門松は昔長い笹で正月終えると切って竹馬にして遊んでたそうです

『古典古代期のギリシア・ローマでは、美しいはだかの身体を賛美する独特の文化が育まれました。中世に見失われたその文化がヨーロッパで復活したのは、15−16世紀、ルネサンス時代のことでした。黒田清輝がフランスで絵画を学んだ19世紀末には、まだ色濃くその伝統が残っていました。しかしヨーロッパ絵画が目標とするはだかは、実は、ただ単に衣服を脱いだ個々人のはだかではありません。それは、美しく理想化され、やがては死すべき個々人の運命から解き放たれて永遠化された、特別なはだか、現実から遠く離れたはだかを意味しているのです。
 黒田清輝が日本に根付かせようとしたのは、まさにこの「特別なはだか」、現実から遠く離れたはだかでした。
 ところで、ヨーロッパでは、この「特別なはだか」を鑑賞するにあたって、きちんとした約束事がありました。それは、はだかに対するエロティックな下心といった現実的な関心をすべて捨てて、純粋に美を感じ取る、というものです。これははだかを主体とする絵画のみならず、広くヨーロッパの美術の基本を成す考え方でした。
 一方日本の観客は、見慣れないはだかの絵画の前で、あけっぴろげにエロティックな関心を示したり、冗談を言って笑いあったりしました。黒田清輝は、これらの人々にはだかの絵画を見せることで、「特別なはだか」の見方を教えるのみならず、ヨーロッパ美術全体の基本をなす「無関心」な鑑賞態度を教えようとしていたのです。』
『1903(明治36)年、熊谷守一は列車に轢かれた女性を目撃します。5年後、熊谷はこの光景をもとに《轢死》を制作します。この作品は現在黒く変色し、図柄を見ることはできませんが、関連する素描がスケッチブックに残されています。「四十一年二月十五日」と記されたページには、地面に横たわる女性の半身が描かれています。驚いたことにこのポーズは、Iで見た黒田清輝の《野辺》(1907年)の女性を反対向きにしたものです。縦置きだった《野辺》とは異なり、《轢死》の女性は、横向きの画面に水平に横たわっています。つまり熊谷は、《野辺》の女性を水平方向に置き直すことで、生から死の状態へと移行させたのです。熊谷の縦横変換の実験はさらに続きます。日記には、完成作を今度は縦に置いてみると、まるで夢のように、また悪魔のように、女性が立ち上がり生命を得て動き出す、と記されています。
 それから20年以上が経ち、1931年、熊谷は《夜》で再び同じ主題に取り組みました。』
英国王のスピーチ(23日。真文芸坐)→灼熱の魂(しね)→ぬぐ絵画(国立近代美術館)→サルトルボーヴォワール(25日。ユーロスペース)→ブリューゲルの動く絵→アンダーグラウンド(えぬ)→INVITATION from SPIKE JONES(ユーロスペース)とみまして、上記『』内はぬぐ絵画展の会場に展示してあった文から抜粋したモノ。「はだかに対するエロティックな下心といった現実的な関心をすべて捨てて、純粋に美を感じ取る」とかゆうけどさーマン毛ツルツルに剃ってある時点でヤル気十分すぎるんですけど、そんな準備万端なパイパンまんこをみせつけながら「いやらしい気持ちを抱くな」つーほうがそもそも頭おかしいんじゃないんですか?近代美術館内の絵の全裸女でボーボーなのひとりもいないんだよ。全員キレーに剃ってんだよ。なんなの?パイパンがエロくないというのならば下半身がボーボーのが断然エロいっていうことなんですか?そもそもヨーロッパ絵画は古代ギリシャの美的感覚を下敷きにしてるとかゆってるけど、本気でそこらへんに忠実になるなら壷に描いてあるアナルセックスの絵=性的な観念こそがはだか画鑑賞における大前提ということになりませんか。ヨーロッパ絵画は美的観念を自分らに都合の良いように歪曲しているんですね。「特別なはだか」推進してた黒田清輝も西洋画に倣ったとはいえ草原で全裸って青姦前後を描いたようにしかみえないです。草原全裸画ってさー、西洋の絵だとマッパ女が鑑賞者のほうみてニコッて微笑んでたりはにかんで笑ってたりするんですけど、日本の絵だとマジ顔で鑑賞者のほうをまっすぐガン見してるのがすごく多いんですよね。どう考えても全裸で外出してるほうのが変質者なのに、まるでそれをみてる鑑賞者のほうが変質者でもあるかのような目つきでこちらを見据えている。