もし父親が放蕩三昧だったら同じ概念をすんなり受け入れたろうか

『(モナリザ・スマイルで)学生を演じる女優の面子の曲者ぶりが凄いが、筆頭は学園新聞部員で女は結婚がすべてという結婚至上主義者=キルスティン・ダンストだ。彼女の告発によって、ロバーツは窮地に陥るが、学生結婚した彼女も夫との関係が悪化、自分と学校の幸福観が現実によって突き崩されていくことに直面、精神は混乱している。ロバーツの学内の恋人のイタリア語教師、しつけ一般を教える教師、そして生徒たち、誰もが表層の安定を繕えなくなっている。実相がのど元までせり上がって嘘を暴こうとしている。演出(マイク・ニューウェル)は丁寧に無理なく、この嘘を明らかにしていく。
 真実は見ての通りのものじゃないわ。ダンストは自分の新婚生活に関して、まるでデイヴィッド・リンチのようなことを母親に言う。こういいながら、彼女が母親に差し出すのが、レオナルド・ダ・ヴィンチの画集で、開かれた頁にはモナリザの謎めいた微笑み、モナリザ・スマイルが。彼女は幸せなのかしら?というわけだ。(中略)
 ダンストが人生哲学を百八十度転換し、ニューヨークのグリニッチ・ヴィレッジで新たな人生をはじめると母親に宣言する時、母親がおぞましいものでも見るような顔をするあたりに、当時のアートと生き方の先端=〈グリニッチ・ヴィレッジ〉が一九五三年当時の保守的な世界の住人にどう映っていたかがわかる。それは性的放縦と同義語なのだ。保守層を戦慄させる当時のもうひとつの言葉は〈ビートニク〉だ。そういえば、ロバーツの部屋にはジャック・ケルアックの写真が飾られている。』(キネマ旬報2011年12月下旬号 p.121より抜粋)
サルトルボーヴォワール(25日。ユーロスペース)はいまでこそ相手をとっかえひっかえが大人のたしなみとばかりに痴情のもつれ道をひた走るお国柄のフランスが、実は二次大戦頃まで女はおとなしく嫁におさまってろ的な考えが国中を覆い尽くしていて、その社会常識によって辛酸をなめさせられたことなんかがいろいろ発端となって頭のいい男女が常識化した通念をこれみよがしにひっくりかえす的な生活をくりひろげて物議をかもした過去の出来事をもとにした映画。主人公格のボーヴォワールは親友の女子が望まない結婚が原因の死を遂げたり(映画ではそういうふうな描写でしたけど、パンフには原因不明てあるから結婚とは関係ないただの病気かもしらん)、大好きな父親(やたら態度のでかい演劇かぶれの中年ニート。ヒモ男同然のくせして頑張る妻や娘を見下す)にほめられたい一心でがむしゃらに勉学にはげんで好成績をおさめ続けても「女だから」という理由でけなされ続けたりといった性別がらみの納得いかん事案に悶々としていて、そんなときに当時の社会通念にいっさいとらわれない生き様をしようとするサルトルに出会って意気投合して奇妙な同棲生活をしはじめる…んですが、このサルトルの提案してきた「契約結婚」てのが「誰とヤッても干渉しないかわりにそれをお互い正直に告白する」て内容でさ…。それはふつうにセックスフレンドなんで、結婚と銘打ったもんじゃなくふつうに同棲でよくねーか。この概念てサルトルボーヴォワールに対してさもお互いにとって平等で有益みたいにゆってるんだけど、ふつうにいろんなおんなとヤりまくりたいサルトル(つうか世の男すべて)にとってだけ都合のいいもんでさー、これで仮にボーヴォワールのほうも「いろんな男食いまくりたい」て欲求があるんならマジに平等な概念てことになるんだけど、提案されたボーヴォワールはしぶしぶ了承してるようだったし、レズるときもサルトルがほかの女にかまけてばっかいて寂しいときにだけ成りゆきでやってた(マジに下半身お盛んならサルトルがいようがいまいが自分からアグレッシヴにヤりに赴くはずだけど、映画中では女生徒から襲われる形ばっかだったもんな)みたいなかんじなんだよね。