道徳の授業はなんにも教えてこなかったんですねー

自殺者の多さが取り沙汰されるけど、その自殺者数の内訳に「死因をよく調べもせずに自殺として片付けちゃった他殺体」もあるんじゃないのかなーとちょっと思うことがある。もしも公表される自殺者数の半数以上が他殺体だったらと思うと警察の怠慢ぷりに背筋が寒くなるな。もしもの話だし、自殺者数を発表してる側をだれも調べられないから事実がどうなのかはわからない。なにしろ自殺者がある程度いることに変わりはないわけで、その原因のひとつに「責任のとりかたがわからない」ということがあるんじゃなかろうか。主君に仕える侍が失態やらかして腹切りするというアレにいまだにいっちゃってそれ以外にわからないんじゃないかなーという。自殺防止の手引きに「生きて責任をとる方法」をたくさん提示するとかどうか。それがヤでしんじゃうか。責任のとりかたの件にもどしますが、ひと昔前までは「子供がしでかした深刻なイタズラを謝罪するために関係機関に平謝りしてまわってる中の親の姿勢を子供がみて学ぶ」てことがつまり「親が責任をとる」て意味でしたけど、昨今あちこちにクレームつけてまわってふんぞりかえってる怪物親はそういう責任のとりかた(=ぶざまな姿)をしたくなくて周囲に罪をなすりつけてまわってるんでしょ。そうやって責任放棄して大きな顔してる人をまっとうに叱れなくなっちゃったことが今おきてるおかしなことの原因になってる気がする。社会道徳の根本は「責任のとりかた」であるってのが個人情報保護(←これは特殊な事例限定で適用するようにしたほうがいいと思う。人とのつながりをつくらなきゃならない時には弊害でしかないよ)の名目でどっかいってしまったんだろうな。バカな難癖つけてきたクレーマーを叱って追い返すくらいが「責任を負う覚悟のあるヒトの毅然とした態度」ということだと思うんだけど、そういうクレーマーの難癖をつっぱねることもできずにうのみにするっつーのはつまり「自分の仕事に誇りも責任も持ってない」てことに思えるんだよね。自分のしてることに自信がないから難癖も受け入れちゃうんでしょ。玄人としての矜持はどこへいったんだよ。スポンサーや株主ですらもそういうのに同調して黙らせようとするってのはまさに日本にろくな金持ちがでてこない原因そのものにも思える。過去のすごい仕事をした政治家や貴族的なヒトたちは自分のやることに誇りと矜持をもっていたと思うよ。そうやって毅然としているからヘンな難癖をつっぱねる学も意志もちゃんとそなわってただろうしね。それが培われてない状態で世界にはばたく偉人を育てようだの、まず無理じゃね。責任がらみでいえば「子供を守るため」と称して漫画規制を叫ぶ向きが親の負う責任うやむやにしようとしてる件じゃないけど、ほんとは自分が義務や責任を負わなきゃいけないものなのに、そこから目を逸らさせるために親子以外のなにか―創作物や遊具に罪をなすりつけてるふうにみえるんよね。そもそも社会学者がエロ本ばらまく社会実験したら性犯罪ドン減りしたって結果出てる(「飽和療法 マーシャル教授」で検索)らしいじゃん。それ無視してひたすらエロ漫画が!凄惨な描写が!て、がむしゃらに創作物を現実の犯罪における諸悪の根源に仕立て上げようとしてて笑える。規制叫ぶ向きに対して創作物の表現が自由で豊富な国のほうが性犯罪少ない事実をつきつけると黙りこんだり無視きめこむんだが、それはつまり自分らが怠慢に淫したいがために「責任を自分以外になすりつける」ことを善行と勘違いさせるようにしむけるのが目的でやってるふうにみえてしまう。映像にしろ描きものにしろ「自分たちの行いを客観的にみる」ことで現実に起こりうる事象として「マネしちゃう」のほかに「戯画化されたものをみせられて萎える」もあるはずなんだよねえ。映画であろうと漫画であろうと、どんなものであろうと「創作物で自分らの姿を客観的に知る」ということは学びであって、人間や社会にとっての糧そのものだと思う。それを迫害すべき理由などない。それを規制しようとする考えってさ、自分らの姿―特に醜い面―を認識させないようにするためにやってるふうにしかみえないんよね。「汚いものに目を向けるな」ってのはつまり「汚いものについて思考停止しろ」ということだろ。学力の世界ランキングにくいこもうっていっぽうで頭悪いままでいさせようとするって真にバカですね。自分たちの仕事や儲けをふやすために市民を頭悪いままでいさせようとする件といえば青少年保護育成条例で恋愛中でイチャイチャしてた高校生カップルを補導するってのは子供の自立や精神の自由を阻んでるふうにもみえるんですけどね。18歳以下をすべて児童として扱うってどんな束縛国家だよ。子供がらみでいえば児童ポルノ摘発記事で書かれる「押収された児童のわいせつ画像」もどっかの親がだしてた子供のプール遊び中の写真なのか、それとも拉致された子供がどうかされてるリアル重罪写真なのかわからない始末ですしね。子供がらみっておまわりさんが好き勝手やるための手段にされちゃってるよね。新聞にでる児ポがらみの記事とかいつも微妙に具体認識できなくされてる表現ばっかだぜ。事件解決する気も責任とる気もゼロの千葉県警のようなおまわりさんの不祥事つづきのなか、佐賀県が性暴力相談態勢を改善するための試みをはじめたてのはよいことですね。朝日の記事では性暴力の加害者は身内が多いと出てて、要するにDVだけど、エロ本なくせって叫んでる思想団体はエロ本なくせば家庭内での性暴力発生件数がへるとでも思ってるんだろうか。人間の醜い面から目をそらしつづけてバカになったお手本のような人たちですね。加害の立場になりがちな人が「家庭内での暴行するキャラ」を戯画として突きつけられて恥じ入って心をいれかえるようなことがあればいいけど、いまのふぬけテレビ番組じゃ流さないしな。テレビ番組といえばテレビ局の韓流攻勢に対する不買運動があったけど、やりだまにあげられるネタ(韓流どうこういうの)は些末なことで、その根っこは「テレビが取り上げないことが多すぎる」ことからくる不信感がたまってることにあるんじゃないかなと思ってる。整備されたキレーな側面しかやらないってどう考えてもおかしいしねー。「だれか」に怯えて人間のドロドロした面、死体や汚いものをいっさい映さないあたり、いったいどうしたんだテレビ?という疑念が噴出したのがあの不買運動なんじゃなかろうかと思う。「映すもの」と「映さないもの」のバランスがいくらなんでも悪すぎることはたしか。こういうふうにいうと誤解されるかもしらんけど、芸能人に在日さんが多いことを不自然に隠しつづけてきたこともちょっと原因してる気はする。売ってくためには時代の風潮から隠さざるをえなかったんだろうけど、そのわりに周囲の年輩者はわりと昔から周知だったり。公はみんなしってるのにいまだに公にはできないってなんなのか。そういうことを創作物なりなんなりでやるのが「大衆の求めてるもの」に応えるってことなんじゃねーのか。この点からするとテレビは大衆の声を無視しつづけてるってことになるね。