鑑賞者ガン見系では百武兼行の臥裸婦(04)とか五姓田義松の西洋婦人像(03)はモダンアート,アメリカンにあったウォルトクーンの踊り子のくたびれきった暗い目と似た目つきの仏頂面で鑑賞者ガン見してますし、松岡寿の横臥婦(05)は鑑賞者のほうをみてはいないんですけどツラがやたらブサイクなのはエロい目でみられないようにするためのアレなんですかね。全裸よそ見系では天女を描いた絵だとか風呂屋の女湯の光景なんかもありましたが、やっぱ絵のなかで裸になってるヒトがよそ見してるほうは鑑賞者にとって「覗き見」的な愉悦があるのに対して、絵のなかで裸になってるヒトが鑑賞者のほうをまっすぐ見据えてるほうは鑑賞者が「裸をみている」という行為をいやがおうにも思い出させられずにいられないかんじになりますな。なんというか覗き見してる中を誰かから見られてるふうな。全裸ガン見系の絵で和田英作のこだま(26)てのがあるんですけど、照明が塗りのとこに反射して光っちゃってよくみえなかったよ。あれは直したほうがいいと思うけどな。展示されてんのは大部分がおんなのマッパですけど、高木背水「竹槍を持つ男」(14)とか曽山幸彦「杵を持つ男」(10)のふたつはフンドシ姿の男の後ろ姿を描いてますし、安井曽太郎「男子裸体」(17)はチンポがまるだしです。おんなの全裸よそ見系では甲斐庄楠音「裸婦」(61)が直球の熟女エロ劇画すぎて胸をなでおろしました。そもそも特別なはだかとかなんとかゆってる黒田清輝の絵がふつうにエロ漫画すぎるとしか思えんのですが、ああいうもっともらしいことで官憲をやりこめとかないかぎりはいちばん描きたい女体の神秘をいつまでたっても公然と描くことができないままになっちまいますからな。変わりダネ系の全裸絵では萬鉄五郎のはだか絵で描かれてる女性はどれも額の内側で関節を折り曲げて窮屈そうなポーズとってるのばっかしなんですけど、なんか箱のなかに閉じ込めたふうにもみえて微妙に猟奇色を感じずにいれないですし、猟奇色といえば古賀春江「鳥籠」(70)なんかは昭和初期にザ・セルの原作小説があったら表紙画はコレなんだろうなーみたいなノリで全裸女性が巨大鳥籠(←これ描く際にドイツ映画のスチール写真を参考にしたとか説明書きにあったけど、メトロポリスかなんか?)に閉じ込められていますし、猟奇全裸系では今展の目玉である(と勝手に思ってる)熊谷守一「夜」(76)はいいですね!上記『』内でも説明書き抜粋しましたが、熊谷さんは目撃した轢死体にシビレて描いたそうで「夜」で描かれた女性が正しくはどんな状態なのかわからんけど、一見して女性の腐乱死体(女だとなぜ思えるんだろう)が横たわる大地の土と同化しかかりながらも腐った部分が街の灯のように彩りを添えているふうなものです。夜と死体がまじりあってどっちがどっちだかわからなくなっている状態てのは猟奇的でもありながらみょうな恍惚がありますね。この熊谷さんの筆致は基本的にいろんな色でもって圧塗りでぐんにゃりと描きなぐった力強いラインがまんまおんなの曲線になってるふうな作風で、たったひとり描くのでもかなりの色数を大胆に使ってる(それでいてまったく無理がない)あたりがちょっとカンディンスキーあたりのカラフルなタッチの絵と並べて鑑賞してみたい気もした。特に展示の79・80あたり。展示のさいごのほうには『黒田清輝らが行った「身体の理想化」をことさら否定するようなプロポーション』を念頭に置いて描いたという安井曽太郎「画室」(93)がありまして、ベッドの上で全裸でポーズとってる女性のすぐ脇に着物きた夫妻と子がいかにも撮影用のポーズで描かれててまあエロ本みてせんずろうとしたときに親が部屋に入ってきちゃったふうなぶちこわし感覚を狙ったのでしょうけど、エロス視点憎しで描かれたと思しきベッドのうえの全裸女性の身体がちょっと崩れすぎで奇形マニア向けになってる気がします。「エロス万歳VS.エロス死ね」が絵のうえでは「美人で豊満VS.ブスでデブ」構図としてわかりやすくあらわれてて、いろいろな意味で昔からなんにも変わっちゃいねえなとしみじみしました。表現上でワンクッションないとまっとうにエロに向き合うことがゆるされない窮屈さ。

ジョージ6世の演説の様子の映像は、たくさん残っていたのですか?