結局「平等」概念で目くらましをされながら男側に都合よく操られてるようにみえるんだが。まあサルトルのほうもボーヴォワールのヤった告白で多少は嫉妬してたようだけど、大切にしたい存在への思いやりよりも自分の動物的欲求を満たすことが至上とされる間柄はどうしたって結婚という制度にはそぐわないようにみえたんだが。友達でいいだろふつうに。サルトルはおそらく「いろんな女とヤりたいけどボーヴォワールも逃したくない」て身勝手な考えなうえ、ボーヴォワールサルトルに対して女遊びでの苦言を呈するたびに「じゃあ別れるからな!」みたいにボーヴォワールがホレてる弱みにつけこんでわがまま放題やりまくるんですけど、これは平等な男女関係ではなくてサルトルボーヴォワールに対して母親のような役割をこなすように狡猾にコントロールしてってるふうにもみえるんよね。男側の下半身事情にふりまわされてる時点で強圧的な父親支配とさしてかわりなくないか?相手を大切にしてるふうなこと言いながら実は自分にとってだけ都合のいい関係、というあたり前に付き合ってた野郎の件がよぎるな。付き合ってた当時は「なんかいやだ」と漠然と感じてたんだけど最近ようやくそれがどういうものだったのかまとまってきた。件の輩はおいらに「婚約した」ということをやたらに言わせたんですけど(考えなしにそれかるく了承してたワシもどうかと思うが…)、あれは自分が別れのつらさを味わうのがもう嫌だから法的な束縛を早急につくりあげたくて言わせてたんだな。それを実践するには頭のいい女には通用しないから、ああいう勤め先にいて克つ適度に頭の悪いおいら程度がちょうどよかったわけだ。自分が寂しさを感じずに済むよう、身近に置くにちょうどいいエモノだったってわけだな。いちどたりともイかなかったわけだ(ボーヴォワールサルトルとではイかなかったみたいだし。きっとサルトルだけが満足してボーヴォワールのまんこ満足は放置されるくりかえしだったんだろね。ボーヴォワールが我慢してあげてた的な)。物の見方とか勉強さしてもらったんで恩はあるんだが体のいい道具扱いされる人生はまっぴらです。この輩と別れた理由としていまも片思いしてる相手と出会ったってのも一因としてはあるんですがね。実際に付き合えなくともかまわんよ。彼を追ったことで自分がなんであるか知ることができたんで。それまでなんも考えずに生きてきたも同然でしたからね。もしも件の輩と別れなかったらこうして日記やついったやることもなかったかもしれんし。数々の展を通して芸術家たちの魂に触れることすらなかったかもしれない。サルトルボーヴォワールにもどしますが、あいかわらずサルトルが女遊びしまくってるときに講演旅行で赴いたアメリカでボーヴォワールがガタイのでかい男性作家とあっというまに恋仲に陥って(パンフのキャラ紹介でもボーヴォワールがはじめて「女の歓びを知った」相手とか書いてある)一時は指輪までもらって結婚も考えるんですけど、最終的にこの男とは別れちまうんですね。最後の史実クレジットでボーヴォワールはこの男性作家にもらった指輪をはめたままサルトルの横に葬られてるとか出てたんで、まあ多分マジに好きだったとは思うんですけど、自分の年齢が原因で彼の要望に応えられそうになかった(=男性作家のほうがボーヴォワールに対して「結婚したら子供がたくさん欲しい」とかノーテンキにゆってたんで、それができないとおそらく関係に亀裂が入るだろうと予測したんだろうと思う)からふつうに老後を見据えて保身(サルトルとの仕事人生)に走ったんだと思う。