアヌでなんかベラファーミガといいかんじになってるうえ、演劇監督に気に入られてファーミガと同じ舞台に起用されることになってしまう。それに便乗してキアヌの準備部屋を地下通路が埋められてる部屋としてなんとか決めて、地下通路秘密掘削が行われはじめる。キアヌは演劇の稽古をやりつつ、詐欺師のおっさんが作業にあたるんですが、途中でなぜかキアヌの元妻を孕ませた野郎がなんとなく参加してきたり、キアヌをだまして強盗仕事の際に置き去りにした奴(こいつは関わってはいけない輩だということを詐欺師のおっさんが本能的に察知するのだけど、弱みを握られてしかたなく)まで片棒担ぎしはじめて物事がすすんでく。あるときキアヌ含む男数人に目をつけてた銀行の警備員が接触してきて、ある理由からこの銀行の警備システムを切る方法とデカい額が保管される日時を漏らしてくる。でその日に決行となるんですが、ちょうどその日がキアヌが稽古してる演劇の興行初日で…という話。劇場にしろ銀行にしろ警備態勢のご都合主義的なユルさかげんがキアヌのぼんやりキャラを3倍増しさすかんじで作品全体をぼんやりした雰囲気にさせてることはたしかなんですけど、まあそこらへんのリアリティのなさかげんはこの作品上では重要ポイントではなくて(ピザボーイでも「銀行から金を強奪する」シーンで銀行内のヒトビトがあまりにビクつきすぎてド素人の主人公たちがわりとたやすく強盗できてしまってたんですけど、強奪そのものじゃなくあくまでその前後がピザボーイのたのしみどころなのでそのご都合展開っぷりくらいでちょうどよい)、「惰性でおくる波風のたたない生活」と「自分の意志でつかむ困難連続の生活」のちいさな転換点ごとに「演じること」というのが散りばめられている人生模様をたんのうすることがこの映画の醍醐味なので、みたヒト的にあのいかにも演出的なぼんやりさが鼻についちゃう向きがわりにいるやもしらんのですけど、そこらへんは実は映画ぜんたいのやらんとしてることからすると実は些末なことなんじゃないかと思う。でもなー「四角四面の生真面目男が犯罪に人生の活路を見出してイキイキしてく」をもっとわかりやすくやるんなら主人公はスティーブカレルとかにして変化前をこれみよがしにロボット的なキャラにしたほうが「つまらん人生(機械的)→おもしろい人生(動物的)」の落差はまちがいなくものすごいと思うんじゃが。まあそうするとラストのハーレクイン的な大人のおとぎ話感覚的なもんがぜんぜん出せなくなっちゃうか。ベラファーミガの熟女感をほだすにキアヌくらいじゃないとおとなのすてきな恋愛感とかでないもんな。ベラファーミガはいままでやさしく包容力のある熟女色香ふんぷんのキャラが多かったですけど、本作ではうまくいかないとキイィィィッー!!てなるヒステリーおばさんです。あきらかに自分に落ち度があってもまず相手を責めるところからはじめるプライドの高いおばさんです。夫人の性質まんまで苦笑しきりだった。相手のせいにするわりに人情深いんだよね…。だから悪い人ではないんだけどねえ…。疲れるんだよ…。あと個人的にジェームズカーン演じる初老の詐欺師キャラが好き。犯罪者稼業に長年従事してきた男の枯れた中の悪辣さとか、その稼業ならではの独自の見方とかおもしろくてすきなんよ。現実にいたらもっとリアルに卑しいかんじだとは思うんですけど、映画とかではそこらへんがみえなくされてカッコよさが全面に出てるんでたんのうしやすい。