インターネットでも簡単に見られるよ。映像を作った人は、編集で国旗や鳥を入れたりして、なるべくジョージ6世が抱える困難をごまかそうとしているのが分かる。でも、彼の顔が映るたび、彼の表情に明らかなる悲しみを発見せずにはいられない。なんとかしてうまくこなしたいという願い、できなかったらどうしようという恐れが見てとれるんだ。初めて見た時は、涙がこぼれた。3分の映像で泣かされるなんて、自分でも意外だったよ。
(中略)
 ―障害をもつ人へのメッセージはありますか?
サンフランシスコで試写をした時、僕は最も感動的な体験をしたよ。映画が終わると、ある女性が涙を流しながら近づいてきたんだ。彼女は、「私の母は障害があって、車椅子の生活をしています。これがまた最後に障害が解決する映画だったら嫌だなと思って、試写に来るかどうか迷いました。でも、そうじゃなかった。障害を持つ人は、障害と向き合って暮らしています。それが現実です」と言ったよ。ハリウッド的エンディングを避けたのは意図的だ。僕とコリンはジョージ6世の最後の演説を聴いたが、その時もまだ明らかに吃音があったしね。』
『この失敗に対する恐れは何を意味するかというと、一義的には「プライドの高さ」ですね。ジョージは過剰な自尊心の鎧で自分をがんじがらめにしている。その向こう側にあるのはもちろん劣等感ですが、さらにその向こう側にあるのは、いわば「怒り」でしょう。心理的には不安や恐れも怒りの一種です。それは不甲斐無い自分に対する怒りかもしれないし、あるいはライオネルにそっと告白した話から分かるように、少年期に父親から愛されなかった寂しさ、利き手や脚の矯正などを受けた抑圧への怒りかもしれない。そういった様々な負の感情が、彼の喉を潰しているといえるわけです。
 だからライオネルは、ジョージに悪い言葉をいっぱい吐き出させるんですね。少しユーモラスにもみえるシーンですが、ジョージが「クソッ!クソッ!クソッ!」と下品な俗語を長年のストレスを解消するように叫ぶ。でも彼はそのことで、自分の中にたくさん蓄積された負の感情に少しずつ気付けるんです。しかもライオネルがそれを全然否定しないことで、ジョージは親密ささえ覚える。そして独りでは渡れなかった、王としての大きな責任という橋を、ライオネルの助けを借りることで遂に渡り始めるのです。』
上記『』内は英国王のスピーチのパンフから抜粋したモノで、上のが監督さんインタビューで下のが名越康文さん文です。人前だとまともに話もできなくなってしまうほどのどもりに悩む王族男性が、医師免許もない男にすこしずつ心を開かされていくにつれて自分の苦しむどもりの根源に向き合いはじめる話。どもりに苦しんでるジョージさんを心配して周囲の人がよかれとばかりに有名な医者をあてがうんですけど、クチんなかにビー玉を詰め込めるだけ詰め込んでむりやりしゃべらせる、みたいな大リーガー養成ギプスぽい荒療治ばかりで嫌気がさしていたところ、奥さんが独自に探し出してきた会話矯正のヒト(ライオネル)が風変わりな「治療」をはじめて糸口がみつかりはじめる。ライオネルはどもる原因について精神的な原因があると独自に定義しているので、ライオネルのもとを訪れたジョージに対してしょっぱなから対等な関係を求めるんですね。自分以外の人間と会話をする、ということの根源にはまずある程度「相手に対して心を開く」ことが不可欠だからだと思うんですけど、ライオネルがジョージの肩書きもかまわず愛称で呼んだり私生活への質問を無遠慮にぶつけるもんで、いろいろぐらつかされたジョージはプンスカして帰ってしまうものの、あることがきっかけになってまたライオネルの治療をつづけることになる。いろいろつらいことが起きてジョージさんは真っ先にライオネルのもとを訪ねたりするまでなるんですが、それは友達として話のできる存在がいないに等しいからなんよね。