ボーヴォワールが彼と出会った際にもしも10歳若かったらおそらくアメリカに移住して男性作家と結婚してふつうに子供もうけて、またその視点から性差社会学みたいのも書いた可能性がなくもなかったんじゃないかな。うーん…でも男性作家のほうもかなり昔ながらの俺についてこい的な単純な男根気質なんで、仮にいっしょになっても妻のが人気者なことに耐えられなくなる可能性がなくもないかな。わからん。いまでこそ高齢出産てよくあるけど、当時は41となるといろいろ諦めたろうね。肉体的に若ければどんな苦難も肥やしにできたかもしらんけど、子供生めない以上は仕事に打ち込むしか…とすると築き上げたもんのあるサルトルとのバディ人生をおくるか…となるのはごくしぜんやもしらん。結婚出産しちゃうとそれまでの主張の説得力が欠けちゃうだろうしな。なにしろボーヴォワールの人生傾向については「高齢で選択を誤るとみじめな老後になる」件を考えずにいれなかったんだろうなーと思いました。サルトルに関しては性欲と愛の認識があやふやすぎて信用ならんやつですね。友達にいれば面白いんだろうけど深入りはしたくない相手ですな。女あさりを定食屋めぐり程度にしか思ってないよ。あと両者共「食うための銭稼ぎ」と「子育てという責任」をいっさい考えないでやってるとこが所詮貴族の遊びに過ぎないふうに思えてしかたなかった。ああいう天才は国が養うくらいがちょうどいいのかもしらんけど、すくなくとも前者を踏襲したうえでないかぎりは市井ではちょっと採用できない概念ですよね。3食毎日外食とかいう時点で不可能だし。サルトルボーヴォワールが遊び捨てた連中がニート化して2人に依存してるのもどうかと思った。平等な男女関係はどうした。ぜんたい日本的な観点からするとサルトルボーヴォワールの関係はこれの「情交」の関係ということになるんだろうか。「つらい思いをさせられてもいっしょにいたい」て思いが持ち続けられる相手が結婚と関わるんですかね。結婚はなんだかいろいろむつかしいよ。
 
 
  
  
  

上記画像はじゃんぽ〜る西さん三島衛里子さん漫画のモノですが、シャブロル映画(甘い罠のとこ参照)で優雅で静かしい画ヅラなのに唐突にキャラが奇妙な行動をかいまみせる悪意ニオわせ描写はああいう美的観念からつくられてるのかーとしみじみしたので。なんでもない日常生活してるふうなヒトが実は憎悪をたぎらせてる、みたいなのがフレンチ人はスキなのね。茶の湯に興味津々ならへうげものの利休の巻(暗い茶室で目だけ浮かんで対話する巻とか)なんかシビレるんでは。「表面では平静に装っていながら実は」みたいなのは京都人がお得意で、ニコニコして大歓迎してても箒の広がってるほうが上向きにされてると「さっさと帰れ」て意味とかだったりすんだよ。そうゆうのにシビレちゃうってフレンチ人いいかげんマゾすぎる。おいらそうゆう含みとかさっぱりわからんから歓迎されたら間違いなくあがり込んで数時間くつろぐね。そんなわけで来年の某イベント同行は外された。「京都いったらアナタなんか鼻であしらわれて終わりね!」とか夫人に吐き捨てられた。三島衛里子さんのザワさんは「心のなかは燃えたっているんだけど表層ではごくわずかな差異しかみえない」みたいなことの醍醐味をたんのうする筆頭漫画ですので必見ですよ。外人さんからすると日本人はリアクションが薄くて主張がないと思われがちですけどそうじゃないんすよ。三島衛里子はおとこウォッチャーとしてはものすごいレベル高い。嫉妬や鬱屈から嫌がらせしたり足を引っ張ってしまう男にすら慈しむ目を注いでるもんな。日本の男児をたんのうする漫画です。サルトルボーヴォワールとは関係ないんだがフレンチつながりでなんとなく書いといた。