ホーボーウィズショットガンは「30年くらい前によくやってた血まみれ映画」のあるある作法をこれでもかともりこんだんだろなー的なこれみよがしマニア映画でしたが、そうとわかってるにも関わらずオープニングとエンディング(特にエンドロール開始タイミングの放り出され感)にシビレた。もうだめだ。内容としては無賃乗車で放浪してる乞食のおっさん(ルトガーハウアー)が、流れ着いた街でポリと結託して町民いたぶり放題してるギャング一味に業を煮やして芝刈り機(←まともな生活への隠喩)買うのをやめてショットガン手にして悪者をブチ殺しまくってく話。この悪者一味てのがねえ、なんかアイビールックての?北斗の拳のジャギが白黒のスタジャンにグラサンかけてる風体の面白半分に人体を切り刻んでる人で、ガルウィングな愛車を乗り回しててすごく80年代のヒトの考える悪者感すぎてよかった。80年代のピカピカな安っぽさが人命をもてあそぶ画ヅラって想像以上に安くて震えますね。この人たちはもうふつうの人殺しに飽きてるふうなためにちょっと変わった殺し方しないと気が済まないらしく、標的の人間にマンホールのフタかぶせて穴にはめて引きちぎったり、カミソリの刃を何枚もくっつけたバットで殴ったり、縄を首に巻き付けたまま縄の先の銛を天井に発射して簡易縛り首にしたりします。そんな極悪人間たちにショットガンひとつ抱えて道行きを共にする娼婦と共に風来坊の乞食が立ち向かうわけですが、まあ全編血みどろ残酷表現のオンパレードなんですけど、それよりも最後のほうの病院での戦いの直前にたくさんの赤ん坊が寝そべってる前でルトガーハウアーが「お前たちがこれから大人になったら売春婦になり…人殺しをし…」と赤ん坊にむかってひどい人生模様予測を並べ立てるシーンがいちばんショックだった。うわぁぁぁんて泣き叫ぶ赤ん坊たち。映画自体はたいしたことないけど、あのシーンだけは今年いちばんのショックだった。あーあ。
リアルスティールはロボットを操って戦わす賭け試合が浸透した世界でのお話で、その稼業にドップリハマった男に母親が死んだからっつって小学生くらいの男の子を突然押し付けられるんですけど、その子が戦闘ロボマニアで…みたいな展開。ロボ対戦稼業にハマってる男は賭け試合で負けつづきなうえ、負けるとカネ払わずにトンズラ繰り返してるろくでなしなんですが、息子とはじめて出会うシーンでの筋肉質スマートな立ち姿がカッコよすぎてあれはどう考えてもろくでなしの肉体じゃねえ。モデルか俳優の体つきまるだしすぎる。いくら元ボクサーでもちょっとスタイルよすぎ。んでまあ対戦ロボ破壊されてパーツ探しのために赴いたクズ鉄場でみつけた昔のロボ掘り出して試行錯誤して戦わせてだんだん勝つようになってくわけです。最終的に最強対戦ロボと戦うわけですが、ロボの操者がリアルボクサーのが有利ってんならゆくゆくは相手側もそうしてくるよね。それとひと夏かぎりの経験でハイ終わりね、みたいな結末からして「対戦ロボ稼業のようなろくでなし人生を未来ある子供に継がせるわけにいかない」がディズニーの主張なんだろうね。おいらがあの子だったら学校なんか放り出して対戦ロボ稼業の父ちゃんについてくけどな。伯母さん夫婦は金持ちだし勉強させてもらえるからそうしなさい、てそれにおとなしく従っちゃう程度の思い入れしか君にはないのかい?後半で息子の身柄を約束どおり伯母夫婦に受け渡したあともみょうにおとなしく父親のもとから去ってくけど、年端もいかん子供が心を通わせた実の父を前にしてあんな聞き分けのいいドライな態度ができるもんかね。ちいさな男の子にとってお父さんてすごいたいせつな存在だと思うんよ。いくら大人同士の決め事だっつってもなんか…ようやく出会えた父親にあんなふうにスラッと背を向けられるかな。それが思春期以降の年齢ならわかるんだけど、小学校中学年くらいでなあ。あの子が父ちゃんにかじりつくような画ヅラがなにもないんでね。年齢的な心模様の描写がちょっと不自然だったかなと思った。まあ大人の事情で色々ヒドい目にあってる子は夢見がちなことはいっさい考えず大人ばりに現実的になっちゃうらしい(エンジェルスて野球映画でそういうくだりがあった)けど。いろいろカキましたけどディズニーのお子様映画にしちゃなかなか熱い内容でいいんじゃないすか。クライマックスの対戦ですっきりKOで勝たせなかったのも「リアルなボクシングの事情」をちゃんと盛り込んだふうでよかったですし。あのお父さんは形こそちがえど対戦ゲームのスリルにハマってるヒトそのものですので、身に覚えのある大きなお友達はわりといらっしゃるのでは。