一国を左右するような重責仕事は子供のころに親や家族からしっかり愛されて、自分が生きるうえでの自信を培うことのできた人にはなんなくこなせると思うんですけど、ジョージさんのように親からろくに愛されもせず乳母から家庭内暴力じみた仕打ちばかりされたうえ、当の親からは物事をうまくこなせないと叱責ばかりされてたら生きるうえでの自信が持てなくなってあたりまえだと思う。小さい子供がなんかやるたびに「やってもムダだ。できそこないが。お前なんかどうしようもないクズだ」とか言われてたら萎縮してなんもできなくなっちゃうよ。たくさんまちがいをやりながらできることを見出してけばいいじゃんか。できない子が悪いんじゃなくてその子の備わったものを引き出せない大人のほうがあきらかに悪いのに、なぜそんな不毛な頭ごなしをぶつけてしまうんだろうねえ。もしかしたらその子の「できない」でいる有様をみると自分の至らなさを突きつけられているように感じてしまってのことかもしらんけど。それにしてもジョージさんの幼少期の吐露のくだりは悲しみと怒りがないまぜになったどもりの根源そのものすぎて胸がしめつけられた。周囲からはひたすら生まれた地位の重圧ばかりぶつけられて、それをこなすだけの素地をなす信頼や愛情がまったく与えられずに育てられたらそりゃどもりもでるわ。要するに「お前はどうしようもないクズだが生まれついた地位はスッゲー重要だから絶対ヘマすんなよ」てことを幼少期に始終父親から言われてたってことでしょ。ちょっとひどすぎる。むしろどもりで済んだのがふしぎなくらいだよ。ジョージさんは頭もいいし責任感もしっかりもってるから、父親が死んで王に即位した際もスピーチができないことをものすごく気に病んでるんですね。そんでまあライオネルの出番となるわけですが、ジョージさんが親友となる存在に出会えてほんとよかったなーとしみじみした。もしも権力に近しいところに生まれついたとき、まっすぐ育つ自信があるかな>ここよんでる皆さん。どんな形であれ誰しもがそれを経験する可能性があると思うよ。生まれたときから周囲にヘンなやつらしかいなかったり、国家予算並の資産を自由に扱える立場で高潔なままいられるヒトはどれくらいいるかな。優れた思想や体制が仮にもたらされても人間の世界は100年も経たずにリセットされるからこわいよね。ちょっとまちがうとソマリアのような無政府状態に陥ったりする可能性がなくもないよ。なにしろこれでさんざんひどい目にあわされて育った残虐な王が最後に民衆になぶり殺されるシーンがあるんだけど、ジョージさんの悲惨な生い立ちがよぎらずにいれなかった。とりあえず英国王のスピーチ天皇夫妻にみてもらって詳細な感想を聴きたいわ。ああいうかんじの地位にあるヒトは皆すくなからず身に覚えがあるんじゃないかと思うので。
『兵士も群衆もブリューゲルと同時代人の扮装をしているのに対し、聖母たちは中世の衣装をまとい、その動作も前世紀のロヒール・ヴァン・デル・ウェイデンの祭壇画(アントワープ王立美術館)からの”引用”のようだ。なぜ同じ画面に様式的にも図像学的にも異なるグループが共存するのであろうか。答えはひとつではないだろう。15世紀のドイツやネーデルラントなどで盛んになった「新しい信心」という、内的な霊性を求め、かつ個人の実践的な敬虔を尊ぶカトリックの刷新運動を読むこともできよう。その意味でこの「聖母のグループ」は「イメージ的祈年像」の役割を演じていたのかもしれない。また当時(そして現在でも)、フランドル各地で宗教行列が行われ、キリストの受難劇が街角で演じられた。古風な衣装の聖母が磔刑上でのわが子の死に失神し、聖ヨハネが彼女を支え、お供の女たちも慟哭するというドラマは路上劇のクライマックスのひとつであり、そうしたイベントも想起させる。
(中略)
 ブリューゲル芸術の魅力のひとつは現代にも通じる普遍的な解釈の可能性であろう。多くの人間はたとえ世界を揺り動かす大事件に直面しても、自分への直接の実害がなければ、無関心を装って日常の仕事を優先させる。その事件が人間誰でもにとって重要なメッセージであることに気がつかない。』(「ブリューゲルの動く絵」パンフp.07の森洋子さん文より抜粋)
教科書かなんかでチラ見したきりでまともに鑑賞したことがないもんで「ブリューゲルの絵」ていわれてパッと思いつくのが「ヒトがワヤワヤしてる」ふうなイメージしかなくて、映画みはじめてキリスト磔エピソードくさいくだりが出てきた際に「ブリューゲルてキリスト関連の絵描いたんだっけ?」とかびっくりしてた。西洋のむかしのキリスト画つーと主要キャラが中央に寄り集まってこれみよがしなジョジョ立ち決めてたり、聖書逸話の1場面をいかにも劇的に描いたのが多いだけに「ブリューゲル=キリスト画」のイメージがどうもつながりづらい。どうにもブリューゲルつうと民衆がそれぞれ好き勝手蠢いてるふうなイメージが先行すんだよな。ブリューゲルの動く絵で主題になってるキリスト画もパンフの絵をよくよくみると当のキリストも十字架も奥のほうにすっげえちいさく描いてあるだけで、やっぱしそれを見物についてきた野次馬連中=民衆の好き勝手してる中のありさまが中心なんよね。映画ではその名もなき民衆たちの日々の暮らしの風景を追いながら「キリスト磔刑見物に向かう」光景をあくまで人々の日常生活の流れの一部として描きつつ、その流れのなかでどこに主眼を置き、なにを切り取るべきかをしっかり見据えることの大切さをふまえて観察していた画家―ブリューゲルの姿を描き出す。絵なり映画なりでは主人公格のキャラにしか焦点があてられず、あたかもそのキャラクタのためだけにその空間が存在しているかのように錯覚しがちなのだけれど、その焦点の外にはちゃんといろんなヒトが生きているということ。のちに奇跡と呼ばれる出来事も人々の生が流動してゆくの中のたった1部分でしかないのだけれど、その1部分の大切さをしっかりと認識し、切り取っておくこと。たとえば経済流通の動向を「景気」と名づけたように、目の当たりにした際に心に刻まれたある1場面を画家は画布に刻み付ける。目の当たりにしたあれはいったいなんだったのか?画家は名づけることができないかわりにただ描きだして人々の前に放り出す。キリスト画を目の当たりにして描いたヒトなんて実際にはいなくて100%想像の画ヅラなのだけど、ブリューゲルの動く絵では流動する物事のなかから描くべき箇所をみつけだすことの大事さが謳われていたように思った。絵画中の背景を完コピした前で俳優たちが演じてるので、なんかたぶん元絵にすごく忠実なんじゃないかな。あとたいしたことじゃないけど、ブリューゲル絵の下でうごめく民衆の頭上をゆったり飛び回る鳥のうごきが独特で好き。クエイ兄弟の廃人形たちの奇妙な動きとか、端っこのなんでもないちいさなものの動き具合とか好きなんよ。ちゃんとこだわっててよかった。それとパンフでこの映画の監督さんの遍歴みたら過去つくった映画がほとんど芸術がらみのばっかなのな。マイエフスキ映画大回顧上映会やってほしいわ。
INVITATION from SPIKE JONESはたまたまユーロスペースいったら上映してんの知って急遽みた。あやうくスルーするとこだった。短い作品3本のうち後半2本のセンダックのインタビューはすばらしいのでファンは必見なのですが、しょっぱなの1本がなあ…。なんかロボット人間が市民権得て市井で暮らしてる世界の話なんですけど、主人公の男型ロボの目がハナからいかにも悲しげな形状してるうえこれみよがしに引っ込み思案な性質なのがなんかすごくウゼー。じゃあ性格悪いロボットは最初から性格悪そうな目の形状でつくられるんだろうか。んでまあ主人公ロボに彼女らしきロボができるんですけど、この彼女ロボがセンサー機能悪いかなんかでどんどん体が破損してくんですね。そのたびに主人公ロボが自分の体パーツを彼女ロボにあげちゃうんですけど…まああげるまではいいよ。なんでお前体パーツなくしたまま過ごしてんの。ああまでロボ人間が市民権得てる世界観なら当然中古パーツ屋みたいなとこだってあんだろ。ないのか。おかしい世界だ。パーツ屋がなくても主人公ロボはてめえでゴミあさりして部品集めたりしてんだろ。部品集められるなら廃棄パーツの1つや2つ当然あんだろ。ねーの?ねえこのロボ人間バカなの?体破損した彼女ロボに体パーツあげちゃったもんで、主人公ロボは片手片足ない上下半身片輪状態で松葉杖つきながらウッ…ツラい…でも彼女のためにボクはこうして身を挺して…みたいないかにも殉教者的などっからどうみても自分は善人ですみたいな画ヅラがブルーバレンタインのウゼエ夫と同じく完全にゴフスタイン絵本気取りすぎて辟易しました。愛のようにみせかけた自己満足にはほとほと吐き気をもよおしますわ。あの2体バズーカでこっぱみじんにしたい。いかにも可哀想ふうなつくりでお涙頂戴しすぎなのがバカだと思った。スパイクジョーンズ死んでいい。センダック映画はすばらしかったがスパイクジョーンズ死んでいい。センダックのインタビューでもセンダック自身が「かいじゅうたちのいるところ」と「まよなかのだいどころ」以降の作品はパッとしないってことを重々わかってる旨正直に吐露してんのに(さすが冷静だなセンダック)、いやー他の作品もすごいっスよーあんた天才ですよーて超適当なホメ言葉でお茶をにごすインタビュアーのスパイクジョーンズを純粋に殺したくなった。まあ当人前にして「あの2作以降たしかにパッとしませんよねー」とも言えないか。あの2作以外の作品はもちろんすきなのわりとあるしイイのだけど、あの2作には残念ながら敵わないもんばっかしだよね。それはあの2作以外ではセンダックの獣性をすなおに出してないからなんじゃ。インタビューの最後のほうでセンダックが「有名になったってゆっても実感できないなー。もっとキャーキャー騒がれてロールスから降り立ってカメラでカシャカシャ撮られたりチヤホヤされたりしたいなー」みたいなこと言ってたんで、そうゆうのド正直に描いちゃえばいいんじゃ。あとセンダックが絵本で子供描く際に「自分は[子供時代を描いている]という意識はなく、自分自身を出そうとして描くとしぜんとああいうふうになるんだ」みたいなことを言っててなんか感心した。ほかにもちいさい頃に世話されたねーちゃんとの話(誘拐された赤ん坊を取り戻しにゆく赤ん坊の姉ちゃんの絵本のくだりで「この姉は赤ん坊を守りたいと思ってるのと同時に誘拐されて殺されてしまえばいいのに、と思っているんだ」と説明していて、年下の存在の世話をやく年上の者の心模様についてもちゃんと知ってたんだなーと思ってなんか心が痛かった)とか、親にとって自分は望まれずに生まれた子供だったこと、それでも姉や兄がなにくれとなく世話をしてくれて幼少期をたのしく過ごせたこと、それとリンドバーグの子供が誘拐されたニュースがセンダックの心に強烈な影響を与えた件が壮絶だった。リンドバーグの子はまだ赤ん坊で焼死体かなにかでみつかるんですけど、その焼死体が映りこんだ現場写真が新聞の朝刊かなにかの1面に掲載されていて、売店かなにかでそれを目の当たりにしたセンダックの脳裏にその写真が強烈に焼き付けられたらしい。その現場写真掲載した新聞はなんか抗議がきたかなんかで即削除された改訂版がすぐに出回ったそうで、センダックが見たのはほんのいっときだったらしい。でもその現場写真をずっとおぼえていて、数年後に容疑者の講演会みたいのに赴いて講演中に内容の間違いを挙手していちいち訂正さしたり、当時目の当たりにした現場写真を当人の前でセンダックがそらで克明に描きだして問いただしたりしたらしい。この事件についてすっげえ調べ上げてたんだって。子供が残虐に殺されることがセンダックにとってものすごいショックなんだろうな。誰だってショックだけど、センダックほど妄執もって調べあげたりしないでしょ。こういうドライヴ感のあるセンダックの感覚がユーモラスに炸裂できる絵本をつくってもらえたらなあ。あとはかいじゅうたちのいるところを出版した当時に識者から猛烈なバッシングを受けたこと(かいじゅうたち批判したなんとかいう精神科医がセンダックにむかって「あんたなんか嫌いだ!」て投げかけてきたんでセンダックも「俺もあんたが嫌いだ!」て返したらその精神科医が自殺しちゃったらしいんですけど、この精神科医なにがしたかったの?)とか、そのバッシングもかいじゅうたち担当した編集のノードストロムさん(写真あったけど美人だった!ただしすっげえ気が強そうな目つきだったけど)が命がけで立ち向かってくれたこと、バッシングされつづけたものの図書館での貸し出し絵本1位の座にずーっとあってだんだん誤解がとけてきたことなんかがセンダック自身の口から語られてて感慨深かった。このつらい時期にちょっとホモに足を突っ込んだりしてたそう。でも現在は女性と暮らしてるようなのでバイセクシャルなんだね。あとセンダック絵本を語る上で欠かせない犬たちとの逸話なんかも話してたな。センダックはいかつい顔してるけど、なんか天然モテくさいかんじした。
灼熱の魂はいま紛争に身を投じてるすべてのヒトに強制的にみてほしい最悪の鬱映画でしたよ………。話としては突然死んだ母親の書いた子供宛の遺書に「父と兄を探し出せ」とあって公証人の判断のもと子供らが中東らへんを訪ねてまわるものですが、前半はまあ中東のド田舎で母親について聞いて回ったりして地味ーな画ヅラなんですけど、後半にゆくにしたがって凄惨な過去映像が差し挟まれたりして自分たちの出自と兄の正体が判明してもうハンパない鬱。生まれついて加害者であり被害者である、てのはこの世で生きる者に課された呪いかなんかなんだろうか。いや…そもそもは「家名を汚した」ということで子と母が村から追い出されたことに端を発してるので、ちょっとへんな男と付き合って子供つくったりしても白眼視して社会から追い出したりしちゃいかんてことだと思う。そういうことするとめぐりめぐってもっと悲惨な結果が返ってきてしまう。うーん…自分がもしも強姦されて生まれた子供だったらどうだろうね。つらいよ。たとえ大幅に間違っても異端視して迫害したらいかんよ。もっとひどいことになる。僻地のちいさな村社会を守って生きてるヒトたちほど義務的にみたほうが吉な映画。
アンダーグラウンドはずいぶん前にビデオでみたな。でもほとんどおぼえてなかった。第2次大戦中(だよな)のユーゴスラビアでナチから奪った武器や金で儲けて英雄視されていた山師じみた男ふたりと女が、武器密造してた地下貯蔵庫でひそかに生き抜きながらあるきっかけで現代社会に出てきて当時の意識のまま紛争に加わって、そこでまちがって友人を殺したことからようやく自分が鬼畜になってしまっていたことに気がつく話。映画で時代が変わる描写をするに「数年後―」みたいな都合のいいはしょられかたがよくされますけど、アンダーグラウンドではそういうはしょられかたがいっさいなく、乱痴気騒ぎしながら狂った脳がリアルタイムで時を経るありさまが映像が途切れることなく流れるようにみせつけられます。なので主要キャラが「当時の意識のまんま」でいる説得力がハンパない。戦時の亡霊でなく生身の人間に事実が通じないてのはおそろしいことですな。主人公格の男の片割れが高田純次っぽかった。映画みながらユーゴの高田純次って思ってた。